Kure散歩|東京の橋めぐり 第14回
厩橋
紅林 章央(東京都道路整備保全公社)
❶現在の厩橋(2023年、紅林撮影)
❷厩橋のエンドポスト(2023年、紅林撮影)
❸馬がデザインされたエンドポスト頂部のステンドグラス(2023年、紅林撮影)
ドイツ表現主義の傑作
 国内で唯一、ドイツ表現主義のデザインを取り入れた橋といわれるのが「厩橋」である。3連のアーチがリズミカルに連なる(❶)。橋梁構造は、橋長151.4m、幅員24.5m、支間長47.5m+56.4m+47.5mの3径間の鋼タイドアーチ橋である。「蔵前橋」、「吾妻橋」、「言問橋」など、上路(デッキ)タイプが多い蔵前・浅草界隈の橋梁の中にあって、「厩橋」の3連アーチは隅田川の景観にアクセントを与えている。橋の両端には楕円柱のエンドポスト(❷)が建ち、その頂部にはステンドグラスがはめ込まれている。このステンドグラスには、「厩」という橋名に因んで馬の図柄がデザインされ(❸)、夕暮れ時には馬の姿がぼんやりと浮かび上がり、橋のレトロな雰囲気を高めている。
❹初代厩橋を描いた錦絵(紅林所蔵)
厩橋の誕生
 江戸時代、この付近には幕府の馬屋があったことで名付けられた「御厩の渡し」があった。橋名はこの渡しの名に因む。
 幕末、政治的混乱や幕府の財政難から、江戸市中の橋梁は維持管理が滞り老朽化が進んだ。明治になると新政府は、これらの橋の更新に着手するとともに、財政負担を軽減するために、民間による新橋の建設を奨励した。「厩橋」はそのような新橋のひとつとして、浅草の日比野泰輔らが中心となり、新政府の許可を得て、1874(明治7)年に有料橋として誕生した。構造は橋長154.8m、幅員6.3mの和式の木橋(❹)であった。
❺鉄橋に架け替えられた厩橋(正面)(紅林所蔵)
❻鉄橋に架け替えられた厩橋(斜め正面)(紅林所蔵)
❼煉瓦造のアーチ橋脚と基礎井筒(「厩橋改築工事概要」『道路の改良』1930/昭和5年2月号)
鉄橋への架け替え
 「厩橋」は、1885(明治18)年7月3日に東京を襲った豪雨で、流失こそしなかったものの破損し、これが起因し1893(明治26)年4月に、「吾妻橋」に次いで隅田川2例目となる鉄橋に架け替えられた(❺、❻)。この際にわずかだが上流へ移動し、架橋位置は正確には厩河岸ではなく駒形河岸となったが、橋名は旧名の「厩橋」が継承された。
 橋長155.4m、幅員13.5m、中央径間は長さ60mの錬鉄製のホイップルトラスで両側には長さ45mの錬鉄製のプラットトラスが配されていた。ホイップルトラスは古いタイプのトラス構造で、国内の実績は、厩橋のほか東京の「高橋」(1882/明治15年)、鎧橋(1888/明治21年)の3例しかない。
 橋門構は、明治中~後期の鉄橋の特徴でもある鋳鉄製の飾り金具で彩られていた。橋脚は煉瓦アーチ構造で、基礎は外径4.2mの煉瓦井筒2基からなっていた(❼)。
 設計は東京府技師の倉田吉嗣と岡田竹五郎が共同で担った。鉄桁は、材料の錬鉄を英国から輸入し、IHIの前身の石川島平野造船所で製作し、架設は重機や作業員を鉄道局から借り受けて東京府が行った。また、橋台や橋脚は清水組(清水建設の前身)が請け負った。
 設計者の倉田は、1854(安政元)年に長崎市で生まれ、戊辰戦争では官軍の一兵として東北地方で交戦も経験した。その後、1875(明治8)年に東京大学の前身である開成学校に入学し、さらに東京大学理学部土木工学科へと進み、1880(明治13)年に農商務省に奉職した。3年後に内務省へ異動して東京府に配属され、「吾妻橋」等の設計を補佐した後、「厩橋」と「永代橋」を設計した。他にも市区改正事業や東京港築港、水道事業など幅広いインフラ建設に従事し、役所の仕事の傍ら、1885(明治18)年からは攻玉社工学校の教授、1888(明治21)年からは東京帝国大学講師などを兼任したが、46歳で結核により早世した。
 もうひとりの設計者の岡田は、1867(慶応3)年に東京で生まれ、1890(明治23)年に帝国大学工科大学土木工学科を卒業し内務省に奉職して東京府に配属され、倉田と共同で「厩橋」を設計した。その後埼玉県を経て1897(明治30)年に当時鉄道を所管していた逓信省に異動した。岡田はその後1915(大正4)年までの18年間を、新橋駅~東京駅間の煉瓦高架アーチ橋を建設する新永間建設事務所およびその後継組織の東京改良工事事務所の所長として歩んだ。他にも、上野駅~東京駅間、御茶ノ水駅~神田駅間など、都心の鉄道工事の大半に携わった。
❽関東大震災で床版が焼け落ちた厩橋(紅林所蔵)
❾鋼タイドアーチ橋に架け替えられた厩橋の写真(紅林所蔵)
❿鋼タイドアーチ橋に架け替えられた厩橋の橋梁一般図(紅林所蔵)。(この図面にはあるが、橋脚の基礎杭は施工されなかった)
⓫浅野造船所営業案内表紙を飾った厩橋のイラスト(紅林所蔵)
⓬厩橋橋脚基礎図面(国立研究開発法人 土木研究所蔵 2005年、紅林撮影)。大きな円が旧橋井筒、多数の小さな円が松杭(実際は設置されなかった)。
⓭厩橋構造一般図に記された設計者などのサイン(国立研究開発法人 土木研究所蔵 2005年、紅林撮影)
⓮厩橋のすっきりした上横構(2023年、紅林撮影)
関東大震災後の鋼タイドアーチ橋への架け替え
 1923(大正12)年9月1日に発災した関東大震災により「厩橋」も被災した。「厩橋」は地震の揺れでは崩落しなかったものの、「吾妻橋」や「永代橋」がそうであったように、鉄橋でも床版が木造であったため、床版が焼け落ちて通行不能に陥った(❽)。
 震災時には、「厩橋」は「吾妻橋」や「永代橋」と同様に架け替え工事中であった。復旧を担当する東京市は、新しい「厩橋」に前述した3連の鋼タイドアーチ橋を採用した(❾、❿)。橋の設計を主導したのは東京市橋梁課長の谷井陽之助で、鋼橋の製作はJFEエンジニアリングの前身の浅野造船所(⓫)が、鋼橋架設と橋脚や橋台の施工は栗原組が担った。
 土木雑誌『エンジニア』1930(昭和5)年3月号には、谷井や復興局橋梁課長の田中豊、成瀬勝武ら震災復興の橋梁事業関係者による座談会が掲載されているが、ここで厩橋の橋梁形式について以下のように論じられた。
 司会者:「厩橋は3つのアーチが上に出ていますが、あのアーチを下に入れるわけにはいきませんか」。成瀬:「それは周囲の土地の高さに関係する。周囲の土地が高ければアーチを下に入れることができる」。田中:「厩橋を(上路式アーチ橋で)設計したら難しい。よほど土地を上げなければ、どうも前に橋のあったところは難しい」。成瀬:「前に橋のあったところは、近い所に動かすことのできない家があって、アプローチを上げることができない。駒形橋みたいな新設橋は比較的楽ですよ」。
 以上から、上路式の橋を採用するか、下路式の橋を採用するかは、周辺の地盤の高さが判断基準となっていたことがわかる。厩橋周辺は土地の高さが低いため、上路式アーチ橋を架けると橋面は高くなり、つられてアプローチの既存道路も上がり、ひいては沿道宅地の嵩上げも必要になることから、選択されなかったのである。一方、新設の「駒形橋」や「蔵前橋」は、既存の道路がなく、加えて橋周辺は官有地のため盛土が可能であったため、橋面の高い上路式や中路式のアーチ橋を架けることが可能だったのである。
 震災前、東京市は「永代橋」などの架け替えに際し、新橋の候補として、タイドアーチ橋とゲルバー鈑桁橋の2案の模型を作製して公開し市民の意見を聞いた。今でいうパブリックコメントである。この2案について、1922(大正11)年3月4日の『読売新聞』は以下のように評した。
 「タイドアーチ橋は、市街橋としては体裁が悪く、外国ではこれを一般に鉄道橋と称えている位で、田舎町又は鉄道の通過する河上に架設されるもので……(略)……ゲルバー橋は最近欧米の都市に流行しているもので、市街橋としては体裁がいい代わりに経費が余計にかかる」。
 この新聞記事や座談会の司会者の発言などから、現在は景観的に優れた橋梁形式と評されるタイドアーチ橋も、当時は景観面から市街地に相応しくないと思われていた節が伝わってくる。明治期に架けられた「厩橋」などの下路式のトラス橋は、まるで籠に入れられたようだと東京市民の評判が悪かったというが、橋上に構造物が出る橋梁形式は、眺望が開けず閉塞感があるため、トラスであろうがアーチであろうが、好まれなかったのであろう。
 そのような中、3連のタイドアーチ橋を採用したのは、前述した地盤高の低さに加え、旧橋の基礎の取り扱いにあったことが推察される。水面下にある既存の基礎撤去は、吾妻橋を例に出すまでもなく大変な難工事を伴う。そこで旧橋の基礎は、撤去せずに新橋のフーチング内に埋め殺す形で設計された(⓬)。これにより支間長は旧橋と概ね同じとなり、周辺条件から橋面高を上げないことが条件となり、さらに防空や耐久性の理由などからトラス橋を排除したことで、消去法的にタイドアーチ橋が採用されたのではないかと推察される。
 なお、❿、⓬には多くの基礎杭(松杭)が描かれているが、『厩橋改築工事概要』(「道路の改良」、1930年2月号、東京市橋梁課 遠藤正巳技師)によれば、現場では、地盤が大変強固で打ち込みができなかったために、杭を設置しない直接基礎構造に設計変更された。
 橋面を歩く人や車にとって、閉塞感をいかに感じさせないようにするか。設計を主導した谷井はこの解を出すために、課長自らアーチなど主構造の設計を行った(⓭)。その結果、アーチとアーチを繋ぐ「上横構」の斜材を可能な限り少なくすることで、他の下路形式の橋にはないすっきりとした橋上空間をつくり出した(⓮)。
 このような対策もあり、今日「厩橋」を景観面から非難する声は聴かれない。隅田川唯一無二のリズミカルな3連のアーチは、隅田川橋梁群において構造的にも景観的にも不可欠の彩りを添えていることに、異を唱える人はいないであろう。
紅林 章央(くればやし・あきお)
(公財)東京都道路整備保全公社道路アセットマネジメント推進室長、元東京都建設局橋梁構造専門課長
1959年 東京都八王子生まれ/19??年 名古屋工業大学卒業/1985年 入都。奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『東京の美しいドボク鑑賞術』(共著、エクスナレッジ刊)