伝統建築工匠の技 第6回
日本の伝統瓦技術
竹村 優夫(一般社団法人日本伝統瓦技術保存会、有限会社竹村瓦商会)
研修会での原寸図の作成。
架台に瓦を葺く。
文化財修理の現場。
わが国の瓦の考え方
 一般に瓦とは、粘土を成型して窯の中で1,000℃~1,200℃で焼き上げたものです。本瓦、桟瓦、平板など、さまざまな形状や寸法を変えて必要に応じてデザインされ、現在、屋根葺き材として採用されています。
 瓦は、飛鳥寺建立する際、西暦588年に朝鮮半島の百済より瓦博士4人を招来して、初めて日本で製造されたことが、日本書紀に記録されています。その瓦は、今でも元興寺極楽坊の本堂や禅室を、1400有余年、風雨から守っています。当初の瓦は、百済でつくられていた技術の桶巻という製法でつくられた瓦で、「行基葺き」と称され、後に「半行基」となり、そして「本瓦葺き」と変わっていきます。
 わが国において瓦葺きの歴史の中で、ふたつの特質が考えられると思います。
 ひとつ目は、葺かれた瓦が屋根に長く留めるための手法についての歴史であり、ふたつ目は瓦を葺くという施工上の経済性に対する歴史であると考えられます。
古代の瓦
 飛鳥時代や奈良時代には銅線はなく、鉄釘も豊富に使えない時代は、練土が唯一、野地と瓦の接着材となっていたと考えられます。そのころの大工道具の種類は少なく、屋根の曲線も自由に出せる技術はなかったことを思えば、寺院建築の屋根の曲線は下地に使う練土を工夫してつくられたものと思います。そのため瓦が葺き上がって5~10年も経てば土も収縮して耐力を失い、瓦との密着度はなくなり、瓦がずり落ちるのは当たり前というのが普通の感覚だったと考えます。
中世以降の瓦
 鎌倉時代に入ると、軒唐草や軒巴など少々大き目の穴が開いている瓦が見受けられるようになり、竹釘か鉄釘で打ち止める方法が考えられたと思いますが、一般的には流通されなかったようです。
 室町時代には軒唐草瓦の下部に突起が造られ、瓦座に引っ掛かるよう通られ、上部、両側に爪が立ちあげられ、そこに軒巴の内側につくられた節状のものが引っ掛かる仕組みを考えるようになります。
 しかしこれら瓦の工夫も桃山時代以降にはなくなり、軒巴、軒唐草に鉄釘用の穴がみられるようになります。
 江戸時代以降、巴釘で軒巴を打ち止める工法は普通に使われるようになり、明治時代に入り銅線をつくる技術が発達すると、軒唐草や軒巴等の要所を銅線で緊結するようになります。
桟瓦葺きの考案と瓦の普及
 先にも記しましたが、江戸時代初期までは本瓦葺きが当たり前の時代に、桟瓦葺きという瓦が延宝3(1675)年に西村半兵衛により考案され、三井寺で葺かれたという記録があります。本平瓦と素丸瓦を一体にし、お互いの瓦をかみ合わせることで風雨を防ぐ桟瓦の発明は、わが国独自の画期的なものだと考えます。
 桟瓦葺きは使用される瓦の種類が少なくなるだけでなく、本平瓦を3枚重ねで葺き並べた上に素丸瓦を葺き並べる本瓦葺きに対して、桟瓦を一枚ずつ葺き並べるだけで葺き上がることを考えると、工期は単純に考えて3分の1に短縮され、手間も軽減することができます。また重量も4割に軽減されます。
 享保5(1720)年、8代将軍吉宗により瓦葺きが奨励されたことにより、一般民衆の住宅の屋根に瓦葺きの需要が増え、さらに普及に拍車がかかることになります。
 現在、一般に見られる瓦葺きの家並みは、このような歴史を経て得られた結果であり、わが国の瓦の伝統的文化であると考えます。
日本伝統瓦技術保存会の創立とその使命
 わが国の伝統的な瓦葺き技術の工法を検証し、修理技術に反映させることは、国宝・重要文化財として残すべき伝統的なわが国独自の文化を、そのまま後世に伝えることであり、大事な使命と考えます。
 当保存会は平成3(1991)年、当時、文化財保存修理の奈良県、兵庫県、京都府の指名業者15社が集まり、芸術振興基金よりの補助金をいただき運営したのが始まりでした。昨年がちょうど創立30周年になります(記念式典はコロナ禍で断念しました)。
 文化財の保存修理で屋根瓦に関わる工事として、1年間に3府県で多くて40~50件くらいだと思いますが、保存修理技術について相互に意見交換する術が以前はありませんでした。
 諸先輩方の知識を吸収し、各地の瓦葺き屋根の地方色を検証するところから始まった保存会も、平成19(2007)年に、文化庁より本瓦葺きの技術の選定保存技術保存団体として認定をいただき、国からの補助金をいただき、本格的に運営できるようになりました。
若手技術者の育成
 今では正会員は14社ですが、正会員の従業員の中から研修場長1人を筆頭に、瓦葺き上級研修者8名、中級研修者15名、初級研修者3名と、造瓦上級研修者1名、中級研修者3名、初級高等科研修者1名、初級中等科6名、計37名が研修に励んでいます。
 また、門戸を広げてという外部からの要望に応えて、準会員制を設けました。現在5人の準研修生を迎え、さらなる充実のため研鑚を積んでいるところです。伝統技術の検証、伝承のみならず、これを継承してくれる若手技術者の育成も、大事な保存会の使命と心がけています。
 最初の研修は、原寸大の架台を、原寸図を描きながら研修生皆で組み立て、その架台の原寸図に瓦葺きの原寸図を描くことから始まります。それが描けるようになると実際に架台に瓦を葺いていきます。造瓦の研修生も一緒になって原寸図を描くことで、瓦の大きさ、鬼瓦の大きさ、切隅瓦の形状等々を把握でき、製造に活かします。寄せ棟屋根の露盤などもこのようにしてつくり、屋根に実際に載せられます。
屋根瓦の重さの意味
 平成7(1995)年の阪神淡路大震災は今も忘れることができない大変な被害を出した大きな災害でした。建物は軒並み倒壊し、その後の検証で屋根瓦の重さが問題視されました。それが原因で、それ以降の文化財の保存修理でも、すべて葺き土を使わない空葺き工法がとられました。
 本平瓦も、古瓦にはない、引っ掛け桟に引っ掛けるための尻剣が付けられるようになります。
 瓦葺きに練土を使うということが、大工さんで出せない棟や流れや軒先の微妙な曲線を表現するための大事な材料であるということを、現在どれくらいの瓦屋さんが知っているのか分かりませんが、伝統文化の重要な技術だと思います。
 瓦自体、「重量が重い」というのは、利点であり欠点ではないと私は思っています。瓦葺きする建造物は、それに応じた構造や使用材の大きさを持つことで解決することだと考えています。屋根葺き材による屋根の荷重を軽減することではなく、わが国の伝統的な土葺きの技術を習得し、保存修理工事に活かして後世に継承することが今は大事なことと思います。
 また、平城宮跡のように、現在はなにも地上に遺構が残っていなくても、地下には当時の瓦がたくさん眠っています。発掘された瓦から、その瓦の使われ方やつくり方を検証し、復元することも大事なことと思っています。
 「瓦」についてのあらゆる技術や知識を研修することを目的として、またその活動を皆様に啓蒙することが保存会の大事な使命だと考え今後も活動を続けていきます。
今後の課題
 令和2年12月、当保存会を含む14団体が「伝統建築工匠の技:木造建築を受け継ぐための伝統技術」としてユネスコ無形文化遺産に登録していただきました。このことは大変嬉しいことであり、同時に大変な責任を負うことになります。
 文化財の保存修理だけの技術でなく、一般建築の設計にも大いに取り入れてもらうことで、日々経験を積む場が増えれば後継者の育成に資することにもなります。
 昨今、住宅建築は左官工事が消えてクロス貼りに変わり、畳敷はフローリングに変わり、床の間つきの和室は消えて2LDKなる洋室となり、屋根は瓦がなくなり金属板に代わってきました。大工工事に至っては集成材やプレカット工法と機械化されています。この2年、コロナ禍で生活環境が変わり、新しい生活様式を見直されることで、伝統建築技術のフィールドが広くなることを期待するところです。
竹村 優夫(たけむら・まさお)
日本伝統瓦技術保存会代表理事、有限会社竹村瓦商会取締役会長
1953年 長崎県生まれ/1975年 日本大学工学部建築学科卒業/2001年 有限会社竹村瓦商会代表取締役/2018年 同社取締役会長
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