世界コンバージョン建築巡り 第2回
ワルシャワ 復興のコンバージョン
小林 克弘(首都大学東京教授)
ポーランドとその周辺国
ワルシャワ市街地map
写真1 ワルシャワ中央駅周りの都市光景。中央が「文化科学宮殿」。その左が、リベスキンド設計の「ズオッタ44」。
復興の古都、ワルシャワ
 前回は、ニューヨークという、短期間に着実な都市発展を遂げた都市の中でのコンバージョンが果たしている役割を解説した。今回は、対象を大きく変えて、戦災による大被害と経済体制の大変革を経験したワルシャワをはじめとするポーランドの諸都市のコンバージョン建築を巡る。日本では、馴染みの薄い都市なので、都市の紹介も兼ねながら、コンバージョンの実情を紹介したい。
 首都ワルシャワは、14世紀の旧市街を残す古都であったが、1939年のナチス・ドイツによる支配の始まりや1944年のワルシャワ蜂起で多くの人命と建物が破壊されるという大惨事で市街地は壊滅状態となり、1945年のソビエト連邦の進攻後は、その衛星国家の首都となった。しかし、ポーランド亡命政府の活動はロンドンで続き、1989年には亡命政府の流れを汲むポーランド共和国が成立し、2004年のEU参加も果たして、今や安定した発展を遂げている。
 ワルシャワを訪れると、現在の都市中心部である中央駅周りで、不思議な光景に出会うことになる(写真1)。そこでは、ワルシャワ最初の高層建築である「文化科学宮殿」(1955年、231m)の威容が目に飛び込む。これは、スターリン時代のソビエト連邦が設計から施工までを行い、スターリンの贈り物とも呼ばれる。その周辺に、近年建設された高層建築群が建ち、その中には、ポーランド系アメリカ人建築家ダニエル・リベスキンド設計の「ズオッタ44」(2014年、192m)などがある。このスターリン・スタイルの威容とリベスキンド設計の現代性の対照の生み出す独特の都市光景が、ワルシャワの戦後から今日までの大きな変化を象徴している。
写真2、3 左:聖十字架教会外観。右:聖十字架教会内部。左の柱の下に、ショパンの心臓が眠る。
写真4 旧王宮。現在博物館に転用されて一般公開されている。
写真5 旧市街の中央広場。戦災でほとんど破壊されたが、戦後に以前の通りに再建された。
写真6、7 左:城壁を歴史博物館に転用。右:城壁博物館の内部。
写真8 博物館になっているキューリー夫人の生家。
写真9、10 左:ショパン博物館。優美な外観の宮殿を転用。右:ショパン博物館の地下展示空間。
旧市街、ショパン、キューリー夫人
 中央駅から目抜き通りであるクラクフ通りを歩くと旧市街に達する。このクラクフ通り沿いの「聖十字架教会」の内部の柱の下には、ポーランドが生んだ音楽家、フレデリック・ショパンの心臓が眠る(写真2、3)。旧市街が近づくと、「旧王宮」(写真4)があり、ここは現在博物館に転用されて一般公開されている。旧市街の「中央広場」(写真5)は、第二次世界大戦で激しく破壊されたが、戦後に見事に以前の通りに再建され、それがワルシャワ市民の大きな誇りともなった。旧市街を取り巻く城壁の一部は、歴史博物館に転用されており、城壁内の空間を巡りながら、展示を楽しむことができる(写真6、7)。城壁を出て、少し歩くとノーベル賞受賞学者キューリー夫人の生家があり、現在は、夫人の生涯や業績を分かりやすく展示した博物館へと転用されている(写真8)。
 当然ながら、「ショパン博物館」(写真9、10)もあり、重要な観光名所になっている。それは、旧市街近くではなく、先ほどのクラクフ通りから、少し東に入ったところにある。17世紀初頭に建設されたバロック様式の宮殿を、博物館へとコンバージョンした施設である。開館は2010年なので、思いのほか新しいコンバージョンである。
 宮殿は地上階の居住部分と地下室からなり、前者の様式建築の空間は保存され、後者では既存の組積造の洞窟的空間にガラスや鉄といった現代的な意匠を付加することで、優美な様式建築と洞窟のような空間と現代のマルチメディア先進技術が共存するというコンバージョン建築が生み出されている。
写真11、12、13 左上:ワルシャワ蜂起博物館の外観。右:ワルシャワ蜂起博物館。発電機器が置かれていた大空間での展示。左下:ワルシャワ蜂起博物館のシンボル・タワー。展望台を兼ねる。
写真14、15 左:コミン73。オートバイ製造の施設群をオフィスなどの複合施設に転用利用。 右:コミン73の別の棟。
産業施設からのコンバージョン
 ポーランドはソビエトの工業地帯とも呼ばれ、ワルシャワ中心部の周縁にも多くの産業施設が存在する。それらのいくつかは工場の移転や産業構造の転換によって、他の施設にコンバージョンされつつある。
 その代表的な事例は、「ワルシャワ蜂起博物館」(写真11、12)であろう。ワルシャワ蜂起とは、第2次世界大戦末期の1944年8月に、ナチス・ドイツ軍の力が弱まりつつあったこと、およびソビエト軍がワルシャワ近郊に迫ったことを受けて、ワルシャワ内に潜むポーランド軍と市民がワルシャワ解放のために立ち上がったが、ソビエト軍が結局は傍観したことで、市民を含む約20万人以上が死亡し、町は壊滅的な破壊を受けたという大惨事である。
 ワルシャワ蜂起博物館は、この大惨事の60周年のために建てられたが、新築ではないところが興味深い。それは、1904年に建てられたトラムの発電所を、2003年に行われたコンペに基づき、コンバージョンによって博物館に変えている。博物館は、赤レンガの様式建築および大空間を持つ鉄骨造の発電機器のための大空間からなる。ワルシャワ蜂起に関する詳細な資料展示に加え、大空間には戦闘機なども展示されている。増設された「ミュージアム・タワー」(写真13)は、この施設のシンボルになっており、町を見渡す展望台としても機能している。
 「コミン73」(写真14、15)は、ワルシャワ郊外の工業地域に建つオートバイ製造のための複数の工場棟や管理棟を、オフィス、飲食店、イベントスペースへと転用した事例である。RC造、煉瓦造、一部木造架構の既存工場群に補修や表面塗装を施すのみで、施設を有効活用するというタイプのコンバージョンである。ワルシャワ近郊では、こうした産業施設からのコンバージョンを多く見ることができる。
写真16、17 上:ウッチのアンデルス・マニュファクチュラ。織物工場群の大規模コンバージョン。下:アンデルス・マニュファクチュラ内の美術館内部。
写真18、19 左:アンデルス・マニュファクチュラに隣接するホテル・アンデルス・ウッチ外観。右:ホテル・アンデルス・ウッチのユニークな吹き抜け空間。
工業都市ウッチに見るコンバージョン
 ワルシャワから電車で約2時間、ウッチは、19世紀末から紡績産業が栄え、現在人口約80万人のポーランド第2の都市であり、建築家ダニエル・リベスキンドはここで生まれた。この都市では、紡績産業の衰退と共に、かつての工場関連施設を、次々に商業・文化・観光施設に変えるという、市をあげてのコンバージョンがなされている。
 その代表が、「アンデルス・マニュファクチュラ」(写真16,17)であり、19世紀につくられた織物工場、従業員住居、病院、教会、宮殿を、2006年に博物館、映画館、ボーリング場などの入った文化商業複合施設へと転用した大規模事例である。既存の煉瓦造外壁を保存しながら、適宜内部空間への床の挿入を行い、表面をガラスや黒色金属板で構成して、既存との対比的な調和を意図した増築などの操作が加えられている。
 隣接する「ホテル・アンデルス・ウッチ」(写真18、19) は、紡績工場内施設をホテルに転用した事例である。ベッドルーム180室と長期滞在用アパート80室、600人を収容できる会議室、レストランなどが複合している。フロントに面するラウンジでは、既存の床を抜いて、楕円を歪ませた形状の吹き抜けを導入している。それが既存の規則的なアーチ天井と併置され、さらに吹き抜け周りが時間によって色調の変化する照明で照らされることにより、幻想的なラウンジ空間が生まれている。
写真20、21 上:クラクフ旧市街中心にある織物会館および中心広場。下:織物会館前の地下に設けられた地下博物館。
写真22、23 上:クラクフ軍事博物館のアトリウム。中庭を内部化している。下:クラクフ軍事博物館外観。
写真24、25、26 上左:クラクフのクリコテカ。既存発電所の上部に新たな展示空間のヴォリュームが掛け渡される。上右:クリコテカ。上部ヴォリュームの下面に既存部屋根や水辺空間が反射する。下:同詳細。
写真27 アウシュビッツ強制収容所。歴史の大惨事を後世に伝える博物館的な施設として、一般公開されている。
写真28、29 左:アウシュビッツ強制収容所内の案内板にあった案内図。右:アウシュビッツ強制収容所内の展示空間。
写真30、31、32 上左:ヴィエリチカ岩塩採掘場の上部施設。岩塩採掘場は、ユネスコの最初の世界遺産登録12件のひとつである。上右:ヴィエリチカ岩塩採掘場。見学ルートには、岩塩採掘場時代の様子も展示されている。下:ヴィエリチカ岩塩採掘場。地下深く掘り抜かれた大空間。
古都クラクフの多様なコンバージョン
 ポーランドの南部に位置するクラクフは、17世紀初めに首都がワルシャワに遷都するまで、ポーランド王国の首都であり、その中心部は世界遺産にも登録されている美しい都市である。現在人口約75万人で、ポーランドでは第3の都市になる。第2次世界大戦中、ナチス・ドイツがクラクフにポーランド司令部を置いたこともあり、幸いワルシャワのような都市破壊を免れた。一方、クラクフの南側には、大戦中、ポーランド最大のユダヤ人ゲットーが形成され、名作映画「シンドラーのリスト」の実在の主人公で、多くのユダヤ人を救うオスカー・シンドラーの工場でも、このゲットーに住むユダヤ人が働いていた。
 クラクフでは、多様なコンバージョンを見ることができる。クラクフ旧市街中心にある「織物会館」(写真20)の地下には、歴史的な遺構が見つかり、織物会館の一部をエントランスに転用して、「地下博物館」(写真21)がつくられている。地下遺構を展示空間として、旧市街広場の歴史に関する博物館とするために、新たな地下構造体を織物会館や広場の地下部分に挿入するという操作を行っている。
 「クラクフ軍事博物館」(写真22、23)は軍事施設が博物館へと転用された事例である。既存建築は地上2階地下1階の煉瓦造であり、外壁は保存改修がされているが、中庭がガラスの屋根によってアトリウムとなり、各展示室の中心となるという空間の転換がなされている。
 川沿いの「クリコテカ」(写真24、25、26) は、19世紀に建設された発電所を、博物館を中心とした文化複合施設に転用した事例である。2棟並んだ既存発電所の内外観を保存して多目的ホールとしつつ、上部に新たな展示空間のヴォリュームを掛け渡して、その下面を鏡面とすることで、既存部の屋根や近接する水辺空間の反射像が眺められるという演出がなされている。
 さらに、クラクフの郊外では、ふたつの独特なコンバージョンも見ることができる。
 そのひとつ、「アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所」は、ホロコーストという悲劇の施設であり、コンバージョン事例と呼ぶにはあまりに重い施設である。1940年から45年に、ヨーロッパの中央に位置して、鉄道の便が良いということから、アウシュビッツ村(ポーランド名、オシフィエンチム)および近接するビルケナウに強制収容所の建設がなされ、ここで殺害された一般のユダヤ人や政治犯は計り知れない。「負の歴史遺産」ではあるが、現在、アウシュビッツ強制収容所は博物館に類する施設として一般公開されている(写真27、28、29)。内部では、収容所での生活の様子を含め、犠牲者の遺品などが展示され、さらには、火葬施設も公開されている。
 「ヴィエリチカ岩塩採掘場」(写真30、31、32)は、1250年ごろから1950年代まで稼働していた岩塩採掘場が、観光施設として転用された事例である。地下の複雑な坑道や大空間、採掘時に使用されていた既存の要素自体を展示品とする観光施設として活用されている。この施設は、1978年にユネスコ世界遺産に登録された最初の12件のひとつである。
まとめ
 冒頭でも述べたように、ポーランドの諸都市、特にワルシャワは、戦争による破壊、社会主義化、1989年の新体制への移行など、激動の時代を体験した。今回取り上げたコンバージョンの多くは、21世紀に入ってから実現している。その背景には、産業構造の変化、観光資源の充実化などが挙げられよう。過去の記憶の良い面も悪い面も残しながら、既存施設を新たな意味を持つ施設に変えることができるというコンバージョンの力を、ポーランドの事例から強く感じ取ることができるだろう。
小林 克弘(こばやし・かつひろ)
建築家、首都大学東京教授
1955年生まれ/1977年 東京大学工学部建築学科卒業/1985年東京大学大学院工学系研究科建築学専攻博士課程修了、工学博士/東京都立大学専任講師、助教授を経て、現在、首都大学東京大学院都市環境科学研究科建築学域教授