バウハウス百年 第5回
バウハウス vs. ル・コルビュジエ──バウハウスとル・コルビュジエを比較する
加藤 道夫(東京大学名誉教授)
1914バウハウス前夜:ドイツ工作連盟での路線対立|「ドミノ住宅」の考案
 1914年にケルンでドイツ工作連盟の展覧会と総会が開かれた。後のル・コルビュジエことシャルル=エドゥアール・ジャンヌレ(1887–1965)も招かれている。そこで機械化を視野に入れた定型化を巡る論争があった。それがバウハウス設立当初の理念に大きな影響を与えたと考えられる1)、2)。
 ヘルマン・ムテジウス(1861–1927)は「工作連盟の綱領」で以下のように主張する。「建築及びその他のすべての工作連盟の活動領域は、定型化(Typisierung)をめざすものである」。対して、アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ(1863–1957)は次のように反論した。「工作連盟のなかに芸術家がなお存在し、その運命を決する力をいまなお担っているのならば、規範(Kanon)あるいは定型化をめぐるいかなる提案にも異議を申し立てるであろう」。
 対してル・コルビュジエは、同年に友人の技術者マックス・デュボワ(1884–1989)と「ドミノ住宅」を考案する。それは、第1次世界大戦後の復興をにらんだ住宅の定型(建設システム)の提案だった。彼は、ドイツ工作連盟に先駆けて定型化に向けた第一歩を踏み出したことになる。
(1918–)1919:バウハウス設立|ピュリスム画家ジャンヌレの誕生
 バウハウスは1919年にザクセン・ヴァイマル共和国の国立学校として設立される。初代校長は、ドイツ工作連盟でヴァン・デ・ヴェルデを引き継いだヴァルター・グロピウス(1883–1969)だった。その際に発表された「バウハウス宣言」には、美術(芸術)教育の刷新に向けた以下のような特性を読み取ることができる3)。1. 手工作職人の組合による諸芸術の総合、2. 美術学校の工房への同化/手工作への回帰である。この宣言に添えられた画家リオネル・ファイニンガー(1871–1956)の木版画には、絵画、彫刻、建築を示す3つの星に向かって聳え立つゴシック風の大聖堂が描かれていた。また、設立時の形態マイスターは、グロピウスとファイニンガーに加えて後述するヨハネス・イッテン(1888–1967)と彫刻家ゲオハルト・マルクス(1989–1981)の4名であり、機械化とはほど遠い布陣だった。以上のように設立時のバウハウスには工房教育による諸芸術の総合と機械化を伴う定型化に抵抗する手仕事への回帰という中世志向を読み取ることができる。
 対してル・コルビュジエは、バウハウス設立の前年にあたる1918年に、パリで知り合ったアメデ・オザンファン(1886–1966)と『キュビスム以後』を刊行し、ピュリスム(純粋主義)を提唱した。合わせてトマ画廊で二人展を開催する。ピュリスム画家ジャンヌレの誕生である。同書でも芸術の刷新が目指されるものの、その手段として科学と芸術の総合が謳われ、その媒介とされたのが工業だった。そこに機械化に対する抵抗はない。「科学と芸術が必然的に両立するという仮説は立てられていない。両者は、第3章で示すように、ひとつの等式の内に普遍化することをめざした。技術が異なるにすぎない。工業が科学に従い、科学の結論を実現する以外にないように、芸術は法則に従う」4)。
1919–(20–22)–23:バウハウスの確立|建築評論家ル・コルビュジエの誕生
 バウハウスにおける1919年から1923年までは教育機関としての確立期といえる。その間の成果をまとめたのが『ヴァイマルの国立バウハウス1919-1923』である5)。同書は、1923年の8月から9月にかけて開催されたバウハウス週間に併せて刊行され、1. 授業、2. 建築、3. 親方、職人、徒弟の絵画と自由作品の3部から構成され、8編のテキストと20点のカラー図版を含む多数の図版を含んでいた。
 そこに掲載されたグロピウスによる「バウハウスの理念(Idee)と組織(Aufbau)」からその教育課程の理念が理解できる。第1に「すべての造形活動の最終目標は建築(der Bau)である!」と建築を中心とする教育の組織化が謳われ、建築を中心とする同心円図式が描かれている。ただし、中心となるべき建築教程は1928年まで実現しなかった。第2に教育における形態マイスターと技術マイスターの協力である。「すべての徒弟と職人は同時にふたりの親方、つまり手工作の親方(Handwerks Meister)と形態教育(Form Meister)の親方のもとで修行する、両方の親方は教育の上で密接に協力し合う」。第3の特徴として形態マイスターの多様化が挙げられる。この期間にパウル・クレー(1879–1940)やヴァシリー・カンディンスキー(1866–1944)等が加わり、当初の中世志向とは異なる最先端の教育集団の形成につながった。
 対してル・コルビュジエは、オザンファンと『レスプリ・ヌーヴォー(新精神)』誌を編集し、その第1号(1920年10月)から第16号(1922年5月)にかけて、ソーニエことオザンファンとの連名の形でピュリスム美学を建築へと適用する一連の論考を発表した6)。そこでの建築論は以下のような一元的理解に収束する。1. 画家(造形芸術家)の眼差し:建築を幾何学的立体の構成として理解することに始まり、2. エンジニアの眼差し:効用性に基づく建築=機械を経由して、3. 眼差しの総合:全体からモデナチュール(と呼ばれる細部)に至るまで、一貫した幾何学的立体による建築=造形として捉え直す。すなわち、建築=造形に建築=機械が包摂されることになった。
 ここで注目すべきは、建築=機械として建築を捉えるエンジニアの眼差しが造形家の眼差しに包摂(一元化)される背景に、ル・コルビュジエが形成期に訪れたアクロポリスあるいはパルテノン神殿への憧憬があることである。さらにいえば、彼の建築論はパルテノン神殿を機械と関連づけて至上の造形と理解するパルテノン神殿論だった。ここには中世志向に基づいて反近代を含意するバウハウスとの差異が見られる。
(1922–)1923:バウハウスの転換点|建築家ル・コルビュジエの誕生
 1923年にバウハウスは機械化に向けた大きな転機を迎える。『ヴァイマルの国立バウハウス1919-1923』に掲載されたグロピウスの「バウハウスの理念(Idee)と組織(Aufbau)」から教育理念の転換を読み取ることができる。「バウハウスは機械を造形の最も現代的な手段として肯認し、機械と取り組んで行くべく努める(強調筆者)」。そして、「統一規格住宅」の図版が展示されるほか、「アムホルンの実験住宅」(1923)が建設・展示された。
 転換の要因は、バウハウス運営上の財政的問題に加えてふたつ考えられる。第1はイッテンの個性が強すぎたことである。彼の教育理念は、対象との神秘的交流を通して個人的救済を強調するものであり、内省的で外的世界とのかかわりを持たない。対してグロピウスは、より実践的で社会との連携を視野に入れていた。「私たちはひとりひとり、外的世界に抗して個人の才能を追求すべきなのか、あるいは工業との提携を求めるべきなのかを決定しなければならぬ」。結局、イッテンはバウハウスを去り、ラスロ・モホリ=ナジ(1895–1946)が後任を務めることになった。第2はデ・スティルの中心人物であるテオ・ファン・ドゥースブルフ(1883–1931)の影響である。1921年にヴァイマルに来訪した彼は、1922年にイッテンの影響下にある教育に対抗する課程を設立し、バウハウスの学生に多大な影響を与えた。ネイラーによれば、「バウハウスに表現主義を捨てさせ構成主義に向かわせたのは自分(ドゥースブルフ)だと確信していた」7)。
 対してル・コルビュジエは、『レスプリ・ヌーヴォー』誌に発表した建築論を1923年に『建築へ』と題して刊行し、彼の名を世に知らしめた。追いかけるように同書がル・コルビュジエ単著で再版され(1925)、規整線の適用例として「アトリエ・オザンファン」(1922)と「ラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸」(1923–25)の紹介が加えられた。
 1923年には、バウハウスとル・コルビュジエとの間にふたつの接触があった。
第1は、1923年のバウハウス週間に行われた国際建築展に、グロピウスの要請によりル・コルビュジエの作品群が展示されたことである。それらは、「300万人の現代都市」(1922)、その構成要素である「イムーブル・ヴィッラ(ヴィラ型集合住宅)」(1922)に加えて、住宅の定型(type)のひとつである「シトロアン住宅」(1920–22)とその派生としての「量産住宅」(1920)並びに「ベスニュス邸」(1922–23)だった8)。いずれもグロピウスの機械化への関心に呼応する作品群である。追いかけるようにル・コルビュジエは、同誌25号(1924年7月)に「機械の教訓」を発表し、かつて自然に見出した完全さを機械に再発見したと述べている6)。
 第2はバウハウスから『ヴァイマルの国立バウハウス1919-1923』が送付されたことに由来する。これを受けて、同誌第19号(1923年12月)の「教育法」では以下のように記した上で、グロピウスによる教育刷新に賛同している。「われわれは、ヴァイマルの国立バウハウス(建設のための国家的組織―正確にいうと翻訳が非常に困難)」と題された225頁の素晴らしいアルバムを受け取った」6)。
 同書には「新たな空間表現を開発」と記され、2枚のカラーの軸測図が掲載されていた。これらの軸測図は、同年にパリで開催されたデ・スティル展で展示された軸測図とともに、「建築的ポリクロミー」と呼ばれる彼独自の建築彩色を伴う軸測図利用のきっかけとなった。
 以上のように、1923年は両者が最も接近し、相互に影響を及ぼし合った時といえる。
(1922)1923–25:バウハウスにおける雌伏期間|ル・コルビュジエにおけるバウハウス支援と実作を通じた建築論の実現
 1923年以降、バウハウスはザクセン・ヴァイマル共和国の政権の変化により国立による運営が困難になり、デッサウに移転するまでの雌伏期間を迎える。この時期のル・コルビュジエは『レスプリ・ヌーヴォー』24号(1924年6月)の「建築学校の展覧会」の続・追記でバウハウスの危機に言及するだけでなく、同誌27号(1924年11月)に「レスプリ・ヌーヴォーはヴァイマルの『バウバウス』を支持する」を掲載し、閉鎖の危機にあるバウハウス継続を訴え、その記事と大臣にあてた抗議声明の写しをグロピウスに送付している6)、8)。
 並行して、彼は建築家として1922年からパリで自らの建築論の実現を進めた。1925年までに「ベスニュス邸」(1922–23)や「ラ・ロッシュ=ジャンヌレ邸」(1923–25)など複数の住宅が完成した。また、同年に標準(定型)化された住宅からなる「ペサックの集合住宅」が構想され、ここで「建築的ポリクロミー」が初めて用いられた。都市デザインでは「300万人の現代都市」(1922)に続いて、それをパリに適用した「パリ・ヴォワザン計画」(1925)が構想された。
図❶ バウハウス・デザインの一元化/ル・コルビュジエのデザインの多元化
1925年以降の展開:バウハウス・デザインの一元化|ル・コルビュジエのデザインの多元化
 バウハウスは1925年にデッサウに移転し、市立として再出発する。ここで興味深いのは、ヴァイマルでの教育課程を修了した徒弟の形態マイスターとしての任用である。ヘルベルト・バイヤー(1900–1985)、マルセル・ブロイヤー(1902–1981)など、後にモダニスムを代表することになるデザイナーの名を挙げることができる。こうした若い世代を含む教育集団は、過去に縛られない教育の刷新につながった。
 以下に、この時期のバウハウスの建築を見ておこう。それを代表するのがグロピウス設計による「デッサウのバウハウス校舎」(1926)である。それはこの時期のバウハウス建築における以下の特性を最もよく示している。1. 機能に応じて分化された建築ブロックの非対称な構成、2. ガラスのカーテンウォールの大規模な採用。3. 構造部材の露出や窓の開閉装置に見られる各種部材の機能や機構の可視化である。
 以上の特性は、コーリン・ロウが「透明性–実(literal)と虚(phenomenal)」において「実の透明性」と呼び9)、後述するル・コルビュジエの「虚の透明性」と対比されることになった。「デッサウの教員住宅」でも機能単位ブロックの非対称な構成が継承された(図❶上)。さらに興味深いのは、クレー、カンディンスキー、ムッヘの住宅のカラー・コーディネートが彼らによって行われたことである。その結果、ブロイヤーによる内装デザインに複数のカラー・コーディネートが共存する。それは、ル・コルビュジエの「建築的ポリクロミー」とは異なるやり方で内装の多様性を付与することになった。
 これに対して、この時期のル・コルビュジエの建築デザインは、単純な近代化へと回収不可能な多元化へと向かう。その代表例が「スタイン=ド・モンヅィ邸」(1927)である。1. その外観は、ファサードの対称性などコーリン・ロウが「理想的ヴィッラの数学」で指摘したような古典的特性が付与される。2. 外壁は構造的に自立するも、ガラスのカーテンウォールとはならず、箱のボリュームが維持される。3. 梁は床スラブに隠蔽され、多くの柱が壁に内挿される。4. 内部は、層化された浅い空間が連鎖する複雑な全体を構成する。ロウはその特性を「透明性–虚と実」においてキュビスム絵画と関連付け、「虚の透明性」と呼んだ9)(図❶下)。
 バウハウスとル・コルビュジエの違いは、1927年の国際連盟の設計競技応募案からも伺うことができる10)。翌1928年にバウハウスの学長を務めることになるハンネス・マイヤーの案は、装飾性や対称性を持たない機能ごとに分化された諸ブロックが非対称に組み合わされ、自己完結した機械装置のような建築であり、ノイエ・ザッハリッヒカイト(新即物主義)と呼ばれる彼の考え方を体現している。
 対してル・コルビュジエ案は、機能ごとにブロックが分化されるものの、それぞれの要素に対称性が付与されるほか、以下のような「虚の透明性」と呼ばれる複雑な構成が見られる。各ブロックが前面の湖から背景の山々に延びる景観軸に沿って直交配置され、それによって生成される浅い空間が景観軸を縫うように連鎖する。そして、1929年設計の「ムンダネウム」に至って、彼のモダニスムからの乖離は決定的なものとなる。その中心に位置する美術館に付与されたジッグラトを連想させるモニュメンタリティはカレル・タイゲをはじめとするモダニストから批判を浴びることになった。
 最後に家具デザインを比較しておこう。ブロイヤーの肘掛椅子「ヴァシリー・チェア」とシャルロット・ぺリアン(1903–99)、ピエール・ジャンヌレ(1896–1967)と共同でデザインされたル・コルビュジエの「背もたれが可動な椅子」は、いずれもシンプルな形状で似たように見えるかもしれない。しかし、大きな違いがある。前者は、鋼管を曲げることで接続箇所を減らすだけでなく、鋼管が接するように接合されている。工房教育で培った制作工程の熟知に基づいており、製作に高度な職人技を要しないという点で量産可能なデザインといえる。対して、後者は鋼管の接合箇所が多く、その接合には高度な技術が必要とされる。形状を優先した量産が困難なデザインといえるだろう。さらに「シエーズ・ロング(寝椅子)」では人体形状が導入され、機械的なモダンデザインとは対立するある種のエロスが付与されるに至った。
図❷ バウハウスとル・コルビュジエの比較
まとめ
 バウハウスは当初、中世志向の諸芸術の総合(多元的)を目指すものの、1923年以降に近代志向へと転換(一元化)する。それは手段における手仕事の重視から機械化への対応につながった。要約するなら、中世志向を出発点とし、その後、近代化に向けた発展過程をたどったといえるだろう。
 対してル・コルビュジエは、『建築へ』において機械を範とする建築=造形に収束(一元化)後、作品の実現を通じて多元化へと向かう。手段から見るなら、機械化を重視し規格化を推進するも量産化に至ることはなかった。その背後には一貫した過去(パルテノン)への憧憬が見られ、その痕跡が過去の断片的な埋め込みに認められる。
 以上のように両者のベクトルは、1923年あたりで交差しつつ、逆方向に向かう。
 以上の差異を図式化すると、右図のようになる(図❷)。
[註]
(1 マシュイカ, J. V. 著『ビフォーザバウハウス』、三元社、2015年。
(2 コンラーツ, U. 編『世界建築宣言文集』、彰国社、1975年。
(3 グローテ, L. 他編『バウハウス』、講談社、1971年。
(4 Ozenfant, A. et Jeanneret, C. E., Après le Cubisme, Altamira, 1999 (reprint).
(5 『ヴァイマルの国立バウハウス1919-1923』、中央公論美術出版、2009年。
(6 L' esprit nouveau, 28 vols, Éditions de l'esprit nouveau, 1920-1925.
(7 ネイラー, G. 著『バウハウス 近代デザイン運動の軌跡』、PARCO出版、1988年。
(8 Nerdinger, W., « Standard et Type : Le Corbusier et L' Allemagne 1920-27 », L' esprit nouveau Le Corbusier et L' industrie 1920-1925, Les Musées de La Ville de Strasbourg, 1987.
(9 ロウ, C. 著『マニエリスムと近代建築』、彰国社、1991年。
(10 Société des Nation Concours d' Architecture, Rotogravure S. E., 1927.
加藤 道夫(かとう・みちお)
東京大学名誉教授、東京理科大学客員教授、NPO法人Espace Le Corbusier 理事長
1954年 愛知県生まれ/1984年 東京大学工学系研究科建築学専攻修了(工学博士)/1984年 東京大学教養学部助手、助教授を経て2001年より教授/2019年退職/主要著書『ル・コルビュジエ 建築図が語る空間と時間』、丸善出版 2011年、『総合芸術家ル・コルビュジエの誕生 評論家・画家・建築家』丸善出版 2012年