
❶法恩寺。RC造の三重塔は1932(昭和7)年建立。背後に2012(平成24)年の東京スカイツリー。(2026年、紅林撮影)

❷江戸時代の法恩寺橋を描いた浮世絵(1925年、法恩寺橋開通記念絵葉書、紅林蔵)

❸1914(大正3)年に架設された木造桁橋の法恩寺橋。関東大震災で焼失した。(紅林蔵)
法恩寺橋の成り立ち
墨田区太平1丁目、蔵前橋通り沿いに石造の山門と石灯籠、そして「平河山 法恩寺」と刻まれた石柱が立つ。山門をくぐり路地を進むと両脇には寺院が軒を連ね、100mほどで「法恩寺」に至る。本堂の後ろにはスカイツリーが臨め、境内には1932(昭和7)年に建立された珍しい1層目が鐘楼のRC造の三重塔が目を引く(❶)。法恩寺は、太田道灌が1458(長禄2)年に江戸城を築造するにあたり、城内鎮護のための祈願所として、現在の平川御門あたりに建立したのが始まりと伝わる。家康の江戸入城にあたり神田柳原町に、その後に谷中清水町を経て1695(元禄8)年に現在地へ移転した。
この墨東地区屈指の古刹の名を冠した橋が、蔵前橋通りを都心方面に150mほど西進した大横川親水公園上に架かる「法恩寺橋」である。橋の歴史も古く江戸前期まで遡る。『文政町方書』によれば、初めての橋は1659(萬治2)年、橋長は7間(12.6m)、幅員は2間(3.6m)で、現在の墨田区周辺を整備する役所であった本所奉行所の徳山五兵衛、山崎四郎左衛門の監督により架設された。なおこの時期は「法恩寺」の移転前であり、橋名は異なっていたと思われる(❷)。
以後、明和、安永、天明、寛永、文化、文政、明治にも架け替え記録がある。関東大震災(1923/大正12年)の前、最後の架け替えは1914(大正3)年3月で、この橋は橋長25.2m、幅員14.4mの木造桁橋(❸)であったが震災で焼失した。

❹1925(大正14)年12月1日に開通した法恩寺橋の開通記念絵葉書。(1925年、紅林蔵)

❺法恩寺橋開通記念絵葉書(1925年、紅林蔵)

❻渡り初めに先立ち行われた法恩寺の僧による「橋梁清祓式」。(『法恩寺橋開通記念写真帖』、紅林蔵)

❼法恩寺橋渡り初め。(『法恩寺橋開通記念写真帖』、紅林蔵)
法恩寺橋の開通
現在の「法恩寺橋」は、関東大震災の復興で架け替えられた。事業主は内務省復興局で、設計者は復興局橋梁課の成瀬勝武技師が総括し、意匠設計は橋梁課の技術雇の坂東貞信が担当。工事は銭高組が請負、鋼桁は神戸三菱造船所が製作した。工事は1924(大正13)年9月25日に着手し、1925(大正14)年12月1日に開通した。工事日数はわずか416日間で、墨東地区の復興橋梁で最初に完成した(❹、❺)。このように早期に開通させた理由について、成瀬は報文「法恩寺橋」(土木雑誌『道路』1926年3月号)の中で、当時墨東地区は東京随一の工業地帯であったため、復興にあたって都心と結ぶ復興都市計画道路22号線(蔵前橋通り)の開通は急務であり、このため「復興局は架橋工事実施計画を立てるにあたって、特に法恩寺橋改築の緊急なるを認め、その実施と共に第一に本橋の架設に着手した」と記している。
墨東地区初の復興橋梁として開通式は盛大に挙行され、その様子は地元の7町会により『法恩寺橋開通記念写真帖』としてまとめられた。これによれば、開通式は先ず法恩寺の僧侶たちによる「橋梁清祓式」(❻)が執り行われ、引き続き行われた渡り初め(❼)では、出席者は復興局長官、東京府知事、東京市長、本所区長、府議会議長をはじめ800人以上に上った。

❽側面図(紅林蔵)
法恩寺橋の構造
「法恩寺橋」の橋梁形式は、ラーメン式橋台を持った鋼鈑桁橋(❽)で、「一ツ橋」と同様な復興局型橋梁と呼ばれるものである。橋長33.2m(うち、鋼桁部分15m)、有効幅員22.0m。復興局型橋梁は、橋台を「ロの字型」のラーメン構造とし河川内に造ることで、民地を取得することなく橋が構築できるよう工夫された構造で、これにより工期は短縮され開通を早められるというメリットがあった。「法恩寺橋」は当初計画では、基礎に木杭を打設して地盤改良効果により支持力を得ようとしたが、地盤が軟弱なため底面が拡がり河川内だけで収まらないことが想定されたため、対応策として当時最先端技術であった鉄筋コンクリート既成杭を強固な地層まで打設し橋体を支持した。

❾石張りのラーメン式橋台。(2025年、紅林撮影)

❿重厚な石造の親柱(2026年、紅林撮影)

⓫壁高欄の化粧パネル(2026年、紅林撮影)
法恩寺橋の意匠
「法恩寺橋」の最大の特徴は、黒色の石で彩られた重厚な意匠にある。ラーメン橋台はRC造のアーチ形状で、側面に石を貼り石造アーチ橋を模している(❾)。親柱(❿)は石造で尖塔アーチ形状。片側6基あり、最大のものは高さ2.4mで照明が設置されている。高欄は、ラーメン橋台上は石造の壁高欄で、アーチがくり抜かれた箇所には鋳鉄製のパネルがはめ込まれている(⓫)。このパネルは建設時からのもので、太平洋戦争で供出されず現存するのは東京で唯一である。一方、中央の鋼桁上は鋳鉄製の縦桟のシンプルな形状で、橋全体が重い印象にならず軽やかさを演出している。
震災復興橋梁の意匠は、それ以前の東京の橋梁の多くが、大きな親柱を持ち高欄や照明柱はアールヌーボーなどの様式で彩られていたのとは異なり、モダニズムに通じるシンプルなデザインが多用された。しかし由緒ある橋梁や名所に架かる橋梁については、装飾が施された。著名な橋梁が多かった都心部が、墨東地区の橋梁より装飾性が高いのはそのためである。「法恩寺橋」に墨東地区随一の意匠が施されたのは、前述した成瀬の報文の半分を「法恩寺」と「法恩寺橋」の由来に割いていることからも、橋梁の持つ歴史性が大きく影響したと推察される。
成瀬は前述した報文の中で、「法恩寺橋」の意匠について以下のように記している。「法恩寺橋の意匠は華美をあえて求めないが、構造物として都市の文化とその健康さと勃興的気魂とを失わないことを集めて意匠の設計をなしたのである。橋台の張石、路面上に現れる灯柱、高欄等の石材には相州小松石を使用している。従来の橋梁に使用されている石材はその十中八九は白色の花崗岩であり、しかも常陸稲田産の荒目の派手な花崗岩が用いられている。この石は細工の自由な点から見ても、産出の豊富な点から見ても、価格の安価な点から見ても、正に市場において唯一の品であるに違いない。しかもその出来上がりは白色に輝き一見して人を感心させるだけの素質を持っている。とくに落成した当座はいかにも新しい、きよらかな立派だという感じを与える。これはこの石材の持つ特徴であるが、遺憾なことに時によって多くの欠点を生じる。それは第一にこの色があまりに白すぎるからである。そして派手すぎて成金趣味を発揮している。白いものは清楚な感じは与えるが、いかにも寒い感じや冷たい感じを与える。色に暖かみを持たないのである。またこの清楚な感じは1個の独立した存在に関しては何らの不調和がないにせよ、都市の河川に架けられている場合にその都市が東京あるいは横浜の多くの運河であるならば花崗岩の白さは周囲の色彩に対してあまりに白すぎることが往々にして起こる。下手に形容してみれば、塵溜に鶴がいるような対照を生ぜしめる。これらを考慮してみれば我々の多くの場合に要求する石の色は、それほどに派手であることを望みはしないし、またそれほどに白いことも要求もしない。もっと白くなくてもいいから多少でも暖かみがあり、周囲との調和することが望ましいのである。本小松石を法恩寺橋に用いた理由はこの花崗岩の足らない箇所を補ったのである。小松石は野暮な、粗野な感触と色彩を持っている。橋面上の灯柱、高欄は、極めて実質的なものでゴシック風な手法で簡単に、ただ健実な扱い方で設計をなし、灯柱及び橋側にはブロンズ製の電灯金物を付し高欄金物にも半鋳鋼を使用した。」

⓬昭和30年代の法恩寺橋(紅林蔵)
その後の法恩寺橋
⓬は昭和30年代の「法恩寺橋」である。鋳鉄製の高欄と灯具は戦中に供出して失われ、鋼桁は戦中に塗装の塗り替えが滞り、さらに戦後大横川の汚染が進んだことで腐食が進行していた。このため昭和40年代になると、橋の架け替えが検討されたが、大横川の埋め立てが計画され、それに伴い橋の撤去も想定されたことから、それまでの繋ぎとして、健全だったラーメン橋台はそのまま使用し鋼桁だけの架け替えが選択された。鋼桁の架け替えは1982(昭和57)年に行われ、合わせて失われていた高欄や灯具も復元され、創建時の姿が蘇った。

紅林 章央(くればやし・あきお)
(公財)東京都道路整備保全公社多摩橋梁担当課長、室長、元東京都建設局橋梁構造専門課長
1959年 東京都八王子生まれ/1985年 名古屋工業大学卒業後、入都/奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/平成29(2017)年度に『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で、令和6(2024)年度に『東京の美しいドボク鑑賞術』で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『浮世絵を彩った橋』(2025年4月、建設図書刊)
1959年 東京都八王子生まれ/1985年 名古屋工業大学卒業後、入都/奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/平成29(2017)年度に『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で、令和6(2024)年度に『東京の美しいドボク鑑賞術』で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『浮世絵を彩った橋』(2025年4月、建設図書刊)
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