Kure散歩|東京の橋めぐり 第11回
吾妻橋(その1)
紅林 章央(東京都道路整備保全公社)
❶ 吾妻橋。(撮影:紅林 2023年)
❷ 江戸時代末の「吾妻橋」。『東都名所之内 隅田川八景吾妻橋帰帆』(歌川広重筆)(紅林所蔵)
江戸期最後の隅田川架橋
 浅草駅前で隅田川を跨ぐ赤いアーチ橋。この橋の上からフィリップ・スタルクがデザインしたあの金色の炎の写真を撮ったという方も多いのではないだろうか。隅田川で最も多くの歩行者が通る橋、この赤い橋の名は「吾妻橋」である(❶)。
 「吾妻橋」が初めて架設されたのは1774(安永2)年で、江戸時代に隅田川に架設された5橋のうち最後であった(❷)。他の橋は幕府が架設した御入用橋であったが、吾妻橋は唯一民間で架設した有料橋であった。しかし当時の浅草は江戸市街の北端であったため、交通量は他の橋に比べ少なく、収入も予測ほど上がらなかった。このため、1812(文化9)年には幕府により架け替えが行われ、幕府の管理橋となった。構造は和式の木桁橋で、橋長144m、幅員5.9m、24径間であった。「吾妻橋」という橋名は、吾妻神社の参道に位置したからとか、江戸城からみて東方にあったからなどといわれるが、江戸時代は「大川橋」という呼び名が一般的で、「吾妻橋」が正式名称になったのは、1875(明治9)年の架け替えからであった。
❸ 1876年に方杖式木橋に架け替えられた「吾妻橋」。『東京名所大川四景 阿付まはし』(三代 歌川広重筆)(紅林所蔵)
❹ 1885年の洪水で流失する「吾妻橋」(中央左)と「千住大橋」(中央右)を描いた『千住大橋吾妻橋洪水落橋之図』(蜂須賀国明筆)。(紅林所蔵)
❺ 1887年にプラットトラス橋に架け替えられた「吾妻橋」。(紅林所蔵)
❻『隅田花吾妻賑』(楊洲周延)に描かれたプラットトラス橋の「吾妻橋」。(紅林所蔵)
明治の吾妻橋
 幕末は、騒乱や幕府の財政難から東京市内のインフラの維持管理が滞り、橋も老朽化が進んだ。このため明治になると、新政府は早々に橋の架け替えに着手せざるを得なかった。隅田川では、1875(明治8)年に「両国橋」と「永代橋」が西洋式の方杖式木橋に架け替えられ、「吾妻橋」も翌1876(明治9)年に、同構造で架け替えられた(❸)。橋長142m、幅員6mで、設計は新政府の土木寮により行われた。
 1885(明治18)年7月3日未明、1週間に渡って降り続いた雨は濁流となり、上流の「千住大橋」を押し流した。そして流失した橋は「吾妻橋」に衝突し、これをも押し流した(❹)。この梅雨末期の豪雨は、前日には関西地方で大暴れし、大阪市内の大川(旧淀川)に架かる「天神橋」、「天満橋」をはじめ多くの橋を流失させていた。
 この復旧にあたって、東京府は「吾妻橋」に隅田川初の鉄橋を架設した(❺)。構造は錬鉄製のプラットトラス橋で、橋長148.8m、幅員は車道が7.3mで、幅員2.3mの歩道が両側に設けられていた。国内の道路鉄橋では最長を誇った。材料の錬鉄は英国から輸入したが、製作はIHIの前身の石川島平野造船所が請け負った。鉄桁の製作は、道路橋では明治10年代という早期から国産化が図られたが、材料の鉄の国産化は、八幡製鉄所が稼働した明治40年代まで果たせなかった。また桁架設は東京府が直営で実施したが、架設重機や作業員などは、当時国内で唯一設備や組織を有していた鉄道局から借り受けた。桁架設は、関東大震災の復興でも復興局の直営で行われ、現在のように、橋梁メーカーが製作に加え架設も請け負うようになるのは、昭和に入ってからであった。
 浮世絵『隅田花吾妻賑』(❻)を見ると、「吾妻橋」はたいへん装飾豊かなデザインだったことがわかる。橋の入口となる橋門構には、両側にゴシック風の塔がたち、上部には桜模様の透かしが施された鋳鉄製の化粧パネルが設置されるなど、それまでの国内の鉄橋にはない華やかな装飾が施されていた。橋が完成すると新東京名所として脚光を浴び、明治期の浮世絵には秋葉原の萬世橋と並び多く描かれたのだが、東京市民の評判は芳しくなかった。まるで籠の中に入れられているようだというのがその理由で、このように橋上からの眺望が阻害される下路式の橋の不人気は、「永代橋」や「清州橋」が架設され、これらを通じて橋の構造美が認識されるようになる震災復興まで続いた。
❼ 橋門構の柱に「土木工師 原口要設計 理学士 原龍太董工」と記されていた。(『隅田花吾妻賑』部分拡大)
❽ 原口要(1851–1927)
設計者 原口要
 「吾妻橋」の橋門構には、3枚のプレートが付けられていた。右側柱の正面には竣工年「明治20年12月成」が、左側柱の側面には製作会社名を示す「鉄部製作 石川島平野造船所」が、そして左側柱の正面には、「土木工師 原口要設計 理学士 原龍太董工」と刻まれていた(❼)。なお董工とは、工事監督者をさす。このように設計者などの名前が橋の正面に記されたのは、当時国内に橋を設計できる技術者は数人しかおらず、橋梁技術者のステイタスが高かった証しであると考えられる。
 設計者の原口要(❽)は1851(嘉永4)年に島原藩士の子として生まれ、1870(明治3)年に上京して東京大学の前身の大学南校や開成学校で学んだ。1875(明治8)年には成績優秀者として、米国ニューヨーク州のレンセラー工科大学に留学し、首席で卒業するという秀才であった。卒業後はニューヨークの「ブルックリン橋」の建設工事、橋梁会社で設計や製作、鉄道会社で新線建設などに従事し、1880(明治13)年に帰国。同時に内務省入りして東京府に配属され、技術系トップの技師長に就任した。東京の市街地計画や東京港築港計画、馬車鉄道計画などを立案するとともに、1882(明治15)年の「高橋」(ホイップルトラス橋 L=48.5m)を皮切りに、「浅草橋」(ポニーボーストリングトラス橋 L=24.9m)、「柳橋」(ポニーダブルワーレントラス橋 L=26m)、「鎧橋」(ホイップルトラス橋 L=56.7m)などの鉄橋を次々と設計した。原口こそが文明開化期の東京の鉄橋の生みの親といえる。
 原口はこの後、1883(明治16)年には東京府に席を置いたまま、それまで外国人が就いていた鉄道庁の技術系トップの工部技長に、日本人で初めて就任した。ここでは、当時私鉄の日本鉄道や甲武鉄道が施行していた山手線や中央本線などの建設を指導するとともに、東海道本線や東北本線など全国約5,000kmに及ぶ主要幹線の建設計画を立案するなど、鉄道建設においても礎を築いた。
災害復興が新技術を生み出す
 現在、隅田川の橋の多くは、関東大震災の復興で架設されたことは、多くの人の知るところである。この際に導入された最新の橋梁技術により、わが国の橋梁技術は、世界の三流国からトップグループへと大きくステップアップした。前述したように、明治期に隅田川に鉄橋が架設される契機になったのも、1885(明治18)年の隅田川の水害であったし、同じ低気圧により被害を受けた大阪市でも、この災害を契機に「天神橋」や「天満橋」など鉄橋化が一気に進んだ。
 災害はないにに越したことはないのは無論のことである。しかし、いざ災害が起きた時は、ピンチをチャンスと捉え、復興に新技術を導入するか否かで、後年のまちやさらには国の発展は大きく変わってくると思う。次回は、東京を襲った最大の災害である関東大震災での「吾妻橋」の被災状況、そしていかに復興されたかについて述べる。
紅林 章央(くればやし・あきお)
(公財)東京都道路整備保全公社道路アセットマネジメント推進室長、元東京都建設局橋梁構造専門課長
1959年 東京都八王子生まれ/19??年 名古屋工業大学卒業/1985年 入都。奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『東京の美しいドボク鑑賞術』(共著、エクスナレッジ刊)