はじめに
台湾(中華民国)は、観光地としても人気があるが、建築コンバージョンの宝庫でもある。特に、日清戦争後の日本統治時代(1895-1945)に建てられた多くの建築が、コンバージョンされて利用されている。ちなみに、コンバージョンというよりはリノベーションというべきであるが、現在の台北の「中華民国総統府」(図❶)は、1919年に長野宇平治の設計に基づき竣工した「台湾総督府」を、戦災での破損を蒋介石が修復して使用し続けている。日本統治以前の清時代のまちなみである「迪化街」(図❷)などの保存再生活用もあり、さらに古くは、17世紀初頭のスペイン、オランダ、イギリスが残した建築の転用もある。日本統治時代の建築は、公共施設、オフィス、産業施設、居住施設など、多様な施設が転用されており、本稿では、それらを主な対象として、台北およびその近郊、台南、高雄の3都市について、台湾のコンバージョン建築の現状を概説する。台北
現在の台北駅から総統府近辺は、日本統治時代に格子状の街路に基づく都市計画がなされた市の中心部である。この地区には、行政施設、銀行、博物館などが建ち並んでいた。その中で、「国立台湾博物館 土銀展示館」(図❸、❹)は1933年に日本勧業銀行の台北支店として建てられた建物が、終戦後に台湾土地銀行本店となり、2010年に博物館に転用された事例である。外観は既存の状態がそのまま保存されているが、内部空間は、柱、梁、装飾などが丁寧に保存されつつも、床スラブの撤去など大規模な変更を経て展示空間へと転生した。「土銀展示館」の南側にある「二二八和平公園」内の「台北市二二八紀念館」(図❺、❻)は、1920年に放送局として建てられたが、1999年に、戦後の二・二八事件という、中国国民党政府による2万人を超える市民弾圧の惨事を展示する施設となっている。建築自体に大きな操作は加えられていないが、展示方式はなかなか工夫がなされている。二二八和平公園内には、1908年建設の「国立台湾博物館本館」(図❼)があり、コンバージョンではないが、台湾で最も歴史がある博物館であり、何より驚かされるのは、日本国内でも見ることができないような、ドリス式オーダーを備えた堂々たるグリークリバイバル建築であるということだ。台湾総督府もそうだが、日本の建築家が、台北において、自由に腕を振るっていた様子がわかる。
台北駅の北側近くに立地する「台北市当代藝術館」(図❽、❾)は、1919年に日本籍学童のためにつくられた小学校が、戦後台北市市役所に転用されて、さらに、2001年から美術館として利用されている事例である。既存建物はU字型平面で、外観上最も歴史的価値を持つ建物正面(U字の底辺)にあたる部分が美術館になり、中庭を含めた残りの部分は現在中学校として利用されている。転用に際して、内部空間は既存建築の構成を活かしつつ、適宜床を抜くことによって、適切な展示空間を生み出す操作が見られる。
中心部から東、当時の市の近郊は、多くの産業施設が建てられたが、さらに東の信義地区副都心が開発されて交通網も整備されることで、この地区が利便性の良い場所に変わったことで、産業施設のコンバージョンが進んだ。
「華山1914」(図❿ – ⓬)は、1914年に日本企業が建設した酒造工場群を大規模な商業複合施設に転用した事例である。展示施設に加え、ショップや飲食店、シアター等の商業施設が数多く含まれ、市民や観光客で賑わう。建物は、外壁の打ち放しコンクリートや煉瓦など、ほとんど当時の外観を保存している。大空間をもつ工場や倉庫は、イベント空間やシアターに転用され、小規模な建物は、飲食店や店舗に転用されている。また、建物間に鉄骨をフレームとするガラス屋根を架け、半屋外空間によって施設間の回遊性を高めている箇所もあり、そこでは、新旧の対比を強調した改修となっている。「松山文創園区」(図⓭ – ⓯)は、1937年建設の煙草工場が、1998年に営業停止した後に、デザイン博物館を含む諸処の文化活動、ショッピングセンター、レストランなどの複合施設に転用された例である。隣接して、近年、伊東豊雄設計の集合住宅が建てられた。
居住施設からの転用に目を向けよう。「国父史蹟記念館」(図⓰、⓱)は、1913年と1914年の2度、孫文が日本統治下の台湾を訪れた際に宿泊した旅館(1900年建設)が、地下鉄工事のために近くに移築されて、現在では記念館として、孫文関連の資料やパネルを展示する施設となっている。台北駅のすぐ東側に位置しているにもかかわらず、記念館周辺は、「逸仙公園」(逸仙は、孫文の号)という名の公園として整備されている。元の旅館は、畳敷きの大広間が中央に2室あり、その周辺を廊下が回るという極めて単純なつくりである。転用に際して、基本的には保存修復を行い、大広間2室を展示空間として使用している。周辺の庭園は移築時に整備され、管理等、便所なども和風に統一するという配慮がなされている。
「信義公民会館」(図⓲、⓳)は、工場従業員家族が暮らした住居群の内、4棟だけを保存し、展示館、カフェ、店舗、ギャラリーなどへと転用した事例である。建物は、切妻屋根の木造長屋であったが、現在は随所で鉄骨補強がなされて、内部空間は施設全体を通して、壁が少なく開放的な空間となっている。「URS155創作分享圏」(図⓴、㉑)は、清時代のまちなみの迪化街近くに1850年代に建設された店舗を、アーティストの創作・展示、講演会場へと転用した事例である。迪化街の伝統的な町家形式が持つ、間口が狭く、奥行きが長い、赤瓦屋根の煉瓦造の建物といった特徴を残しつつ、壁を白く塗り直し、保存活用がなされている。
台北近郊
台北の北郊外にある北投温泉は、台湾有数の温泉観光地である。この地区は、もともと硫黄の産地として知られ、17世紀から原住民族とスペイン、オランダとの間で硫黄取引がなされていた。1896年、大阪商人が北投最初の温泉旅館を建設し、1901年に鉄道も開設され、その後、温泉地としての開発が進んだ。「北投温泉博物館」(図㉒ – ㉔)は、1913年に建設された2階建ての公衆浴場を1998年に大掛かりな補修を行って博物館に転用した事例である。建築当時、東南アジア最大の公衆浴場であり、1階は大浴場、2階は木造の休憩エリアであった。戦後、放置されて荒れ果てたが、1998年に台北市政府は施設を修復して北投温泉博物館として再生利用することを決定した。古典主義と和風の共存が興味深い既存建築は、コンバージョンに際しては復元を基本とし、展示内容も興味深く面白い施設となっている。裏側には公衆露天風呂もある。「北投文物館」(図㉕ – ㉗)は、1921年建設の高級旅館が特攻隊招待所、映画撮影所として使用された後、修復工事を経て、展示施設に転用された事例である。800坪の敷地に、2階建ての母屋、別館、庭園からなり、一部は懐石料理のレストランとしても使われている。基本的には修復だが、企画展示室には展示ケースが新設され、風呂場は修復されて展示パネルと共に展示の一部となっている。
北投文物館の隣に建つ「少師禅園 台北北投張学良軟禁旧居」(図㉘、㉙)は温泉街を見下ろす高台に立地する和風旅館として建てられたが、さまざまな経緯を辿り、現在はレストラン及び個室温泉施設として営業している。1920年代に建てられた既存建築は、「新高旅社」という北投でも有名な日本旅館であった。1960年代には張学良が幽閉された場所として知られている。園内からの景色も素晴らしく、北投のまちなみが一望できる。特に足湯エリアや個室風呂からの眺めは最高で、北投一の景観風呂ともいわれる。山腹に張り付くように6つの施設があるが、一部は新築された施設である。
台北の北西郊外の海沿いの地、淡水は古い歴史を持つ。その「紅毛城」(図㉚、㉛)は、1629年にスペインが築城し、その後、オランダが改築を行い、さらにイギリスが増築棟をつくり領事館として使用した。1980年に台湾所有となり、現在では台湾に残る最古の歴史的建築として博物館として一般公開されている。
台南と高雄
台北が台湾北部に位置しているのに対し、歴史都市の台南と工業都市の高雄は台湾南部に位置する。台南の「国立台湾文学館」(図㉜、㉝)は、1916年に建てられた日本軍軍司令部が終戦後に州庁舎に転用され、2003年には文学館へと転生した施設である。転用に際して外観を保存・修繕すると同時に、中庭に新たに大規模な増築が行われている。それに伴い、内部では新旧の対比を活かした空間が随所に見られる。「高雄願景館」(図㉞、㉟)は、1940年から2002年までの間、高雄駅として使われていた建物を2003年に資料館へ転用した事例である。帝冠様式の意匠が特徴的で、高雄の歴史を物語る象徴的存在として保存されている。転用に際して建物は曵家によって移動されて、外観は基本的に保存改修された。
「駁二藝術特区」(図㊱、㊲)は、高雄港湾近傍に立地する倉庫群を展示施設や劇場、ショップ、飲食店を含む大規模な商業複合施設に転用した事例である。倉庫十数棟が改修され、その周辺では広場が整備され、さまざまなアート作品を展示すると共に、廃線をサイクリングロードとして利用するなど、大規模な面的な活用を行っている。倉庫の大多数は、展示施設に転用されており、外壁にペイントを施し、アート作品を飾るなど、各企画に応じて独自の演出を行っている。
「台湾製糖博物館」(図㊳ – ㊶)は、1901年に三井財閥が設立した大規模な製糖工場である。製糖工場一帯を、製糖工場の歴史を伝える博物館やイベントスペース、店舗、飲食店を含む商業複合施設に転用活用している。工場では外観や内観だけでなく内部の設備も当時の状態で保存し、鑑賞ルートを整備して展示空間をつくり出している。倉庫の一部は外観を保存しつつ、内部に新たに内装を施して博物館などに転用されている。
まとめ
転用事例の大半は日本統治時代に建てられた施設であるが、転用年を見てみると、ほとんどの事例が2000年以降の転用である。台湾においても、コンバージョン活用の意識の高まりは近年のことであるといえよう。また、日本統治時代の建築が長い時を経て有効に転生活用されていることは、たいへん喜ばしいことである。
小林 克弘(こばやし・かつひろ)
建築家、首都大学東京教授
1955年 生まれ/1977年 東京大学工学部建築学科卒業/1985年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程修了、工学博士/東京都立大学専任講師、助教授を経て、現在、首都大学東京大学院都市環境科学研究科建築学域教授
1955年 生まれ/1977年 東京大学工学部建築学科卒業/1985年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程修了、工学博士/東京都立大学専任講師、助教授を経て、現在、首都大学東京大学院都市環境科学研究科建築学域教授
記事カテゴリー:歴史と文化 / 都市 / まちなみ / 保存、海外情報
タグ:コンバージョン