Kure散歩|東京の橋めぐり 第4回
永代橋(その2)
紅林 章央(東京都道路整備保全公社)
❶ 大正15(1926)年に関東大震災の復興で架橋された現在の永代橋(2023年筆者撮影)。
❷ 関東大震災での永代橋の被災情報を伝える絵葉書(紅林所蔵)
関東大震災での永代橋の被害
 隅田川をはじめ、東京の橋の多くは関東大震災の復興で架けられたことは、多くの方の知るところである。震災による東京市の橋梁被害はどのようなものだったのだろうか?
 それについて、復興局土木部長の太田圓三は、大正13(1924)年7月に土木学会で開催された「帝都復興事業に於いて」という講演会で、以下のように述べている。
 「昨年9月1日の地震により東京市の橋梁が受けた被害は、極めて僅少でありました。これは東京に於ける地震の震度が、比較的小さかったことと、橋梁の工事が比較的入念に出来ていたことによるものと考えられます。ただ地震に伴う火災のために、幾多の橋梁が焼失したことは、遺憾に堪えない次第であります」。
 意外にも、震災で東京の橋梁が受けた被害はわずかだったのである。地震の揺れでの落橋は記録されていない。ただし、大半が木橋だったことや、鉄橋であっても床版は木造だったため、延焼し通行不能に陥った。その数、東京市内の総橋梁数701のうち370にも上った。
 さて、永代橋の被害を見てみたい。震災直後の永代橋の姿を写した絵葉書(❷)が残されている。絵葉書の上部に写る鉄橋は、明治30(1907)年に架設されたトラス橋の永代橋。地震での落橋は免れたのである。絵葉書では橋上に人の姿が見えるが、永代橋の床版も木造だったため焼失し、震災直後は通行できなかった。絵葉書には川面を埋める瓦礫が写っているが、これは震災で焼失した永代橋の仮橋(木造)の残骸である。対岸へと延びる4本の線は、仮橋上に敷設されていた市電のレール。永代橋は、すでに震災前に架け替え工事に着手し、仮橋を架け交通を切り回す作業が行われていたのである。
 永代橋は被災したから、現在の橋に架け換えられたのではなかった。しかも永代橋だけではなく、隅田川では吾妻橋も厩橋もすでに架け換え工事中であった。吾妻橋は鉄橋架設後36年、厩橋は30年、永代橋は26年しか経ていない。老朽化というには余りにも若い。高額な建設費を費やしたにも関わらず、江戸時代の木橋の寿命とさほど変わらない。橋の架け替え理由、それはこれらの橋が機能を満たさなくなったからであった。自動車が出現し、時代は橋に自動車が通行可能な大きな耐荷力や広い幅員を求めたのである。
❸ 復興局が作成した「永代橋竣工記念絵葉書」(紅林所蔵)
❹ アーチの上横構に刻まれた焼夷弾による損傷(2023年筆者撮影)
架け換えられた永代橋
 架け替えられた永代橋の構造は鋼ソリッドリブ・バランストタイドアーチ橋。橋長184.7mで、橋脚と橋脚の離隔である支間長が国内で初めて100mを超えた、わが国の橋梁史において記念碑的橋梁である(❸)。
 1㎡あたりに使用した鋼重は約1t。旧橋のトラス橋は0.3t/㎡ほどであるから、ざっと3倍の鉄を使用していることになる。関東大震災の財源は、復興債という借金に頼っていたことを勘案すれば、経済性を最優先し、より安価な構造を選択するというのが頗る普通だったと思うが、当時の技術者達はそのような選択をしなかった。
 橋の建設は、幹線道路は主に内務省復興局が、生活道路は主に東京市が担った。東京市は地盤が悪く土地の高さが低い江東区内の運河ではトラス橋も架けたが、復興局は東京市内に架けた115橋中トラス橋は皆無、徹底してトラス橋を避けた。その理由を、復興局橋梁課長の田中豊が投稿した報文「竣工せし新永代橋」(『土木建築工事画報』1927年3月号)に見出すことができる。
 「(永代橋の)ソリッドリブアーチは、その外観壮重なるのみならず、最もよくMassの美を表現し、その虹の如く中空に懸れるアーチの曲線は瀟洒なる吊材の直線と相まって遺憾なく四方の風光と調和するをべし、なおまた一旦事ありし際の空中防御を考えるも、ソリッドリブアーチの方安全なるは言を俟たざるべし」。
 私は、この「一旦事ありし際の空中防御……」こそが、トラスではなくソリッドリブアーチを採用した最大の理由だったと考えている。トラス構造は、経済的で軽いという長所がある一方、部材が1カ所でも破断すると、橋が崩落してしまうという構造上の脆弱性がある。大正初期に欧州が主戦場になった第一次世界大戦では、戦車などの重火器が登場。特に戦術を一変させたのが戦闘機による空爆だった。田中ら当時の土木エンジニアたちは、トラス橋は空爆に対し脆弱であることを、十分認識していたのであろう。
 永代橋の中央付近でアーチの上横構を見上げると、曲がった鉄材(❹)が目に入る。この傷は、先の大戦で永代橋に投下された焼夷弾によって刻まれた。多くの焼夷弾が投下されたが、屈強な橋は見事に耐え抜き、避難する多くの都民の命を救った。一方、明治時代に日本橋川に架設されたトラス橋の鎧橋は、被弾により破損し、戦後に東京で最初に架け換えられた橋になった。田中らの選択は正しかったのである。
❺ 永代橋アーチタイ位置図(着色部分)
❻ 永代橋架設中のアーチタイ(着色部分)の状況。現在は側面からは視認できない。(紅林所蔵)
世界で初めてデュコール鋼を使用した橋
 永代橋のようなタイドアーチ橋では、アーチの下端同士を結ぶ部材の「アーチタイ」(❺、❻)に大きな引っ張り力が作用する。永代橋では、この部材に高張力鋼(60キロ鋼)の「デュコール鋼」を使用した。デュコール鋼は、列強各国が軍艦増船を競い、また1922年のワシントン海軍軍縮条約で軍艦トン数が抑制される中、英国海軍と英国のデビット・コルビル製鋼社が戦艦の材料として開発した、マンガンを1.5%程度混入した当時のハイテク鋼材であった。日本でも神戸の川崎造船所が、早くも製造技術を有しており、田中はこの情報を得て、永代橋のアーチタイの材料として採用したのである。
 デュコール鋼の橋梁への使用は世界初のことであった。世界では永代橋より長い橋は数多く架けられていたが、これらの橋では、大きな引っ張り力が働く部位には、ニッケル合金を使用していた。このような世界の趨勢に反し、しかも硬く加工しにくいという欠点があったにも関わらず、デュコール鋼を使用した理由は、マンガンは国内で採れたものの、ニッケルは国内で産出しないという一点にあった。戦争などで破損した際、国内で調達できなければ、補修もままならない。このため、デュコール鋼を用いたのである。もしアーチタイに高張力鋼のデュコール鋼を用いなければ、アーチタイはもっとごつくなり、橋のフォルムは現在と違うものになっていたであろう。田中は、「隅田川橋梁の型式」(『土木建築雑誌』1927年1月号)で、「白銅鋼(ニッケル)を輸入することなく、全部内国製の材料によって橋桁を製作する事の出来ますのは誠に欣快の至り」と、その成果と喜びを記している。
 現代では、有事、特に空爆などを想定して橋梁構造を決めることは100%ないが、当時は当然のことだったのであろう。永代橋は、隅田川のみならず日本を代表する美しい橋である。しかしその美しさは、戦争やそれを取り巻く世界情勢が、色濃く反映されたものだったのである。
 次回は、山口文象の永代橋設計への関わりと、近年行われた補修・補強工事について触れる。
紅林 章央(くればやし・あきお)
(公財)東京都道路整備保全公社道路アセットマネジメント推進室長、元東京都建設局橋梁構造専門課長
1959年 東京都八王子生まれ/19??年 名古屋工業大学卒業/1985年 入都。奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で土木学会出版文化賞を受賞