私のまち──向島の道を語る
墨田区北部・旧向島区の川の道、鉄の道について
和田 栄治(東京都建築士事務所協会墨田支部監事、一級建築士事務所エイワ企画)
いちばん新しい道の京成押上線高架線側道。
1936/昭和11年の向島区地図。廃線となった京成白鬚線跡が見える。
現在の旧向島区のエリアとその周辺。

 2019(令和元)年8月に、本所・向島支部が合併して東京都建築士事務所協会墨田支部が設立された50周年記念の催しが盛大に挙行されました。
 墨田区は1947(昭和22)年、旧本所区と旧向島区が合併して誕生しました。その墨田区の、南部と北部の景観について、次のように表現されることがあります。「南部(旧本所区)は直線の街、北部(旧向島区)は、曲線の街」。
 両地区とも、それぞれの歴史によって、特色あるまちなみが形づくられました。南部は計画的(人工的)につくられていますが、北部はあるがまま(自然)に形成された地域で、どう見ても、曲がりくねった畦道をそのまま残しつつ、明治以降に田畑の中に住居・工場・学校などが建てられていったと考えられます。

川の道
 北部には旧地名に「大畑」と呼ばれた地域があります。その地名からも想像できるようにこの地域は、田畑・畦道・水路(小川)が広がる長閑な田園地帯であったことは間違いのないでしょう。この地域は、隅田川を境にして西側から島状の洲が陸地化した土地で、謡曲「隅田川」の梅若丸伝説の時代背景となった平安時代より農業が営まれ続けられた地域なのです。近年復活した寺島村の江戸野菜「寺島ナス」が知られています。古より、人びとによって踏み固められた、曲がりくねった道からは、長い間、人びとの営みを支え続けてきた力強さ、確かさを感じ取ることができます。
 昔、水路であった跡が道(暗渠)になっているところも多々もあります。「川の道」といえるその滑らかな曲線は、リズムを感じ、心がホッとする風景ではありませんか?
 私が散歩するときに時たま楽しんでることがあります。道が入り組んで繋がっているので、思いつきでいつもと違う角を曲がり、気分転換を図りながら、目指すべき場所を目差すのです。曲線のまちならではの楽しみでしょう。
 また、近年、京成押上線の立体高架化事業の完成に伴い、側道として新しい道もつくられました。今のところ、この地区でいちばん新しい道です。
鉄の道
 もうひとつの道として「鉄の道」、すなわち鉄道について語らせてください。ここに1枚の地図があります。1936(昭和11)年製の向島区の地図です。マーカーされている道に注目してください。この道は、1928(昭和3)年から1936(昭和11)年まで存続していた向島駅(京成曳舟・八広駅の中間にあった)から、長浦–玉ノ井–白髭駅までの1.4kmの京成白髭線の跡です。
 明治以降、向島地区は鉄道網がたいへん発展している地域でもありました。東武鉄道が1902(明治35)年に千住–吾妻橋(現とうきょうスカイツリー駅)間の6.3kmを延伸開業(伊勢崎線)しました。2年後には総武鉄道両国橋駅まで乗り入れ(亀戸線)、それに伴い曳舟–吾妻橋間は廃線になりました。しかし総武鉄道が1907(明治40)年に国有化されたことにより、1908(明治41)年に再び敷設され、1931(昭和6)年に浅草まで延伸されて、現在に至ってます。
 その後、もうひとつの鉄の道、現京成電鉄が、1912(大正元)年に押上–市川(現江戸川駅)間を開業したことにより、向島地区を貫く鉄道網が形づくられることになりました。
 先にも述べたように、向島地区は昔から鉄道の利便性に恵まれていた地域なのですが、残念なことに地下鉄線はゼロです。半蔵門線を延伸する計画(押上~松戸方面)があるらしいのですが、「いつになることやら!」です。「曳舟–吾妻橋間の廃線、すぐの再敷設」、その顛末についてはまたの機会に。
和田 栄治(わだ・えいじ)
建築士事務所協会墨田支部監事、一級建築士事務所エイワ企画