VOICE
『コア東京』2015年12月号編集後記
村田 くるみ(冬木建築工房、(一社)東京都建築士事務所協会杉並支部副支部長、編集専門委員会委員)
本誌で連載中の「まちの記憶を残したい」の下調べをしていて、太宰治の文章に出会った。「三島は、私にとって忘れられない土地でした。私のそれからは、八年間の創作は、全部、三島の思想から教えられたものであると言っても過言ではない程、三島は私にとって重大でありました」。三島の思想?……、私は太宰ツアーを組んで晩秋の三島へ出かけてみた。
駅前広場のベンチスペースが温泉地の足湯のような設えだ。水面を縁取るのはゴツゴツした多孔質の溶岩。三島は1万年前の富士山噴火の際に流れ出た「三島溶岩流」の上に存在している。広場の水は細い人工の流れとなり、来街者をまちへ誘う。やがて、鴨が遊ぶ菰池公園の湧水が「水上の小道」を経由して白滝公園へと続く。
ミニチュアの滝のように溶岩から細くしみ出る伏流水は富士山の雪解け水。下校中の中学生が澄んだ池に足を浸ける。11の文学碑を読み解きながらの小川。気づいたら私たちは水音に囲まれている。せせらぎに導かれて町を巡っている。
源兵衛川では、散歩道はついに水の上となり、飛び石、木橋を進むことになる。「水量たっぷりの澄んだ小川」が、「蜘蛛の巣のように縦横無尽に駆け巡り」、「家々の庭先を流れ、縁の下をくぐり、台所の岸をちゃぷちゃぷ洗い流れて」と太宰は書いた。
水源のひとつ小浜池は、楽寿園の庭園にある。明治23(1890)年築の元・小松宮別邸だ。京風の高床式数寄屋造りの建物は、屋内に段差や勾配が多く、案内人が「このバリアフリーの時代に」と済まながる。溶岩でできた地盤の起伏に寄り添って建てられているので、と言う。
 「三島の思想」、太宰は何を言いたかったのだろう。
村田 くるみ(むらた・くるみ)
冬木建築工房、(一社)東京都建築士事務所協会杉並支部副支部長、編集専門委員会委員
大分県生まれ/お茶の水女子大学文教育学部卒業/家族の駐在に伴い、アメリカ、オーストラリア等で専業主婦の後、子育てを終えてから建築士に