建築コンバージョンの盛んな上海
今回はアジアの都市に目を移し、まずは複雑な歴史をもつ上海を取り上げたい。上海というと、まず思い浮かべるのは、黄浦江の東側に位置する浦東新区に象徴される高層建築の建設ラッシュであろう(1)。その光景を見ると、この都市では、基本的にスクラップ&ビルド型の都市開発が主流で、コンバージョンという発想は存在しないのではないかと思う方も多いかもしれない。一方、上海を訪れたことのある方は、この都市には歴史的な建築も多く、いくつかの新しい観光名所が既存建築のリノベーションやコンバージョンによって誕生しているという事実にすぐさま気づくだろう。
上海は、長江の河口付近に位置し、その支流である黄浦江沿いの漁村であったが、1840年のアヘン戦争および1842年の南京条約の結果、イギリスをはじめとする列強諸国の租界地がつくられ、都市としての成長が始まった。明治維新直前に上海を訪れた高杉晋作らの目には、日本も一歩間違うとまた同じ状況になりうるということを理解するための反面教師的な教訓を与えた都市でもある。
一方、租界地となることで、上海には、イギリス、フランスの文化が入り込み、特に黄浦江を挟んで浦東新区の対岸に位置する外灘は、今でも、当時の面影を最もよく残した場所になっている。1920年代から30年代にかけての都市の中心部の町並みが数百メートルにも渡って綺麗に残っている点では、この外灘は世界有数の場所である。
外灘近辺に見られるコンバージョン
外灘に建ち並ぶ歴史的建築は、事務所建築やクラブハウスが大半であるが、事務所建築は複合商業施設に、著名なクラブハウスはホテルに転用されている場合が多い。1916年竣工の「外灘3号」(2、3)は、外灘地区に数多くの作品を残すことになる英国系設計事務所パーマー&ターナーによる上海での初仕事であり、外灘に建てられた最初の鉄骨造のオフィスビルでもある。この建築は、近年、マイケル・グレイブスのデザインに基づき、高級店舗、ギャラリー、レストラン、スパ等が複合した高級商業施設へと変貌を遂げている。外観は保存修復されたが、内部では吹き抜けを活用したグレイブスらしいポストモダン調の空間を見ることができる。近接する「上海クラブ」(4、5)もかつて著名なクラブハウスであり、1971年にホテルの一部に転用され、近年の再改修の末、現在では背後に建つ「ウォルドルフ・アストリア・ホテル」の顔として用いられている。「和平飯店北楼」(6、7)は、英国生まれのユダヤ人で上海の不動産王といわれたヴィクター・サッスーンという人物が1929年に建て、上部に自邸、中間階にクラブ、ホテル、サッスーン自身のオフィス、低層階に貸オフィス等から成る複合施設であり、サッスーン・ハウスとして知られていた上海のランドマークであった。1956年に全館がホテルに転用され、2010年から数年かけた大改修を行い、名門ホテルとしての価値を更に高めた事例である。
外灘の南端に立地する「水舎」(8 – 10)は倉庫をホテルへと転用したユニークな事例である。外壁は既存の壁面を主として残しつつ、上階に増築を行い、新設要素に鉄とガラスを使用して対比関係を表現している。エントランス・ロビーの吹き抜け空間では、古い倉庫の素朴さを残し、客室は洒落たファッショナブルなデザインにまとめることで、素朴さとお洒落なデザインの対比を最大限効果的に利用した優れたデザインとなっている。
外灘から西側のイギリス租界内には、かつて競馬場がつくられており、そこが現在では人民広場となっている。「上海美術館」(11、12)は、もともと競馬場に付属する競馬クラブハウスであり、その後、レストラン、博物館、図書館を経て、2000年に現在の美術館に改装されるという転用の歴史をもつ。内部に既存の大空間が多くあったため、展示空間への転用が比較的容易になされている。
「人民広場」から少し南には、低層集合住宅を商業施設に転用し、観光名所のひとつになっている「新天地」(13、14)がある。外国人向けの集合住宅であったため、それなりの高級感があり、新築の施設も加えながら街区全体を高級商業施設に転用することに成功している。一方、その近くの「田子坊」(15、16)は、より庶民的な低層住居や小工場が建ち並ぶ街区であったが、1999年に、ある芸術家がアトリエを開設したことに始まり、次々にアトリエやアートショップが転入して、結果的には街区全体が路地型の商空間へと変貌した。
旧フランス租界に見られるコンバージョン
かつてのフランス租界地域は、黄浦江西側に内陸に向かって東西に広がる形に形成され、この地域には大邸宅をはじめとする多くの居住施設が建設されていた。現在では、規模の大きな邸宅はホテルに転用されている例が多く、やや規模の小さい邸宅はレストランとなっている例が多い。これらの転用の多くも2000年以降に行われている。旧フランス租界に建つ「Pei Mansion Hotel」(17、18)は、中国系アメリカ人建築家イオ・ミン・ペイが青年時代を過ごした邸宅を、近年プティホテルにコンバージョンした事例である。後に中国銀行頭取になるペイの父は、中国の激動期には、広州、香港、上海を転々とした。ペイの上海の邸宅では、細部にアールデコ調の装飾を伴った西洋建築の伝統と中国の中華文様とが興味深く融合しており、転用に際しては、そうした既存邸宅の面影や細部を残す努力がなされ、静謐な佇まいという魅力を保持したホテルとなっている。
「衝山馬勒別野飯店」(19)は、既存建築は、競馬ビジネスで財を成したイギリス人事業家のマーラーが1936年に建てたヴィクトリアン・ゴシック様式風の個人邸宅である。その後、事務所として使われた後に、近年ホテルへと転用されている。
個人の邸宅がレストランに転用された事例は、極めて数多く存在する。多くの場合は、基本的に既存の外観を保存するが、「Ambrosia 仙灸軒」(20)は、ガラスを多用した増築を行うことで、現代性の創出を試みている。「D・V・Woo邸」(21)は、東欧出身の亡命建築家ヒューデック設計の住宅であり、アールデコから国際様式への移行を示すデザインが見られる点が興味深い。後に、事務所として使用された後、レストランになり、現在は再び事務所として使用されている。レストランへの転用事例としては、1921年に建てられたフランス修道院を、礼拝室を含めて全館、レストランにコンバージョンした「上海老站」(22)などもある。
「上海Urban酒店」(23、24)は、既存建築は住宅ではなく、1970年代建設の郵便局事務所をホテルに転用した事例である。街路沿いに設けられた門を入ると、竹林を含む樹木と共に静かな空間が広がる。この事例の特色は、再利用材を多用して、環境配慮型の建物が意図されていることである。受付周りの古い鞄を積み上げたような象徴的な壁をはじめとして、壁面のレンガやタイル、床の木材などでは再生建材や古建築の建材を用いつつ、空間構成全体においてもデザイン性の高い建築にまとめられている。
産業系施設のコンバージョン
上海中心部の周縁あるいは郊外では、工場や倉庫等の施設からのコンバージョンを数多く見ることができる。蘇州江に面した「四行倉庫」(25、26)は、1937年の第2次上海事変の激戦場となった歴史的遺産である倉庫建築が、事務所建築へと転用された事例である。外壁はほぼ保存され、内部では、既存の駆体、鉄製扉、階段周りなどの既存要素を残しつつ、そこに新たなボリュームやガラス壁を挿入することで新旧の対比が試みられている。
「ピア・ワン・エム・スイーツ」(27)は蘇州江沿岸のビール工場がホテルへと転用された事例である。既存建築物はヒューデックによるアールデコ建築であり、その特徴的な外観は保存され、立地する公園内のランドマークとしての役割を果たしている。
「M50」(28、29)は蘇州江沿いの工場群を、ギャラリーを主とした芸術系複合施設へと転用させた事例である。既存の外壁にも新たな要素を付加することで、外部空間にも新しさを生んでいる。内部に関しては、天井を既存のまま使用して、床や壁の新設で展示空間をつくっている施設が多い。
市中心部の南側に立地する「BRIDGE 8」(30 – 32)は工場群をオフィス、ギャラリー、店舗、イベントホールなどの複合施設へと転用した事例であり、街路をまたぐブリッジが大きな特徴である。敷地内を巡る動線は異なる用途の棟を貫くように計画され、またところどころにミーティングスペースが設けられている。建物の外壁および敷地内の舗装は、既存建築物や上海市内で発生した建築廃棄物のレンガを再利用することで、積極的に古材の要素を取り入れたデザインとなっている。
郊外では、さらに規模の大きな産業施設のコンバージョンを見ることができる。
「1933老場坊」(33 – 35)は、1933年に建設されたアジア最大の食肉市場を、店舗やイベントホールといった複合商業施設へ転用した事例である。2棟ある建物のうち、コンクリートの独特の外観をもつ棟は、極めて特殊な平面形状をしており、同心円状の3層構成を基に、外側にショップ、中心部に縦動線、その間に吹き抜けと両者を繋ぐブリッジをもつ。中心部の最上階は、足下に吹き抜けを望むガラス床のイベントホールとなっている。
「上海城市雕塑芸術中心」(36 – 38)は、20世紀半ばの鉄鋼工場群をギャラリー、オフィス、カフェなどの複合施設へと転用した事例である。中央に大きな広場をとり、その周囲に既存建築物の増改築および新築を加えた全体構成である。最も大きな建物には、既存のS造大空間に3層のRC造のボリュームが挿入されており、展示空間とオフィスなどを併存した用途の組み合わせも珍しい。
「上海相東佛像芸術館」(39 – 41)は巨大な工場を仏像を展示するための博物館に転用した事例である。既存の大空間に段状の床を挿入し、仏像展示の迫力ある演出を試みている。下階の展示空間では、貴重なショーケース入りの展示がなされ、上下で明暗の対照的な空間演出を行っている。
まとめ
以上、上海では、多くの既存建築が都市状況の変化に応じて巧く転用利用されている実態を見ることができる。転用のほとんどは2000年以降に行われており、経済大発展の中でも、スクラップ&ビルド型ではない発想が強く存在していることがわかる。上海がこうした建築コンバージョンの見本市会場のような都市となっている理由を考えてみよう。まず、19世紀半ばから列強諸国の租界となったため、特に1920年代、30年代に建設された良質な建築が多く残っていた。しかも、経済発展が1990年代からであったために、既に歴史的建築物を丁重に扱うという発想が普及しており、これらの建築は壊されずにすんだと考えることができる。経済発展が、1960年代や70年代であれば、これら外国による支配の負の遺産とも言える建築群は、スクラップ&ビルド型の都市開発の犠牲になった可能性が高い。加えて、中国では2000年にITやデザインなどの創意産業を育成するという方針が中央政府によって示され、それを受けて、上海でも創意産業園区という制度ができ、それまでの重工業から創意産業への産業構造の転換を促す政策が取られた。多くの産業施設が、次々にコンバージョンされた背景には、こうした政策の存在も無視できない。
こうした歴史的建築の残存、遅れた経済発展、政策による産業転換が、幸いにも巧く絡み合うことで、上海は、多様なコンバージョンの見本市会場都市になった。
小林 克弘(こばやし・かつひろ)
建築家、首都大学東京教授
1955年生まれ/1977年 東京大学工学部建築学科卒業/1985年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程修了、工学博士/東京都立大学専任講師、助教授を経て、現在、首都大学東京大学院都市環境科学研究科建築学域教授
1955年生まれ/1977年 東京大学工学部建築学科卒業/1985年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程修了、工学博士/東京都立大学専任講師、助教授を経て、現在、首都大学東京大学院都市環境科学研究科建築学域教授
記事カテゴリー:歴史と文化 / 都市 / まちなみ / 保存、海外情報
タグ:コンバージョン