Kure散歩|東京の橋めぐり ㉜
葛西橋
紅林 章央(東京都道路整備保全公社)
❶荒川に架かる葛西橋全景。江東区側のたもとより見る。(2015年 紅林撮影)
荒川への架橋
 東京一の大河といえば、荒川をイメージする人が多いのではないだろうか。川幅は500mもあり、悠々と流れる荒川を見ていると、太古の昔からこの地を潤す大河だったことに何の疑いも抱かない。しかし葛飾区や江戸川区付近の荒川は、1908(明治41)年から1930(昭和5)年にかけて、内務省の青山士技師指導のもと開削された人工河川で、1930年以前の荒川は現在の隅田川を流れていた。1964(昭和39)年までは、岩淵より下流の荒川の正式名称は荒川放水路であった。
 昭和の初めに荒川(放水路)が開削されたことで洪水リスクは大幅に低減したものの、地域分断という新たな門題が生じた。しかも開削に伴い内務省が架設した橋梁はいずれも木橋で、震災復興を機に自動車交通に対応するために鋼橋や鉄筋コンクリート橋に一新された東京市(旧15区)とは大きなレベル差が生じていた。このため道路や橋を所管する東京府は、1924(大正13)年の「千住新橋」に続き鋼橋の架設を模索するが、橋長が長く多額の事業費を要したことに加え戦況の悪化から、戦前には「千住新橋」と「小松川橋」(1941/昭和16年)のわずか2橋の架設に留まった。
 戦後は、戦前に橋脚数基を建設したものの戦争で中断していた「四ツ木橋」が1950(昭和25)年に工事を再開し、1952(昭和27)年に開通。その後昭和30年代に入ると、ようやく橋の新設や架け替え予算がつくようになり、1957(昭和32)年には東京都第5建設事務所に橋梁建設の専管組織の橋梁建設課が設立され、以後荒川(放水路)への架橋が本格化した。1960(昭和35)年には「西新井橋」(橋長444.6m)、1963(昭和38)年には「葛西橋」(橋長727.4m)、1965(昭和40)年には「鹿浜橋」(橋長451.3m)、1966(昭和41)年には「江北橋」(橋長449.0m)、1967(昭和42)年には「堀切大橋」(橋長514.5m)、「平井大橋」(橋長616.0m)と相次いで長大橋が架設され、これにより23区北部、東部の交通の近代化が図られた。
 荒川(放水路)流域は、江戸以前に利根川が流れていたため地盤が軟弱で、橋梁の基礎に適するN値30以上の支持層は地下30~50mの深度に達するまで出現しなかった。橋台や橋脚を支えるためには、この深さまで杭を打つ必要があったが、当時はまだ橋梁の下部構造の技術基準がなく、施工法も確立していなかったためさまざまな工法が試験的に試みられた。たとえば、「四ツ木橋」では木杭と鋼管をコンクリートで繋いだペデスタル杭という合成杭が、「西新井橋」では当時最新の構造であった工場製作の鉄筋コンクリート中空杭が、「平井大橋」では短いケーソンの底に杭を打設した脚付きケーソンなどが用いられた。
 一方橋梁形式はゲルバー構造が多用された。これは、基礎構造に絶対的な信頼が置けなかったために、将来橋台や橋脚が沈下しても桁構造が不安定化せず、嵩上げなどの補修がしやすいようにとの配慮からであった。
❷開通直後の葛西橋。上流(写真左手)に旧葛西橋が見える。荒川と堤を隔てた奥が中川。(紅林所蔵)
❸桁架設工事中の葛西橋。(紅林所蔵)
❹葛西橋側面図
❺葛西橋の中央径間。(2015年 紅林撮影)
❻自碇式吊橋の清洲橋。(2023年 紅林撮影)
❼橋面のエキスパンション(桁の継ぎ目)。(2025年 紅林撮影)
❽桁の側面から見たエキスパンション(桁の継ぎ目)。中間部はゲルバー構造の吊り桁。(2025年 紅林撮影)
❾補剛桁部分と吊り桁部部分。
❿桁とピン結合された主塔下端。(2025年 紅林撮影)
⓫主塔上端とピン結合された箱構造の吊り材。(2025年 紅林撮影)
⓬セーヌ川に架かる葛西橋と同形式のダイデ橋。吊り材が箱構造ではない点が異なる。(岡山大学名誉教授 馬場俊介氏撮影)
葛西橋の特徴
 地下鉄東西線で荒川(放水路)を渡る際、上流側に曲線が美しい特徴あるフォルムの橋梁が眺められる。「葛西橋」である(❶)。この橋は、現在より300mほど上流に架けられていた「旧葛西橋」と中川を渡っていた「葛西小橋」(❷)を一本の連続した橋梁として、1959(昭和34)年12月から1963(昭和38)年10月にかけて架け替えたもので(❸)、主塔間の支間長は142m(❹)で建設当時東京最長を誇った。
 「葛西橋」の中央径間の外観(❺)は、隅田川の「清洲橋」(❻)とよく似ているため、橋梁形式は「清洲橋」と同様な「自碇式吊橋」に思えるが、実際は異なる。橋上を歩くと、中央径間に2カ所のエキスパンション(❼、❽)が見られる。さらに岸から桁の側面を眺めると、中央径間は連続ではなくゲルバー構造(❽)であることが分かる。橋脚から左右に張り出された桁を、主塔から張り渡した吊り材で吊って補剛し、中央部分に短い単純桁を架けた構造で、「ゲルバー式吊り補剛桁橋」という橋梁形式である(❾)。前述したように当該地は地盤が軟弱なため、将来の地盤沈下に伴う橋の変形を憂慮し、「清洲橋」のように1本の連続した橋桁ではなくゲルバー構造とし、地盤が沈下しても橋桁をジャッキアップしやすい構造としたのである。
 主塔の下端はピン結合(❿)で、主塔から吊った吊り材はケーブルや「清洲橋」のようなチェーンではなく、鋼材を箱構造(⓫)に加工したものが用いられた。
 私は「葛西橋」の「ゲルバー式吊り補剛桁橋」という橋梁形式は、世界唯一だと長年信じていたが、パリのセーヌ川のセガン島に渡る「ダイデ橋」(1928年、⓬)も同構造であると、岡山大学名誉教授 馬場俊介氏にご教示いただいた。ただし「ダイデ橋」の吊り材は箱構造ではないため、それを考慮すると世界唯一と言えるかと思う。
 基礎は、主径間はニューマチックケーソンを用い、側径間には国内で初めて鋼管杭が使用された。長さは50mもあり、これも杭基礎として当時の日本記録であった。
⓭鈴木俊男氏。(鈴木俊郎氏提供)
設計者 鈴木俊男
 設計者は東京都建設局橋梁建設課長の鈴木俊男(⓭)であった。鈴木は、1920(大正9)年に北海道で生まれ、1942(昭和17)年に日本大学土木工学科を卒業し東京市に入ったが直後に招集され、終戦を海軍技術大尉としてフィリピンで迎えた。1946(昭和21)年に復員すると東京都建設局の橋梁班に配属され、戦禍で損傷した橋梁の補修に従事し、その後「四ツ木橋」の建設担当に就いた。「四ツ木橋」は増田淳が設計し、東京府が1939(昭和14)年に工事に着手し戦前に橋脚が数基完成したが、戦争で工事は中断。戦後の工事再開にあたっては、国道6号の橋梁ということで、表向きは建設省施行という形がとられたが、当時新設されたばかりの同省には橋梁の設計や監督ができる職員はほとんどおらず、実際は鈴木ら東京都建設局の職員が建設省技官に併任されて行った。また日本を統治していたGHQから、「既設計のゲルバー橋は爆撃に対し弱い」との理由から単純桁への設計変更を指示され、鈴木がその中心の任を担った。
 その後鈴木は、1954(昭和29)年には国内2例目の合成桁となる「塩原橋」(墨田区)を、1955(昭和30)年には国内2例目の鋼床版橋となる「新六の橋」(江東区)と、わが国初の合成格子桁橋の「飯塚橋」(足立区~葛飾区)を設計。そして1957(昭和32)年に新設された橋梁建設課の初代課長に就任し、そこで「西新井橋」を皮切りに前述した荒川架橋を推進した。
 「葛西橋」の橋梁形式である「ゲルバー式吊り補剛桁橋」を思いついた経緯について、鈴木は後年土木雑誌『JSSC会報』(2000年4月)「長老に聞く」のインタビユーで以下のように答えている。「たまたま入浴中に湯気で曇ったガラスにいろいろな形式を指で描いている時に、ふとひらめいたのがゲルバー桁の突桁部分を吊補剛材で吊って長くするという方法でした。この発想がゲルバー式吊り補剛桁橋形式の基となり、風呂から上がって早速図面を描き、3週間くらいかけて設計計算法を考案し、いろいろ試算してみたところ、どうやら橋として使えそうだとの確信を得ました」。世界に稀なる橋梁形式は、風呂の中で生まれたのである。それだけ四六時中「葛西橋」の形式を考えていたということだったのであろう。この後、東京大学で光弾性実験や大型鋼製模型実験を実施して詳細設計を行い、完成後には裁荷試験により安全性を確認した。
 鈴木はこの橋の設計により博士号を取得。1976(昭和51)年に建設局技監を辞し、翌年に日本大学土木工学科の教授に就任した。
 「葛西橋」は開通から60年を経たが、構造の斬新さやフォルムの美しさはいまだに色あせない。荒川そして東京を代表する橋梁である。
紅林 章央(くればやし・あきお)
(公財)東京都道路整備保全公社多摩橋梁担当課長、室長、元東京都建設局橋梁構造専門課長
1959年 東京都八王子生まれ/1985年 名古屋工業大学卒業後、入都/奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/平成29(2017)年度に『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で、令和6(2024)年度に『東京の美しいドボク鑑賞術』で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『浮世絵を彩った橋』(2025年4月、建設図書刊)