バウハウス百年 第6回
バウハウスの継承──ウルム造形大学のデザイン教育
浅野 忠利
写真1 1966年当時のウルム造形大学:マックス・ビル設計(1966年筆者撮影)
写真2 工房・木材(1967年筆者撮影)
写真3 工房・金属(1967年筆者撮影)
図1 平面格子と立体格子(機関紙ulmより)
手工業職人の関わり
 ゲルマン民族は大移動後、衰退の一途をたどるローマ社会に融けこみ、着実に教勢を高める基督教を受け入れることによって欧州文化の原点に立った。中世前期(5〜10世紀)のことである。この時以来、ゲルマン民族は手工業職人の同職組合(ギルドまたはツンフト)を主役とし、中世都市を主導した。北西欧州を拠点として、石の地中海文化と異なる森のゲルマン文化を形成していった。19世紀に入ると、ゲルマンの職人たちは自ら社会民主党(SPD、1863年誕生)を創立し、現在のドイツを支える企業経営の基本となる共同決定法と職業教育制度を確立した。こうした職人の活動は、併せて、産業革命が齎せた生活環境の劣化を食い止め、改善を目指すデザインの世界を作り上げた。20世紀初頭のバウハウスや今回の主題である第二次世界大戦後のウルム造形大学のデザイン教育にも深い関わりを保持してきた。
バウハウスを戦後に引き継いだもの
 バウハウスがナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)により、徐々に活動の基盤を削がれてゆく過程の中で、マイスターと学生の多くは国外に活動の場を求めた。初代学長のワルター・グロピウスは米国ハーバード大学で教鞭をとる一方、マルセル・ブロイヤーと共に共同設計事務所TAKを開設し、創作活動を継続した。2代目学長を務めたハンネス・マイヤーは、バウハウスにおいて建築を本格的に展開したが、共産主義者であったがゆえに、ソ連に亡命し、1937年までソ連で活動したのち、スイスに戻った。3代目校長ミース・ファン・デル・ローエは米国に亡命し1938年から20年間、イリノイ工科大学建築学科の主任教授をつとめつつ数多の作品を残した。バウハウスで色彩論や形態論などを教えたモホリ=ナジ・ラースローやユーゼフ・アルバースなども米国に亡命し、イエール大学やシカゴデザイン研究所などで活動を継続した。学生の中でいち早く故国イスラエルに帰国、母国で活動を継続したアリエ・シャロンなど4名の建築家がいる。彼らが手がけたホワイトシティのプロジェクトは現在も継続中である。
 このようにバウハウスに身を置いた多くの人びとは、亡命などによってドイツを離れたが、ドイツを離れることなくナチスのもとで働き続けた人もいる。ナチスにあってフランツ・エーリッヒは強制収容所の設計などに従事している。エルンスト・ノイフェルトはバウハウス閉校後1936年建築設計教本を出版し、これがわが国も含め多くの国の建築設計の規範となった。このように多くのバウハウスに在籍した人びとは、20世紀の建築・デザインの世界に華麗な実績を残した。しかし、本格的にバウハウスの継承を図ったのは、唯一ウルム造形大学であった。
都市ウルム(現在人口12万の中堅都市)
 ウルムはドイツ南西のバーデン・ビュルテンブルグ州の東端に位置しドナウ河に面する。ドナウ河はドイツでは唯一東に流れ黒海に注ぎ込む。10カ国を流れ抜く国際河川である。中世には手工業同職組合(ギルド・ツンフト)の活躍により広域貿易都市として、ドイツ第2の都市に成長した。1377年には世界で最も高い塔を持つ教会として有名なウルム大聖堂の定礎が行われた、宗教改革にあたっていち早くプロテスタントを採択した。30年戦争などによる17世紀からの長い低迷期に耐え、19世紀には人口の回復とともに商工業は復興し、都市として大きな発展を遂げた。20世紀に入り2度の大戦で大きな犠牲を払った。特に第二次世界大戦では連合国の空爆による破壊は市街地の73%に及んだ。都市ウルムの再興の中核にウルム造形大学の創設が位置づけられた。
白薔薇は死なず
 ナチスへの抵抗運動体『白バラ』の構成員であった弟妹を大逆罪による絞首刑で失った姉インゲ・ショルは、平和への祈りを込めて、1946年にはウルム市民大学を開校した。続いて1950年、バウハウスの再興を願って、造形教育を目指す大学の設立を目的に、ショル財団を設立した。1952年ショル財団によって「ウルム造形大学」が創立されると同時に、アメリカ合衆国より100万マルクと資材援助などを得て、1953年念願の校舎着工の運びとなった。この時、大聖堂の前の広場や水車小屋で授業が開始された。時に学生19名であった。1955年10月には新校舎の竣工に併せ、ウルム造形大学の公式開校となった。
初代校長マックス・ビル
 初代学長マックス・ビルの主導により、バウハウスを継承し、バウハウスを超える前進を目指した。ドイツでは極めて珍しい私立の大学としての出発であった。より一層生活環境の質の向上に注力すると同時に、第2次世界大戦後のドイツの素早い経済復興を願って、「スプーンから都市計画」の幅広い分野への挑戦を標榜し、「美術と科学の統合」を目指す新しい造形教育機関を謳った。マックス・ビルは1908年スイスに生まれた建築家であり、あらゆるジャンルのデザイン制作に携わった。1927年から1929年にかけてデッサウのバウハウスで学び、ウルムを去った後も、生まれ故郷のチューリッヒで活発な造形活動を続けた。
教育体制
 4学科、4学年の構成である。学生は約150名、このうちドイツ人学生は40%〜50%で、ヨーロッパ諸国をはじめ。南北アメリカ、アジア、アフリカと世界の各国から集った。教授陣は学長、副学長以下10名前後の教授、6名の工房の技術指導者、50名前後の客員教授、加えて10名を超える助手(助教授を含む)総計約80名で、新しい造形教育に、戦後の夢を託したのである。カリキュラムは造形の基礎が身につけられるように、一つの課題に対して理論の週と実践の週が交互一対で用意されていた。理論の為には、豊富で充実した陣容が世界中から参集した。実践の為には木・印刷・石膏・金属・写真・樹脂の六つの工房(写真2、3)が用意され、マイスター(技術指導者)が配され、自由な学生の制作活動を支えた。
カリキュラムの概要
 ウルム造形大学の基本的なコンセプトは初代校長マックス・ビルによって導入された。カリキュラムの作成にあたっては、バウハウスの教育内容が参考にされ、マックス・ビルは当然として、ヨハネス・イッテン、ヨーゼフ・アルバース、ノンネ・シュミットなどかつてのバウハウス在籍者が関わった。基礎課程は当初各専門課程から独立し、各学科共通に位置づけられていたが、マックス・ビルが去った1958年からそれぞれの専門課程に組み込まれ、4年間の専門別の教育が行われるようになった。理論(教授陣による多彩な講義)と実践(主に工房における制作)の繰り返しの中で、色彩、形態、光などに関する造形技術の習得や造形理論の深耕が図られた。各学年約1,200時間の編成である。第一学年は基礎課程が、その他の学年は造形作業が中心である。学科は戦後のドイツ経済を支える産業との関わりを重視して設置された。各学科は独自に活動の場を切り拓き、実績を残していった。その活動の概要を以下に示す。
 プロダクトデザイン:教育目的は日常生活や生産活動など社会の広い分野で使用されるものの造形を通して、環境改善に資することである。ブラウン社の電気製品、ローゼンタール社の食器、ハンブルグの地下鉄など実用化された製品の数々は戦後のドイツ工業デザインの支柱となった。
視覚芸術:
 この学科は印刷部門と映像部門により構成されていた。印刷部門はグラフィックデザインを中心に写真、展示、パッケージなどを対象にした。後に情報技術を扱う部門が加えられ、サインや科学データ表示も対象とした。航空会社ルフトハンザのコーポレート・アイデンティティ、各種ポスターなどの広告、ショールームなどのデザインなどに実績を残した。
報道:
 マスコミ関連の人材育成を目指した。授業はマスコミの編集部、企業の宣伝部を想定した場が設定され、実践的訓練が繰り広げられた。メディア言語の習得などの基本に力を入れた。
建築:
 工業化された建築のみを対象とした。学生が既に建築に関する専門的素養を身につけていることを前提に、工業化に伴う諸問題を解決する能力を持つ建築家を育てることを目的とした。鉄筋コンクリートによるユニット工法の開発、PVC(ポリ塩化ビニール)パイプによるドームの開発、アングルスラブによる住宅システムの開発、リングユニット工法による住宅団地計画など多くの開発を世に問うた。実物大の試作実験を重ねた信頼性の高い優れた諸提案であった。
基礎課程
 基礎課程の理論と実践は、建築造形に必要な基本として、2次元・3次元空間の幾何学的知見を得ることを目的として展開された。バウハウスの影響が最も色濃く滲み出しているのがこの基礎課程である。格子による空間把握がその中心を占めている(図1)。平面格子・立体格子そしてその直接・間接の結合による空間把握と新しい空間創出を目指している。構成要素の依存関係や関連の影響の大きさを把握し、環境に秩序を与えることが目的である。基礎課程の手順は、色彩論や形態論などの理論の講義ののちに、課題が出され、作業時間が割り当てられ、厳守される。指導は個々の学生の作業に応じ個別に行われる。作品提出後の最終評価は学生も交えて行われる。
図2 平面格子の変形2、類型Ⅰ、1965年の学生の作品*(*印の図版は筆者資料より)
写真4 ふたつの平行する平面格子の結合、類型Ⅲ、1963年の学生の作品*
図3 構造体としての平面格子の造形、類型Ⅱ、1962年学生の作品*
写真5 宙に浮く立体格子構造の固定、類型Ⅲ、1962年学生の作品*
図4 宙に浮く立体格子構造の固定、類型Ⅲ、1962年学生の作品*
写真6 ふたつの立体格子による構造、類型Ⅲ、1965年の学生の作品*
写真7 中空体の立体格子構造の設計、類型Ⅲ、1963年の学生の作品*
写真8 構造物としての平面格子の造形、類型Ⅱ、1962年の学生の作品*
写真9 構造物としての平面格子の造形、類型Ⅱ、1962年の学生の作品*
基礎課程の課題と作品
 1962年を中心に建築学科の基礎課程の課題と学生の作品を紹介する。1962年の15課題は4つの類型分けられている。類型ごとの課題の概要は以下の通りである。
類型Ⅰ:平面格子と直接接合(6課題×12時間 計72時間)
 異なる基礎的平面格子設定の上、これを自在に連結したり、変形させたりする。格子の交点に集まる稜線の数に着目しながら、交通網などの作成に応用する。
類型Ⅱ:平面格子と間接接合(2課題×44時間 計88時間)
 異なる平面格子を立体的に重ね、繋ぐことにより生まれる空間のデザインを求める。
類型Ⅲ:立体格子と直接接合(3課題×44時間 計132時間)
 各種の架構体を立体格子として捉え、部品と継ぎ手の設計を求める。
類型Ⅳ:立体格子と間接接合(4課題×48時間 計192時間)
 立体格子と立体ユニットを設定し、その結合というプロセスを経て、合理的建築平面の設計を求める。
以上の課題に対して提出された学生の作品には、目を見張るほどの合理性と美しさを持つものが多く、作品にばらつきが少ないのに驚かされる。作品の例をいくつか紹介する。(図2〜4、写真4〜9)
図5 EXODUS(脱出)のポスター(1968年2月の機関紙ULM21より)
図6 ウルム造形大学の財政(筆者作成)
写真10 ウルム造形大学処刑のポスター(1968年2月機関紙ULM 21より)
廃校の事実
 1968年、ウルム造形大学はふたつのポスターで窮状を訴えた。ひとつは『EXODUS(脱出)』である(図5)。「脱出1」をバウハウス・ワイマールとし、ウルム造形大学を「脱出2」とした。他都市に受け入れを促したのである。ふたつ目は、『1968絞首刑hfg(ウルム造形大学)』(写真10)である。バウハウスのナチによる抹殺に準えたのである。
 ウルム造形大学が15年という短命に終った原因として、3つのことが考えられる。第1は当時西ドイツを襲った戦後最大の不況である。自動車産業は操業短縮にみまわれ、失業者も多く、国家財政、都市財政も逼迫していた。第2がウルム造大学の持つ反体制的な体質である。全学生数の50%は40か国からの外国人留学生で、教授陣も学生も各国の左翼思想の論客が多かった。第3が世界各国で頻発していた学園紛争のうねりである。ウルム造形大学は私立の大学でありながら、約7割を公的補助に頼っていた(図6)。廃校へのきっかけは公的機関が予算の執行を渋り出したことにある。存続のための色々な案が検討され、世界の主要都市から救いの手も差し伸べられたが、1968年12月5日州議会は素早くウルム造形大学の閉鎖を決議した。
ウルム造形大学の残したもの
 初代学長マックス・ビルはバウハウスの再興を目指したが、ウルム造形大学とバウハウスとの決定的な違いは、絵画や彫刻などの芸術領域の取り組みである。ウルム造形大学では芸術の領域が排除され、工業技術に重点が移された。残された実績は以下の3点にまとめられる。
カリキュラムの確立:
 年間を通して、理論と実践を交互に、そしてほぼ均等に配分することにより、相互補完により造形教育の質の向上を果たした。
造形理論の確立:
 実践と理論の一体化に努め、新しい学問分野(サイバネティックス・情報理論・システム理論・記号論・エルゴノミックスなど)をデザインの理論体系に取り込み、拡充した。
ウルマ―の輩出:
 ウルム造形大学で学び教えた人びと(ウルマ―)は50を超える国々で、造形教育に関わっている。今なお世界各国でウルムの造形理論は受け継がれている。
ウルム造形大学のその後
 閉校後在学生の勉学継続のためシュテュットガルト大学に環境研究計画所が設立された。1970年、ウルム造形大学の教育内容の主要部分はバウハウスの伝統を継承するオフェンバッハ大学に引き継がれた。1972年から2010年までの38年間、ウルム大学医学部が施設を使用したが、この間にウルム市がウルム造形大学資料館を設立した。2010年にはショル財団の後継であるウルム造形大学財団は施設の改修を行い、賃貸しによる財源を確保すると同時に、現在はウルム造形大学史料館内にウルム造形大学の歴史が常設展示されている。
終わりに
 1968年にはウルム造形大学の終焉に加えてパリ5月革命が記憶の奥底に鮮明に残っている。パリの5月革命では、学生の自治と民主化の要求に、勤労者も呼応して1千万人のゼネストへと広がった。結果、ド・ゴール退陣とフランスの教育制度近代化への道が開かれた。ウルム造形大学の閉校もパリ5月革命も共に、世界の学生運動を加速させた。情報関連技術の革新を背景として、イデオロギーや機能主義に代わって、個人の自由を尊び、多様性を重んじる新しい潮流の出現を促したのである。
浅野 忠利(あさの・ただとし)
1937年 岡山県生まれ/1961年 早稲田大学建築学科卒業後、(株)竹中工務店入社/1967〜1968年 西ドイツウルム造形大学留学、助手//1984年 (株)竹中工務店住宅本部長/1999年 同社常務取締役等(都市開発、集合住宅中心)/2004〜2007年 都市再生研究所理事/2005〜2010年 相互住宅(株)顧問/現在、NPO屋上開発研究会顧問、NPO建築技術支援協会会員、NPO文化日独コミュニティー会員、同友クラブ理事