世界コンバージョン建築巡り 第17回
ハルビン、長春、瀋陽──都市の歴史と建築ストックを踏まえた三者三様のコンバージョン
小林 克弘(首都大学東京教授)
略地図
はじめに
 日本で、満州と呼ばれる中国東北部は、19世紀以降、清国、帝政ロシア、日本が入り乱れた複雑な歴史を持つ。中国東北部は、清を建国した女真族(満州族)の故郷であった。19世紀に帝政ロシアが次第に東北部に進出することを恐れた清は、漢族の東北部への入植を積極的に進めた。一方、日露戦争で勝利した日本は、次第に朝鮮半島と中国東北部へ進出し、1932年には満州国を立ち上げて、都市開発を進めた。
 ハルビン、瀋陽、長春などの主要都市は、複雑な発展の歴史に対応して、異なった特徴と都市光景を備える。本稿では、これらの歴史的背景の異なる3都市に見られるコンバージョン建築を巡る。ちなみに、中国では、旧満州国を正式な国家とは認めておらず、偽満州国と表現されるため、本稿で扱う施設の名称は、中国での表記に従うことにする。
1. ロシア人が建設したハルビンの中央大街
20世紀初頭に建てられた様式建築群が見事に残り、あたかもヨーロッパにいるような錯覚に陥る。
商業施設、ホテル、銀行などの多くは、用途を変えたものも含めて、今日でも使われ続けている。
それぞれの施設の歴史や沿革は、エントランス周りの外壁に付けられた銘板で、丁寧に記録されている。
2. ハルビン観光案内所
外観。中央大街の中ほどにある。元は松浦洋行という日系企業のデパート。
3. ハルビン観光案内所
内部。
4. 聖ソフィア大聖堂(ハルビン建築芸術館)
外観。1907年に着工し、元々はロシア兵のための教会として建てられたビザンチン様式の大聖堂が「ハルビン建築芸術館」になっている。
5. 聖ソフィア大聖堂(ハルビン建築芸術館)
天井ドームの見上げ。
6. 聖ソフィア大聖堂(ハルビン建築芸術館)
内部は現在、聖堂としての機能はなく、1階全体が展示空間になっている。
7. ハルビン建築芸術館分館
外観。1918年建設のユダヤ人礼拝堂を転用活用。
8. ハルビン建築芸術館分館
内部展示室。礼拝室が展示空間になっている。
9. 黒竜江省博物館
外観。1904年にロシア人が建設したデパートを転用。様式建築であるが、ゼセッション建築のような軽さも感じられる。
10. 黒竜江省博物館
エントランス・ホール。中庭を内部化したと思われるガラス屋根の明るい吹き抜け空間。
11. 東清鉄道ロシア役人公舎
アール・ヌーヴォーの影響が顕著である。現在は、ケンタッキー・フライドチキンの店舗。
12. ハルビン工業大学博物館
外観。元は、ロシア領事館。アール・ヌーヴォーの影響が見られる。
13. ハルビン工業大学博物館
内部展示室には、大学の歴史や研究成果やキャンパス模型などが展示されている。
14. 中華バロック歴史地区
中国人が多く居住していた地区。通り沿いの光景。
15. ハルビン麦田国際青年ホテル
中華バロック歴史地区内にある。通りから中庭に入ったところにエントランスをもつエコノミック・ホテル。
16. 中華バロック歴史地区の通りに面するホテル外観。
17. 中華バロック歴史地区の通りに面するホテル内部のアトリウム。
ハルビン──帝政ロシアと清国の建築ストックの転用
 3都市の中で最も北に位置するハルビン市は、現在では黒竜江省の中心都市であるが、歴史は浅い。19世紀末に清との間の不平等条約によって、ロシアがシベリア鉄道の敷設を始めたことが、都市発展の契機である。1909年のハルビン駅での伊藤博文暗殺、1912年の中華民国の成立と清国の滅亡、1917年のロシア革命による混乱などを経て、1931年の満州事変から日本統治が始まるが、ハルビンの都市開発や主要な施設の建設は、ロシアを中心とする西欧によって既になされており、それ故、ハルビンは中国の都市の中では、もっともロシア色が強く残る。
 ロシア人が建設した「中央大街」(1)には、20世紀初頭に建てられた建築群が、良好な状態で残っており、あたかもヨーロッパにいるような錯覚に陥るほどだ。商業施設、ホテル、銀行などの多くは、用途を変えたものも含めて、今日でも使われ続けている。それぞれの施設の歴史や沿革は、エントランス周りの外壁に付けられた銘板で、丁寧に記録されている。一例を挙げると、中央大街の中ほどにある「ハルビン観光案内所」(2、3)は、元は松浦洋行という日系企業が1920年に建設したデパートであった。
 中央大街近くの広場には、「聖ソフィア大聖堂」(4–6)が建つ。このビザンチン様式の大聖堂は、1907年に着工し、元々はロシア兵のための教会として建てられた。現在では、教会としては使用されず、「ハルビン建築芸術館」として一般公開され、内部には、模型やパネルなどを用いて、ハルビンの都市と建築の歴史が紹介されている。ふと見上げると荘厳な教会の空間が感じ取れる。
 この建築芸術館には、分館もある。それは、聖ソフィア大聖堂の近くに建てられた「ユダヤ人礼拝堂」(シナゴーク)(7、8)をコンバージョンした施設である。この1918年に建てられたシナゴークは、約百年経った2004年から修復が始まり、現在、「ハルビン建築芸術館分館」となった。礼拝室だった吹き抜けの空間およびその周辺の空間には、ハルビンにおけるユダヤ人関連の歴史や施設に関する展示がなされている。
 ハルビン駅の近くの「黒竜江省博物館」(9、10)は、1904年にロシア人が建設したデパートを転用した施設である。様式建築であるが、ゼセッション建築のような軽さも感じられる。エントランスは、中庭を内部化したと思われるガラス屋根の明るい吹き抜け空間であり、内部の展示も充実している。
 ロシアの痕跡は、随所に残る。黒竜江省博物館前のロータリーの向かい側近くには、東清鉄道のロシア役人公舎が、現在では、ケンタッキー・フライドチキンの一店舗となっており(11)、アール・ヌーヴォーの影響が顕著である。旧ロシア領事館であった「ハルビン工業大学博物館」(12、13)の外観でもアール・ヌーヴォーの影響が見られる。この施設の内部には、大学の歴史や研究成果やキャンパス模型などが展示されている。
 中国人が多く居住していた地区は、今日、「中華バロック歴史地区」(14)と呼ばれ、観光名所のひとつとなっている。文字通り、バロック的な華やかさをもった施設も建てられたが、地区内の通りは、より質実な街なみを形成し、多くの施設が、観光客向けのホテルや商業施設にコンバージョンされている。「ハルビン麦田国際青年ホテル」(15)は、通りから中庭に入ったところにエントランスをもつエコノミック・ホテルである。他には、通りに面して建ち、中庭をアトリウム化したホテル(16、17)は、なかなか良い雰囲気を醸し出している。
18. 長春駅
長春は1932年の満州国建設後に、首都となり、新京と呼ばれた。その際に、長春駅から南に延びる人民大街を軸線にした都市計画がなされ、帝冠様式の行政施設が建ち並んだ。
19. 偽満州国軍事部旧址
現在、吉林大学医学部付属病院。旧行政施設の多くは、壊されることなく、吉林大学が転用活用している。
20. 偽満州国経済部旧址
現在、吉林大学第三医院。
21. 偽満州国交通部旧址
現在、吉林大学公共衛生学院。
22. 吉林大学地質学部博物館(新皇居)
満州国の新皇居として近くの広場に面して建設されたが、終戦のため使われることはなかった。
23. 旧関東軍司令部
1934年竣工。日本の城のような外観であるが、現在、中国共産党吉林省委員会である。
24. 偽満皇宮博物院内の同徳殿
外観。愛親覚羅溥儀のための宮廷府であり、1932年から建設が始まった。映画「ラストエンペラー」の舞台にも使用された。
基本は、修復保存であり、コンバージョンとしての建築的操作があるわけではない。
25. 偽満皇宮博物院内の同徳殿
内部。
26. 長影旧址博物館
もともと、1923年に設立された日本の国策映画会社が東北部の生活や記録映画などを作成していた。2014年に、東北部の映画の歴史や撮影機材の変遷などを展示する博物館に転用された。
正面の広場に白い毛沢東の像(右)が立つ。
27. 長影旧址博物館
内部。展示デザインも凝っている。
長春──日本統治時代の建築ストックの活用
 吉林省の省都である長春は、19世紀初頭に清によって開かれた比較的新しい都市であり、1932年の満州国建設後に、首都となり、新京と呼ばれた。その際に、長春駅(18)から南に延びる人民大街を軸線にした都市計画がなされた。当時の満州国の行政施設は、新民大街と呼ばれる街路に沿って整然と配置され、その帝冠様式の建築群が建ち並ぶ様は、異様なほどである。
 現在、それらの旧行政施設の多くは、壊されることなく、吉林大学が転用活用している。いくつかの事例を挙げると、「偽満州国軍事部旧址」(19)は、「吉林大学医学部付属病院」に、「偽満州国経済部旧址」(20)は、「吉林大学第三医院」に、「偽満州国交通部旧址」(21)は、「吉林大学公共衛生学院」に転用された。近くの広場に面して整備された「新皇居」(22)は、終戦のため新皇居として使用されることはなく、「吉林大学地質学部博物館」として利用されている。いすれも保存有効活用に止まり、コンバージョン・デザインとしての魅力は乏しいが、新民大街沿いにこれらが建ち並ぶ光景には、圧倒される。さらに、1934年竣工の「旧関東軍司令部」(23)は、日本の城のような外観であるが、現在、中国共産党吉林省委員会の施設として有効に使用され続けていることには、驚かされる。
 「偽満皇宮博物院」(24、25)は、愛親覚羅溥儀のための宮廷府であり、1932年から建設が始まった。映画「ラストエンペラー」の舞台にも使用された同徳殿は、1938年に竣工した。基本は、修復保存であり、コンバージョンとしての建築的操作があるわけではないが、当時が偲ばれて感慨深い。
 「長影旧址博物館」(26、27)は、長春の中では、もっともコンバージョンらしい施設かもしれない。もともと、1923年に設立された日本の国策映画会社が東北部の生活や記録映画などを作成していたが、中国建国後は、「長春映画撮影所」として中国の映画製作を牽引することになった。2014年には、施設全体が、東北部の映画の歴史や撮影機材の変遷などを展示する博物館に転用され、内部の展示デザインもなかなか凝っており、興味深い。正面広場に立つ、毛沢東の白い像が象徴的である。
28. 瀋陽故宮博物院
1616年に後金を建国したヌルハチが瀋陽を都と定めた際に建設された宮殿が博物館として一般公開されている。
写真は、ヌルハチおよびその後継者の居住棟だった鳳凰楼の入口。
29. 張氏帥府博物館
東北部の有力軍閥、張作霖と息子の張学良が住んだ邸宅を、博物館として公開。
写真は1922年に完成し、邸宅敷地内で、いちばんの高さを誇る大青楼正面。
西洋の様式建築と中国風の細部装飾が共存する。
30. 瀋陽金融博物館
1930年にドイツ人建築家が設計した張父子設立の銀行「フロンティア・バンク」を、金融博物館に転用。街路沿いの正面。奥に大展示空間群が広がる。
31. 瀋陽金融博物館
エントランス・ホールの展示。当時の様子を原寸の人形で再現。
32. 瀋陽金融博物館
展示室。
33. 中国工業博物館
1933年に建てられた森田製作所という鉄工所を残しつつ、前面に増築を行い、大規模な工業博物館になった。新たに整備された正面増築部。
34. 中国工業博物館
旧工場内の展示。
35. 中国工業博物館
旧工場内、鉄西区の歴史を展示するコーナー。
36. 1905文化創意園
外観。満州住友金属の工場が商業複合施設に転用されている。
37. 1905文化創意園
内部空間。鉄骨の大空間の中に、RCの商業施設をつくり込んでいる。
瀋陽──歴史的建築と産業施設の転用
 遼寧省の省都である瀋陽は、歴史が古く、漢の時代から存在し、元の時代に現在の都市名が使われ始めた。女真族の長のヌルハチが、後金を建国した際、1625年には盛京と名を変えて首都となり、後金が清国と名を改めて北京に遷都した後も、第二の都として栄えた。19世紀末以降は、帝政ロシアおよび日本の統治下になり、満州国成立に伴い、奉天と名を変えた。中国建国後は、日本統治時代の工場群を活用して、中国における重工業の中心となった。
 こうした長い歴史を持つ瀋陽には、歴史的価値を持つ施設を博物館に転用している事例が多く見られる。「瀋陽故宮博物院」(28)は、ヌルハチが瀋陽を都と定めた際に建設された宮殿が博物館として一般公開され、瀋陽での最大の観光名所となっている。中でも、鳳凰楼は、ヌルハチおよびその後継者の居住地である高台の入口に立ち、当時の瀋陽でいちばん高い建物であった。
 「張氏帥府博物館」(29)は、東北部の有力軍閥、張作霖と息子の張学良が住んだ邸宅が、現在博物館として公開されている。広大な敷地に建つ複数の棟の内、1922年に完成し、いちばんの高さを誇る大青楼は、バロック建築の基本構成に、中国装飾の細部を加えた、独特の建築である。
 張氏帥府博物館に近接する「瀋陽金融博物館」(30–32)は、1930年にドイツ人建築家が設計したフロンティア・バンク(張父子設立の銀行)が、現在、金融博物館に転用されている。大通りに面したファサードからは想像がつかないほど規模が大きい。中国東北部の金融の実態や市民生活の展示に始まり、より広い金融関連のテーマを展示しており、規模のみならず展示内容においても、充実した博物館となっている。中庭や大空間などの既存の空間構成をうまく生かしたコンバージョンがなされている。
 瀋陽で注目すべきは、市の西側に広がる鉄西区と呼ばれる地区の大改造である。この地区は、ロシアから鉄道事業を引き継いだ満州鉄道が、鉄鋼業を発展させた地区であり、中国建国後もその遺産を引き継いで、中国有数の工場地帯となった。しかし20世紀末から、国営企業の効率性が悪く、地区全体が斜陽化した。21世紀になると、中国政府は、この地区を工業地帯から居住地に変える決定を行い、驚くべきスピードで、工場地帯は居住区に変わった。そうした大変化の中で、いくつかの工場が、コンバージョンされて転生している。
 そのひとつ、「中国工業博物館」(33–35)は、1933年に建てられた森田製作所という鉄工所を残しつつ、前面に増築を行い、大規模な工業博物館に変えた例である。既存工場部分では、大空間を残して当時の工場の様子や機材が理解できるような展示がなされている。他の例、「1905文化創意園」(36、37)は、満州住友金属株式会社の工場を、商業複合施設に転用した事例である。既存の構造と大空間を生かしつつ、部分的にはRC構造による増床も行われ、店舗・飲食から成る開放的な商業施設に変貌している。
38. ハルビン劇場
ハルビン郊外に建つ。ザハ・ハディドの下で修業した建築家、マー・ヤンソンが率いるMAD Architectsの設計。
39. 中国木雕芸術館
ハルビン街中に建つ。設計は同じくMAD Architects。
まとめ
 3都市を巡ってみると、同じ中国東北部の都市であっても、都市の歴史は異なり、生かすことができる建築ストックも異なることで、まったく違うコンバージョンの世界が展開していることが理解できる。ハルビンにおける帝政ロシアの建築遺産、長春における旧満州国の官庁建築群、瀋陽の歴史的建築や工場建築群──中国東北部は、中国と日本とロシアの建築が、転生しながら共生し続けている稀有な場所なのだ。
 一方、中国東北部では、興味深い現代建築作品も生まれつつある。ハルビン郊外に建つ「ハルビン劇場」(38)は、馬岩松が率いるMAD Architectsの近作である。マーは、北京の大学で建築を学んだ後に、イェール大学やザハ・ハディドの事務所で腕を磨いた。この劇場コンプレックスでは、ザハを彷彿とさせる激しい流線形の曲面が用いられている。同じくMAD設計の「中国木雕芸術館」(39)は、ハルビン街中において捻じれた曲面形を誇示する作品である。中国東北部では、稀有な歴史の上に、こうした大胆な現代建築が追加されつつある。
小林 克弘(こばやし・かつひろ)
首都大学東京教授
1955年 生まれ/1977年 東京大学工学部建築学科卒業/1985年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程修了、工学博士/東京都立大学専任講師、助教授を経て、現在、首都大学東京大学院都市環境科学研究科建築学域教授/近著に『建築転生 世界のコンバージョン建築Ⅱ』鹿島出版会、2013年、『スカイスクレイパーズ──世界の高層建築の挑戦』鹿島出版会、2015年など