Kure散歩|東京の橋めぐり 第3回
永代橋(その1)
紅林 章央(東京都道路整備保全公社)
❶ 大正15(1926)年に関東大震災の復興で架橋された現在の永代橋(撮影筆者、2023年撮影)。隅田川の橋では現存する最古参。
❷ 江戸時代の永代橋「東都名所永代橋深川新地(安藤広重筆)」(筆者所蔵)
綱吉の生母が架橋を推進
 隅田川下流部で重厚なアーチを描く永代橋(❶)。現在の橋は、大正15(1926)年に関東大震災の復興で架橋された。現存する隅田川の橋では最古参である。
 橋の歴史は古く、江戸前期までさかのぼる。初めて架橋されたのは元禄11(1698)年。江戸市内の隅田川では、両国橋、新大橋に次ぐ3番目の架橋であった(❷)。構造は和式の木桁橋、橋長は200mと隅田川で最も長く、当時は隅田川最下流の橋で、中央区側は江戸湊の中心で廻船がひしめき、江東区側は深川新地と呼ばれた干拓地で街づくりの最盛期にあった。
 架橋を進言したのは、五代将軍徳川綱吉の生母の桂昌院。永代橋という橋名も、綱吉の50歳を祝って彼女が名付けたとも伝わる。
 桂昌院は、京都の八百屋の娘として生を受け、後に春日局の目に留まり三代将軍家光の側室に、そして五代将軍の生母に上り詰めた。まさしく「玉の輿」を地で行くシンデレラ人生。桂昌院の町人時代の名前は「お玉」、彼女こそ「玉の輿」のモデルだったという。成田山新勝寺を信仰し、深川新地に江戸別院を招致。娯楽が少ない江戸時代にあって、有名社寺は門前に市が立ち、絶大な集客力を誇った。この招致が起爆剤となり、隣接する富岡八幡宮とともに新地の核となり、街の開発が進んだ。永代橋は単に両社寺への参道としてではなく、深川新地の開発にとって不可欠な産業道路になった。
❸ 海福寺境内の「文化四年永代橋崩落横死者供養塔」(撮影筆者、2015年撮影)
❹ 崩落した永代橋(筆者所蔵)
史上最悪の橋梁事故
 目黒区下目黒の海福寺の境内に、「文化四年永代橋崩落横死者供養塔」(❸)と刻まれた碑が建つ。海福寺は、明治43(1900)年に現在地に移転する以前は深川に庵を構え、碑はその当時に建てられた。碑に記されたように、文化4(1807)年8月19日、永代橋が崩落し、死者行方不明者1,400人を超える史上最悪の橋梁事故が発生した(❹)。
 当日は34年ぶりに富岡八幡宮の例大祭が開催され、多くの参拝客が永代橋を渡っていた。しかし、橋下を御三卿の一橋公を乗せた御座船が通るために通行は一時止められ、その後通行が再開されると群衆が殺到。その重さに耐えきれず橋は崩落した。幕府の調査によれば、深川側から4、5番目の橋脚が2mほど土中にめり込んでいた。崩落の原因は、橋脚の支持力不足だった。
 江戸当初、江戸市中の橋の建設や管理は幕府が担っていた。しかし江戸中期になると、財政が悪化し、橋の維持管理が重荷になっていく。享保元(1716)年に徳川吉宗が八代将軍に就き、享保の改革が施行されると、橋の管理は大きく様変わりし、橋を町方が管理する「民営化」の方針が打ち出された。永代橋も例外ではなく、享保4(1719)年に、町方への払い下げを決定。その後しばらくは、橋の通行は無料だったが、維持管理費が嵩み、享保11(1726)年から有料化された。しかし、料金収入は伸びず、さらに水害による突発的な出費も重なり収支状況が悪化。工事費を縮減するために、架け替えのたびに杭径は小さく、杭長は短くなり、やがて架け替えも先延ばしされ、管理水準は著しく低下していった。そのような状況下で事故は起きた。
 この事故を期に幕府は管理を直轄に戻し、間を置かずに架け替えを実施した。同じように民営化されていた隅田川に架かる新大橋と吾妻橋も、管理を幕府に戻して架け替えを実施。まとまった多額の支出は、幕府の財政をいっそう苦しめることになった。
 現代も江戸時代と同様に、財政が悪化する中、インフラが老朽化し、増大する維持管理費が大きな問題になっている。近年の公共事業費の縮減に伴い、橋も新設はほぼ皆無で、架け替えも先延ばしされ、「長寿命化」と名付けられた補修事業により繕われている状況にある。また、管理を民間に委託する自治体も散見されるようになった。歴史は繰り返すという。再び大きな事故に見舞われなければよいと思うが。
❺ 明治8年に木造方杖橋に架け替えられた永代橋「東京第一名所永代橋之真景(安藤広重(三代))」(筆者所蔵)
❻ 明治30年に鋼プラットトラス橋に架け替えられた永代橋(筆者所蔵)
❼ 明治30年に架け替えられた永代橋(正面)(筆者所蔵)
❽ 倉田吉嗣(1854–1900)
明治の永代橋
幕末の動乱により橋の管理は疎かになり、老朽化がいっそう進んだ。時代が明治に変わると、新政府は、早急に日本橋や隅田川に架かる橋など東京の骨格となる橋の架け替えに着手した。
永代橋も明治8(1875)年に、西洋式の方杖式の木橋に架け換えられた(❺)。橋長は江戸時代と大差なかったが、支間長は約5mから10mへと倍増。親柱は石造、高欄はX型、橋脚と桁への塗装、そして歩道が設けられ歩車が分離されるなど、西洋風のディテールが取り入れられた。設計は、河川や港湾建設の技師として、新政府がオランダから招聘したファン・ドールンの助手として来日したリンドウが担った。
明治18(1885)年7月3日未明、6月29日から東京で降り続いた強雨は、ついに吾妻橋と千住大橋を押し流し、永代橋をはじめ他の隅田川の橋梁も損傷を受けた。この災害を機に新政府は、隅田川の橋の鉄橋化に着手した。明治20(1887)年には吾妻橋が、明治26(1893)年には厩橋が、そして明治30(1897)年には永代橋が鉄橋化された(❻、❼)。いずれの橋も、材料の鉄材は英国や米国から輸入したが、設計、製作、架設のいずれも日本人の手で行われた。
吾妻橋と厩橋が錬鉄製であったのに対し、永代橋では国内の道路橋で初めて鋼鉄が使用された。設計は東京府技師の倉田吉嗣(1854–1900、❽)、製作は石川島平野造船所で、橋長は182.2m、構造は3径間のプラットトラス橋であった。現代のトラス橋とは異なり、橋門構は鋳物製の飾りで彩られていた。
永代橋が、次に大きく姿を変えるのは関東大震災の復興。その時の橋齢は26歳と、鋼橋の寿命としてはかなり短かった。それに比して、現在のソリッドリブタイドアーチ橋は、もうすぐ架橋100年を迎える。このように、長期の供用を可能にした設計コンセプトとは、どのようなものであったのかについては次号に譲る。
紅林 章央(くればやし・あきお)
(公財)東京都道路整備保全公社道路アセットマネジメント推進室長、元東京都建設局橋梁構造専門課長
1959年 東京都八王子生まれ/19??年 名古屋工業大学卒業/1985年 入都。奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で土木学会出版文化賞を受賞