世界コンバージョン建築巡り 第5回
シベリア・極東──各都市の歴史に応じたコンバージョン
小林 克弘(首都大学東京教授)
シベリア・極東略地図
ヴラジヴォストーク略地図
はじめに
 2016年9月に、ロシアの極東とシベリアの諸都市を初めて訪ねる機会があり、これらの都市でも、コンバージョンを多く見ることができた。本稿で取り上げる都市は、ヴラジヴォストーク、ハバロフスク、イルクーツク、トムスク、ノヴォシビルスクであるが、それぞれの都市発展の歴史も大きく異なる。各都市の歴史や特徴にも触れながら、コンバージョンの事例を巡りたい。


1. ヴラジヴォストーク市街地北東の丘の上にある「鷲の巣展望台」からの眺め。正面が、金角湾に架かる黄金橋、右奥がアムール湾。湾の東の半島から展望台にかけて、市街地が広がる。
2. ヴラジヴォストーク駅、1912年。
3. ヴラジヴォストーク駅前のリパブリック広場に建つレーニン像。
4. アルセーニエフ記念沿海州総合博物館。民間企業のオフィスビルとして建てられ、日系の銀行が使用したこともある施設からの転用。
5. 内部展示室。
6. アルセーニエフ記念沿海州総合博物館脇の路地。
7. 奥にあるカフェやショールーム。
8. プリモリェ・アートギャラリー。邸宅からの転用。
9. スヴェトランスカヤ通り沿いの古典主義建築上部増築のガラスのボリューム。
10. 物理療養大学。邸宅からの転用。
11. 官庁に転用された集合住宅。一風変わった古典主義建築。
12. ヴラジヴォストーク要塞博物館。アムール湾沿いの高台につくられた要塞が博物館となっている。
棟の間に隠された古い大砲が、外部展示となっており、触れることもできる。
13. ヴラジヴォストーク要塞博物館。
14. ヴラジヴォストーク要塞博物館内部展示室。
ヴラジヴォストーク──軍事拠点の観光地化に伴うコンバージョン
 この極東の都市は、ウラジオストックと表記されることがあるが、ここではロシア語音にて、東方(ヴォストーク)の君臨者(ヴラジ)に基づく表記としたい。ロシアは、18世紀には、カムチャッカ半島近辺に支配を広げて太平洋に達してはいたが、1860年に、よりアジア諸国に近く、不凍港であるヴラジヴォストークに軍事拠点を開くことで、長年の願望を果たした。この地は、西にアムール湾、南東に金角湾を望む(❶)天然の良港であり、開港直後から多くの商人が集まり、1867年には、現在の目抜き通りであるスヴェトランスカヤ通りも整備された。
日露戦争によって、大連や旅順を失ったロシアにとって、ヴラジヴォストークはますます重要性を増した。1912年には、シベリア鉄道の完成に備えて、ヴラジヴォストーク駅も現在の姿に改築された(❷)。現在、この駅は、明るい配色の古典主義をもって、極東にヨーロッパの雰囲気を生み出している。一方で、駅の前のリパブリック広場には、レーニン像が立ち(❸)、ここがロシアであることを感じさせる。
 ヴラジヴォストークは、ソ連時代にはロシア人ですら自由に入ることができない閉鎖的な都市であったが、近年では、極東における軍事や経済の中心であるのみならず、観光地化も進んでいる。そうした都市の変化に伴い、コンバージョンという視点で見ると、目抜き通りであるスヴェトランスカヤ通り沿いや、駅からスヴェトランスカヤ通りへと通じるアレウーツカヤ通り沿いの施設が多く転用されている状況を見ることができる。
 「アルセーニエフ記念沿海州総合博物館」は、1900年代に民間企業のオフィスビルとして建てられ、日系の銀行が使用したこともある施設であるが、現在は、自然・歴史・文化を展示する博物館となっている(❹、❺)。その脇の路地を入ったところにも、既存建築をカフェやショールームに転用した施設がある(❻、❼)。アレウーツカヤ通り沿いの「プリモリェ・アートギャラリー」(❽)は、2階建ての邸宅が近年アートギャラリーに転用された例である。
 スヴェトランスカヤ通りを東に歩くと、3層の古典主義建築の上にガラスの鋭角のボリュームを乗せるという改修を行った商業施設の事例(❾)がひときわ目を引く。更に歩くと、邸宅を大学に転用使用している「物理療養大学」(❿)があり、さらに東に歩くと金角橋近くでは、1938年に建てられた集合住宅が官庁に転用された一風変わった古典主義建築を見ることができる(⓫)。
 アムール湾沿いに立地する「ヴラジヴォストーク要塞博物館」(⓬ - ⓮)もなかなかユニークである。もともと湾に面した要塞であり、ほとんど地中に隠されていた施設を掘り出して外形を見せ、その周囲を湾を望む公園として整備しつつ、要塞内部において要塞時代の軍事関連の展示を行っている。外部展示では古い大砲などにも触れることができる。
 観光地化に伴って、ソ連時代に閉鎖されていた都市がこうした転用により変貌していく姿は実に興味深い。


15. ホテルパレス。1902年建設の出納庁の施設からの転用。2色の煉瓦が、初期のハバロフスクの建築の特徴。
16. ホテルパレス内部。
17. 図書館。1900年竣工の賃貸住宅からの転用。2色の煉瓦が使われている。
18. 子供文化宮殿。1909年に竣工した市議会堂からの転用。
19. 子供文化宮殿。アールヌーボーの影響が見られる。
20. 1912年竣工の賃貸住宅が商業施設に転用された事例。
21. スパソ・プレオブラジェンスキー大聖堂。一見古く見えるが2003年の竣工。アムール川を見渡す丘に建っている。
22. ウスペンスキー聖堂。ソ連崩壊後に再建。19世紀の建設であったが、スターリン時代に宗教弾圧により破壊されていた。
ハバロフスク──極東拠点の発展と変容
 この都市名は、17世紀後半にアムール川沿いを調査した探検家エロフェイ・ハバーロフにちなんでいる。その本格的な都市建設が始まるのは、1856年であり、ヴラジヴォストークの数年前である。ハバロフスクを極東地域の中心都市にすべく、当時のシベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフ=アムールスキーが都市計画を進め、その名は、市内の目抜き通り3本のひとつの通りの名称として残ることとなった。
 1880年ころからは赤煉瓦を用いた建設が始まったが、赤煉瓦が用いられた理由は、最初の時期はほとんどが軍事技術者の設計だったことによる。後に、灰色の煉瓦も焼かれ、この2色の煉瓦を用いた様式建築が、19世紀末から20世紀初頭のハバロフスクの特色となっている。1902年建設の出納庁の施設は、アムール河に近い立地で、2色の煉瓦の様式をよく残した施設であり、現在は「ホテルパレス」という名のホテルに転用されている(⓯、⓰)。アムールスキー通りに面し、1900年竣工の賃貸住宅が現在図書館に転用されているが、この施設も同様の様式である(⓱)。しかし、10年もしない1909年に竣工した「市議会堂」(⓲、⓳)は、こうした2色の煉瓦の様式建築ではなく、アールヌーボーの影響を受けたデザインに変化した。この市議会堂は、現在、「子供文化宮殿」という施設に転用されている。先の図書館に転用されている施設の向かいに建つ賃貸住宅(1912年、⓴)は、現在商業施設に転用されているが、これも2色煉瓦スタイルではなく、当時のデザインの変化が理解される。
 ロシア革命後は、一時期、反革命軍が支配して、1918年には日本軍のシベリア出兵によって日本統治となるが、その後1922年にソ連統治下におかれて都市開発が加速した。
 ハバロフスクというとロシア正教会の教会が有名だが、アムール川を見渡す丘に建つ、「スパソ・プレオブラジェンスキー大聖堂」(㉑)は2003年の竣工であり、ムラヴィヨフ・アムールスキー公園に面する広場に建つ、「ウスペンスキー聖堂」(㉒)は、もともと19世紀の建設であったが、スターリン時代に宗教弾圧により破壊され、ソ連崩壊後に再建されており、両者共に一見古く見えるが、実際は新しい。


23. スパースカヤ教会(1710年)。
24. ボゴヤヴレーニエ教会(1746年)。
25. ボゴヤヴレーニエ教会内部空間。
26. 聖十字架祭教会(1758年)。
27. 歴史的建築を巡るためのルートや建築に関する説明を記した案内板。路面にもルートが描かれ、たいへんわかりやすい。
28. 児童創造性会館。1897年建設の民間企業の事務所からの転用。
29. 州立図書館分館。1901年建設の邸宅からの転用。
30. 州立イルクーツク博物館自然館。1903年建設の個人の大邸宅からの転用。
31. 国立イルクーツク大学。19世紀半ばの邸宅が、知事公邸を経て、現用途に至った。
32. 「130地区」。伝統的な木造住宅が残る地区に、新築を加えて、商業施設地区に転用。
33. 「130地区」。
イルクーツク──バイカル湖観光拠点の歴史都市の整備
 バイカル湖に注ぐアンガラ川沿いに位置するイルクーツクは、1661年に砦の建設をもって、ロシアが支配する場所となった。その後、シベリアの政治的な中心であり、中国や極東地域との交易の中心として栄え、19世紀半ばには、本格的な都市計画および極東地域のロシア併合を伴って、ますます重要度を増した。市内には、18世紀前半に建設された教会群の、「スパースカヤ教会」(1710年、㉓)、「ボゴヤヴレーニエ教会」(1746年、㉔、㉕)、「聖十字架祭教会」(1758年、㉖)のほか、19世紀から20世紀にかけて建てられた独特のバロック的性格を持つ古典主義様式建築、さらに、古い木造住宅などが数多く残る。現在では、バイカル湖観光への拠点として、また、文化・歴史を備えた観光都市としての整備がなされ、街中では、歴史的建築を説明する案内板やルートが見事に整備されている(㉗)。
 コンバージョンという点では、19世紀から20世紀にかけて建てられた古典主義様式の建築の転用が多く見られる。
 いくつかの例を挙げよう。「児童創造性会館」(㉘)は、元1897年建設の民間企業の事務所が児童教育施設に転用された施設である。類似した例では、「州立図書館分館」(㉙)は、元は1901年に邸宅として建てられた建築を図書館として利用している例である。目抜き通りであるカールマルクス通りに面する「州立イルクーツク博物館自然館」(㉚)は、元は1903年に建設された個人の大邸宅であったが、現在は博物館に転用されている。カールマルクス通りがアンガラ河にぶつかる手前に建つ、俗称「ホワイトハウス」(㉛)は、元々19世紀半ばにイタリアの建築家によって建てられた邸宅であったが、その後、州知事の官邸となり、現在では国立イルクーツク大学が使用する施設になっている。
 こうした事例に加えて、イルクーツクでは、近年、伝統的な木造住宅が残る地区に、新たな施設を加えて、「130地区」(㉜、㉝)と呼ばれるレストランや店舗などからなる商業施設が整備された。既存の木造住宅と新築の混在ではあるが、新たな名所としてたいへん賑わっている。木造住宅単体であると転用用途も限定されるが、群として扱うことと、新築棟も加えることによって、面としての転用が成功した例である。


34. トムスク国立大学。1888年設立されたシベリアで最初の国立大学。
35. 市庁舎。1900年竣工の官庁建築を転用。
36. シベリア物理技術大学。1901年竣工の新古典主義の県庁舎を転用。
37. トムスク市博物館。丘の上の消防署からの転用。
38. トムスク市博物館周辺の公園に建てられた木造の展示施設。
39. 木造建築博物館。元邸宅を、博物館として公開。
40. トムスク市内に残る木造住宅。細部装飾が美しい。
41. トムスク市内に残る木造住宅。
42. トムスク市内に残る木造住宅。
43. トムスク市内に残る木造住宅。
トムスク──シベリア随一の学術都市
 トムスクは、シベリアの中でも歴史は古く、17世紀初頭に砦が築かれ、18世紀には次第に交易の拠点として発展し、格子状街路の都市計画がなされた。19世紀になるとますますシベリアの拠点都市としての重要性が高まるが、19世紀半ばに建設が検討されたシベリア鉄道が、敷設工事上の地理的な理由で、トムスクはルートからはずれたため、都市の発展の方向性を大きく転換して、学術都市としての発展を目指すことになった。1888年にシベリアでの最初の大学である「トムスク国立大学」(㉞)が設立されて、現在では複数の大学を有する美しい学術都市となっている。
 トムスクでは、学術都市への転換の時期に、木造建築が風土や景観に適してしているという認識も高まり、窓周りや軒や手摺りなどに、きめ細かい木造の装飾を伴った木造建築が多く建てられたことも大きな特色である。トムスクでのコンバージョンは、大きく2タイプに分けられる。ひとつは19世紀末から20世紀初頭に建てられた様式建築のコンバージョンである。たとえば、現在の「トムスク市庁舎」(㉟)は、1900年竣工の官庁建築を、市庁舎に転用した例であり、「シベリア物理技術大学」(㊱)は、1901年竣工の新古典主義の県庁舎を、大学校舎に転用した例である。
 もうひとつのタイプは、木造建築の転用活用である。かつて砦がつくられた市の北端の丘の上に建てられた一部木造の消防署が、現在は、「トムスク市博物館」になっており、その周辺は、公園として整備されている(㊲、㊳)。
 また、かつて邸宅だった建物が、現在、「木造建築博物館」(㊴)となっている。この施設は、細部に伝統的な装飾に加えて、建設当時ヨーロッパで流行したアールヌーボーの細部を備えている点も興味深い。いち早く、ヨーロッパでの流行を取り入れるという風土があったことの証しでもあろう。折角の機会なので、必ずしも転用事例というわけではないが、トムスクの美しい木造の写真を掲げておきたい(㊵-㊸)。


44. アレクサンドル・ネーフスキー教会小礼拝堂。20世紀末に再建。隣接する奇妙な現代建築との対比が興味深い。
45. ノヴォシビルスク駅。1930年代。
46. 州立郷土学博物館。
1910年建設の百貨店が転用された例。A.クリャチコーフ設計。
47. 州庁舎。
1933年の竣工。クリャチコーフは、構成主義的な近代建築デザインを採用。
48. クリャチコーフの像。
背後の新古典主義の集合住宅も、この建築家の設計。
49. サハリン州立郷土博物館。元は、日本統治時代に建てられた、旧樺太庁博物館。
50. 内部展示室。左のパネルには、間宮林蔵による調査のロシア語の解説がある。
ノヴォシビルスク──70年で100万人都市に成長した新都市
 現在西シベリアの中心的な都市であるノヴォシビルスクは、新しいシベリアの都市という意味であり、シベリア鉄道の建設の象徴のひとつとされたオビ川を渡る最初の鉄橋建設に伴って成立した都市である。1990年代末に町としての形を取り始め、オビ川鉄橋が1997年に完成すると、さらに東への交通の物流拠点となった。しかし、ロシア革命の影響で、本格的な発展は1930年代以降であり、特に第2次世界大戦中には、ナチス・ドイツの攻撃を避ける疎開地として成長した。現在では、人口は150万人を超え、モスクワ、サンクトペテルブルクに次ぎ、ロシア第3の都市であり、街の始まりからわずか70年で人口が100万人に達するという、歴史上もっとも早い人口成長を遂げた都市である。
 こうした新しい都市であるため、歴史的建築は少ない。最も古い建築物のひとつ、「アレクサンドル・ネーフスキー教会小礼拝堂」(㊹)も20世紀末に再建されたものであり、現在の「ノヴォシビルスク駅」(㊺)も、1930年代の竣工である。こうした中に会って、コンバージョンとして見るべきは、市の中心のレーニン広場に面して建つ「州立郷土学博物館」(㊻)であり、赤煉瓦の古典主義にゼツェッションを加味したようなデザインの百貨店(1910年)から転用された施設である。設計は、A. クリャチコーフという建築家であり、20世紀前半のノヴォシビルスクに、都市計画も含めて大きな貢献をなした人物である。クリャチコーフは、1933年竣工の「州庁舎」(㊼)では、構成主義的な近代建築の作品を残し、さらに、州庁舎に隣接して建つ共産党幹部のための集合住宅では、新古典主義を採用するという具合に、ロシアの20世紀前半の動きに敏感に対応しながら腕を振るった。この集合住宅と州庁舎に面する広場には大きなクリャチコーフの像が建てられ、その業績が称えられている(㊽)。
まとめ
 ロシアのシベリア・極東の都市は、政治体制の大きな変化の中で、それぞれの都市発展を遂げた。コンバージョンが生じる理由も異なる。今回の調査では、樺太のユジノサハリンスクにも立ち寄った。元々、日本統治時代に築かれた豊原という都市である。そこに、帝冠様式の博物館が残っており、現在でも博物館として使われている(㊾、㊿)。用途を変えながら、建築を使い続ける手法がコンバージョンであるが、この博物館の場合は、支配する国が変わり、都市も変化し、住民も変わったが、建築は同じように使われている。無論、展示内容は大きく変わっっているが、コンバージョンの逆の現象ともいうこともできるだろう。シベリア・極東の都市は、こうしたコンバージョンにまつわるさまざまなことを考えさせられるところである。

註 本稿においては、それぞれの建築の建設年・設計者などの基礎的な情報に関して、リシャット・ムラギルディン著『ロシア建築案内』(TOTO出版、2002年)を参照した。なお、使用写真は2016年9月の現地調査時に、筆者が撮影した。
小林 克弘(こばやし・かつひろ)
建築家、首都大学東京教授
1955年 生まれ/1977年 東京大学工学部建築学科卒業/1985年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程修了、工学博士/東京都立大学専任講師、助教授を経て、現在、首都大学東京大学院都市環境科学研究科建築学域教授