建築家の設計への関与
関東大震災の復興では、橋梁のデザインについて、復興局土木部長の太田圓三(1881–1926)や橋梁課長の田中豊(1888–1964)らは、建築家に任せるべきと考えていた。そこで、建築職員を多く抱えた逓信省営繕部に目をつけ、そこから若手職員を橋梁課へスカウトした。これらの職員により、復興局で架けられた150橋のフォルムや欄干、親柱などの橋梁付属物がデザインされることになった。この中心を担ったのが、戦後に「日本武道館」や「京都タワー」を設計する大建築家となった山田守(1894–1966)と、わが国のモダニズム建築の第一人者となった山口文象(1902–78)だった。山田は大正9(1920)年に東京帝国大学建築学科を卒業し、逓信省営繕課に就職した若手のエリート技術官僚。一方、山口は、大工を育てる職工徒弟学校を出て大工になるも、建築家への夢を捨て切れずに大正9(1920)年に図工として営繕課に採用になり、才能を認められデザインの一部などを任せられて建築家の道を歩みだした若干22歳の青年であった。そして山口の才能は、震災復興の橋梁のデザインに関わることで、一挙に開花することになるのである。
明治時代、東京の橋梁の高欄、橋灯などのデザインは、同時代の建築や絵画と同様にアール・ヌーヴォーの影響を強く受けていた。震災復興の施行時期の大正末といえば、アール・デコの流行と重なるが、復興橋梁のデザインにその影響はほとんど見られない。欄干であれば縦格子のシンプルなもの、親柱は一時代前の巨大なものから小さくなり、彫刻もなく、さらに永代橋のように親柱を設けない橋も出現した。まして明治時代のように、アーチ橋の側面を飾り板で塞いだり、橋門構を飾りたてたりする橋は皆無であった。橋の構造美を前面に押し出し、飾りは極力排除された。
このようなデザインとなったのは、山田や山口が分離派という当時最先端をいく表現主義の研究グループに属し、さらにモダニズムを模索していたことが大きいと思う。復興橋梁のデザインは、アール・デコを飛び越え、表現主義やそれ以降現代にまで続くモダニズムを先取りしたものだったのである。
山口文象と永代橋
長谷川堯氏が山口文象へのインタビューを収めた「兄事のこと」(『建築をめぐる回想と思索』1976年、新建築社)に、山口が復興橋梁に関わるようになった経緯が以下のように記されている。「山田守先生は嘱託のかたちで橋梁課のほうへ行かれたんです。行って2~3日たってから私のところへ参りまして『山口君たいへんだよ、橋が何百ってあるのをオレ引き受けちゃって、どうしていいかわからないんだ』というので、『そう、たいへんですねェ』なんて笑い話をしていたんです。ところが、山田守先生はそれを全部引き受けるつもりは初めからないんですね。初めから私をやろうと思っていたんです。それで2~3日たつと、私に今度は復興局から呼び出しがありました。判任官というのは割合簡単にトレードされますから、それで行ったところが、田中豊先生が『ぜひきてもらいたい』というわけなんです。私は建築を捨てるわけにいかないし橋もやりたい、それじゃ手伝ってくれというので嘱託になりました。(中略)それで復興局へ行きましたら、東京、横浜の地図に全部印がつけてある。たいへんな数なんです。それで私のアシスタントを、私より年上でございましたが美術学校の人を二人、逓信省から一人という風に集めまして、デザインばかりでなくて構造も知らなければならないというので、橋の勉強をいたしました。いま東大土木の名誉教授で福田武雄という先生がおりますが、一緒に勉強させてもらいました。いろんな橋をやりました。(中略)土木の連中が『今日は横浜の港の方をやっちゃおうか』『よし』ってわけでグーッと車で見てきてバタッバタッとスケッチをやる。そうする土木の方からクレームがあって、こんなのできやせん、それじゃこうしようとかああしようとか、両方でディスカッションをして決めていくのです。そんなわけで随分やりました」。
太田圓三は、「復興局橋梁設計に就て」(『道路』4巻7号、1925年7月)で、「橋の設計について、構造は土木技術者、デザインは建築家と機械的分業では、構造物の統一性に欠ける。これを避けるためには、両者が協働してデザイン・設計にあたるべきで、土木技術者はデザインも考慮して構造設計を行い、建築家も橋梁の力学特性を理解すべき」と述べていたが、山口はまさしくそれを体現していたことがわかる。
山口は「兄事のこと」の中で関与した橋梁として、清洲橋や浜離宮の入口に架かる「南門橋」、すでに撤去された「数寄屋橋」や「八重洲橋」を挙げているが、「永代橋」でも橋灯のデザインなどに関わっていた。東京大学工学部に発注時の図面が保管されており、この中の橋灯の図面(❷)の設計者欄に、山口の本名である岡村瀧造のサイン(❸)が記されている。他に「岡村」のサインは、東京都建設局が所蔵する「八重洲橋」の図面にも残されている。なお構造設計は、橋梁課の竹中喜義が担った。
橋梁の長寿命化とデザインの復元
現在、東京都では重要な橋梁について、今後100年以上延命させる「橋梁の長寿命化事業」を進めている。この事業では、単に構造の延命だけに留まるのではなく、永代橋や聖橋などの著名橋では、戦後失われてしまった建設時のデザインの復元も実施している。永代橋では、平成初年度の修景事業で❹のような形状に改変されていた橋灯を、前述した図面をもとに❺のように復元を行った。これにより、「まるでエノキタケのようだ」と揶揄された橋灯は撤去され、シンプルですっきりした山口のデザインが蘇った。ただし、今後の維持管理を考慮して、材質は建設時の鋳鉄ではなくアルミを、ライトはLEDを使用した。
また、同様に平成の修景事業でライトアップ用の蛍光灯を収納するために取り付けられていたアーチリブ上側の庇(❻)を撤去し、新たにライトアップ用のLEDを設置した(❼)。これにより、建設時のアーチリブのすっきりしたアウトラインが蘇った。なお、ライトアップ(❶)のデザインは、2020オリンピック東京大会に合わせて、他の隅田川橋梁と一括で石井幹子氏に依頼した。
構造補強は耐震性の確保に重点を置いた。レベル2の地震時に支承が破損する恐れがあることから、常時は既存の支承で支え、地震時に生じる水平力のみ新たに設置した支承(❽)で受けることとし、既存の支承の内側に1基ずつ、計4基の支承(鋳鉄製)を設置した。永代橋は国指定の重要文化財であることから、追加した支承については、後年の補強により設置したことを明確にするために、既存と似た形状ではなく、あえて異なった形状にするよう文化庁から指導を受けた。
また、アーチリブの鋼鈑は地震時に座屈のおそれがあったことから、裏側に山形鋼を当てて補強した。補強前(❻)と補強後(❼)の表面を見比べると、アーチの軸線に沿ってリベットのような丸みを持った点が4列増えたのがお分かりになるであろうか。4列はリベットではなく、先端が丸いトルシアボルトで、この裏側に補強材が付けられている。
今回の令和の補修工事により、永代橋はその名の如くさらに100年は永続することができ、山口のデザインも蘇えらせることができたと思う。これは、次世代に正しい都市の記憶を伝えることであり、また東京に素晴らしいインフラを残してくれた山田や山口らへの恩返しであると考えている。
紅林 章央(くればやし・あきお)
(公財)東京都道路整備保全公社道路アセットマネジメント推進室長、元東京都建設局橋梁構造専門課長
1959年 東京都八王子生まれ/19??年 名古屋工業大学卒業/1985年 入都。奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『東京の美しいドボク鑑賞術』(共著、エクスナレッジ刊)
1959年 東京都八王子生まれ/19??年 名古屋工業大学卒業/1985年 入都。奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『東京の美しいドボク鑑賞術』(共著、エクスナレッジ刊)
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