都市の歴史と都市構造 第3回
古代帝国の都「ローマ」
河村 茂(都市建築研究会代表幹事、博士(工学))
図1 城壁に囲まれた古代都市ローマ。赤線は共和政ローマ時代のセルウィウス市壁(BC4世紀)。黒線は帝政期のアウレリアヌスの城壁(3世紀末)。
出典:ウィキメディア・コモンズ(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Plan_Rome-_Servische_Muur.png
図2 古代ローマの領域変遷
出典:世界史の窓「ローマ帝国」挿入図(https://www.y-history.net/appendix/wh0103-069.html
都市ローマの歴史
 都市ローマは、イタリア半島中部に位置、地中海のティレニア海岸から、約25km入ったところにあり、典型的な地中海性気候の土地である。ローマは、ラテン民族の町として形成され、王政期に一時、エトルリア人※1に支配される。その後、共和政期に多部族構成の小都市国家に成長、領域を広げ、帝政期に入ると都市国家の連合体として、皇帝が地中海全域を支配する、領域国家「ローマ帝国」の都となる。
※1 BC8- BC6世紀、イタリア中部を支配した先住民で、ラテン人に都市インフラの建設技術や軍隊組織などをもたらす。
 都市ローマは、丘の上の都市で、この地を構成する7つの丘には、これまで時代ごとに、歴史が幾重にも積層するようにして、都市が形成されてきた。即ち、今日の都市ローマは、市街が広がる丘そして谷を流れるテヴェレ川など、変化に富んだ地形の上に、①民主政を成立させた古代都市、②キリスト教カトリックの総本山としての中世都市、そしてルネッサンスを経て工業化後の③近代国家の首都(1870年以降)という、3つの都市が重層する形でできている。
 ここでは古代(BC753年 – AD476年)の都市ローマを紹介する。古代ローマの形成は、王政期と共和政期、そして帝政期とに分かれる。王政期は、BC753年(建国)~BC509年で、都市ローマはBC650年頃に成立する。このローマという地名は、ローマ初代の王「ロムルス」に由来する。ローマの建国神話に、「戦争に敗れた勇者が、ギリシアのトロイアからやってきて、この地に落ち着いた」、という話がある。そのあたりのいきさつは、今日まで続く地元の祭や、街の象徴である「狼の乳を飲む双子像」に、認めることができる。

【都市国家から領域国家の首都へ】
 ラテン人の街ローマは、BC7世紀、エトルリア人の支配下に入る。彼らは、テヴェレ川沿いの湿地帯を干拓、衛生状態を改善すると、左岸に点在する集落が、次第に成長・統合され共同体としてまとまる。BC625年頃、フォロ・ロマーノ(市民広場)が整備されると、この地を中心に各方面に道路が通り、沿道には建築物が建てられ、ローマの都市化が進む。BC510年、ラテン人はエトルリア人を追い出すと、市民代表の元老院(政務官経験者により構成)と2名の執政官(元首、統領、長)そして民会により構成される共和政(BC509年~BC27年)を確立する。この時期の政治は、政務官を中心に、フォルム(政治討議などを行う広場)で民会を開くなどして、一般ローマ市民の意思を反映させる形で運営された。
 BC4世紀(378年)、ローマ(人口3万人ほど)を防衛するため、都市の周囲をセルウィウス市壁(図1の赤線。高さ10m、厚さ3.6m、長さ11㎞、16大門)が囲む。そして都市とその周辺に、アッピア水道(11系統、110㎥/日供給、約16.5km)、アッピア街道などが建設されていく。BC272年、ローマは半島を統一、地中海へと進出する。この頃、地中海の東はギリシア、西はカルタゴ※2が制海権を握っており、ローマは、そこに割って入る形になる。ローマはBC3 – 2世紀にかけ、3次にわたるカルタゴとの戦いなどに勝利すると、都市国家から領域国家へと姿を変える。これに伴い都市ローマは、帝国の都としての役割を果たすようになる。ローマ帝国の地中海周辺への領域拡大(図2)に伴い、スピーディな意思決定が求められると、帝政へと移行する。
※2 地中海を挟みイタリア半島の対岸、北アフリカ(現在のチェニジア)に位置した、フェニキア人の通商国家。

【古代ローマの隆盛】
 ローマ帝国建設の目標は、パックス・ロマーナの実現にある。帝政ローマの礎を築いたカエサルは、絶えない戦争の主因が「地域的に偏在する食糧等の奪い合いにある」と看破。争いを抑制し、域内の物資(カルタゴ、エジプトの小麦など)の円滑な流通を促すべく、地中海周辺地域の一元的な管理統制に向け、領土の拡大と領域の統治を進めた。
 戦略は、戦いの担い手である兵士(兵役は市民の義務。武器を携え参戦する)の生活向上と、軍事展開に向け、司令塔である都ローマの都市基盤(公共建築物や上下水道など)、それに都ローマを中心とした街道(海道も含め)網の整備である。街道は、非常時に迅速な軍事展開を可能とする軍用道路で、また平時には駅伝制度(郵便、通信)により、地方属州の動きを把握、治安を確保する手段となる。さらに、これに加え海路で都ローマと領内各地を結ぶべく、港湾や倉庫・市場の建設、造船などに力を注ぎ、地中海物流ネットワークの構築を図った。
 カエサルの後継・皇帝アウグストゥスは、カエサルが敷いた路線を堅実に歩む。ただ領土拡大に伴い兵站が伸びると、市民兵として徴兵した農民の内には、農地の管理が困難となり、無産市民化(小作農などになる)し、兵役の義務から外れる者が出てくる。一方、彼らが手放した土地を取得し、大農園経営に入る貴族等の内には、豊かになると兵役を忌避する者が出てくる。そこでアウグストゥスは、軍を維持するため、人種・言語などが異なる属州民を対象に、志願兵制(給料支給、武器供与)を確立、彼らが20年の軍役を終えると、世襲のローマ市民権(私有財産の保証や政治参画など数々の特典)を獲得できるようにした。
 また、アウグストゥスは、帝国化過程で各地の軍団を吸収していったため、目的を遂げると膨らんだ帝国軍を縮小する必要が生じた。そこで拠点となる地に120の新都市を建設、兵士に土地を与え住まわせる。こうして軍を削減、併せて地域の安定化を図った。一方、都ローマでは、無産市民となり流入してくる、貧困層の腹を満たし暴動を抑えるため、小麦の無料支給ないし安価な給付を行う。また、一般住民の不満が顕在化しないよう、上下水道や建築法規を整え、安全性やアメニティを確保、さらに治安確保の観点から、競技場、闘技場、競馬場、劇場等の娯楽施設、病院、図書館、公衆浴場等の厚生施設など、公共建築物の建設を進める。こうした「パンとサーカス」の施策により、1 – 2世紀パックス・ロマーナが実現する。このローマ最盛期のBC27-AD180、都市人口は100万人を超える。
Column
ローマ街道
 ローマ初の成文法「十二表法(BC452年制定)」には、道路整備の規定があり、その仕様(道路幅の確保:直線部分は5人の兵士、2台の馬車が通れる2.4m、曲線部分は4.8m)が明記されている。これを受け「建築書」には、具体の整備方法(路盤構造、表層舗装、排水勾配など)が記されている(図③)。道路建設には民間のほか軍隊も動員され、その費用は、国(属州税、関税、売上税)や都市が負担、また皇帝や沿道土地所有者からの寄付もあった。こうしてローマ最古のアッピア街道ほか11本の軍用道路375幹線(8.5万km以上、支線を加えると延長15万km)が整備される(図④)。
図3 街道の標準的な舗装断面
A:路床、B:下層路盤(手の平大の石)、C:中層路盤(コンクリート片や砕石など)、D:上層路盤(セメント)、E:表層石、F:歩道、G:歩道止め石
出典:ウィキメディア・コモンズ(https://commons.wikimedia.org/wiki/ File:Via_Munita.png
図4 117年頃(最盛期)のローマ帝国の主要街道概略図
出典:ウィキメディア・コモンズ(地名は著者)( https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Voies-romaines_Empire.jpg
写真1 水道橋
出典:ウィキメディア・コモンズ(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Pont_du_Gard_FRA_001.jpg
写真2 フォロ・ロマーノ
出典:ウィキメディア・コモンズ(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Forum_Romanum_Rom.jpg
写真3 コロッセオ
出典:ウィキメディア・コモンズ(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Colosseum_in_Rome,_Italy_-_April_2007.jpg
写真4 トレヴィの泉
出典:ウィキメディア・コモンズ(https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f2/Fontana_di_Trevi_a_Roma.jpg
図5 ポルトゥス(クラウディウス)港とオスティア
出典:本村 凌二『ローマ帝国と地中海文明を歩く』講談社、2013年
写真5 インスラ(多層型共同住宅)の模型
出典:ウィキメディア・コモンズ(https://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:InsulaAPH.jpg
写真6 4世紀のローマ模型(ローマ文明博物館)
出典:「Italo Gismondi・・古代ローマ都市・模型作製に36年費やした建築家」 挿入模型写真に、著者が施設名を落とし作成。
https://ameblo.jp/bandazakura/entry-12463389530.html
都市建設
【都市施設と公共建築物の整備】
 人口が増加してくると、ローマは市街の整備に向け、エトルリア人からもたらされた優れた建設技術を駆使して、道路や水道(写真1)のほか下水道も整備し、谷部の湿地帯を開発していく。共和政期のBC5世紀、市街の中心に広場を配置、その周辺には公共建築物群を建設していった。こうしてローマは、パラティーノの丘の神殿・宮殿と、平地のフォロ・ロマーノ(写真2)という、ふたつの都市核をもつ都市として整備される。その後の共和政期のBC5 – 2世紀、都市ローマに人口が集中し、市街がアメーバ状に拡大すると、都市構造は次第に明確さを欠き、整然とした佇まいが失われ、無秩序な状況を呈するようになる。
 そこでBC1世紀中頃、古代ローマの立役者、カエサルが都市計画法を制定、これに基づき市街を拡大、都心部の再開発を進めると、交通が円滑化する。そしてフォロ・ロマーノやカエサル広場、バシリカ・ユリア(裁判所、市場などの多目的空間)、図書館など、公共建築物や記念建造物が整備されると、これらを使い市や、各種集会が開催される。また、公衆浴場、劇場、コロッセオ(写真3)などの施設もでき、政治面に加え、厚生・娯楽の面からも市民生活は充実していく。
 カエサルに続くアウグストゥスは、「私は、煉瓦の街を大理石の都として残す」と語ったように、彼は都市ローマ(1,783ha)に都市広場や水道(トレヴィの泉(写真4)は、この時期に整備された給水末端。18世紀に位置を変えバロック風に修景される)を整備しただけでなく、密集した貧民街に集合住宅を建設。さらに中心街を再開発し、神殿、劇場、闘技場、公衆浴場などを建設すると、各地から人びとが集まり、大都市化していく。そこで市域を14の行政区に分け運営する。このあとトラヤヌス帝の時代を迎えると、古代ローマ帝国は最大版図を形成、平和な時代を迎える。
 3世紀末(272年)、アウレリアヌスの城壁(図1の黒線。幅3.5m、高さ8m、長さ19km)が、市街(13.71㎢)を囲むように建設されると、7つの丘の谷部を縫うように、主要な門と都心との間を結ぶ、幹線道路が整備される。この道路は、山から切り出された黒石で舗装される。また、市内各所(352カ所)に設置された噴水には、上水(19系統)が供給され、市民はここから水を汲み上げた。公衆浴場も市内に800カ所以上整備され、大きな浴場(カラカラ浴場は3,000人収容)には図書館や庭園、また陸上トラックや水泳場、体育館などが併設され、市民のレジャー施設となった。
 市街には、宮殿のほか、皇帝絡みの神殿(約400)、柱廊、フォルム、浴場、記念碑などが散りばめられるとともに、劇場での演劇やコンサート、大競技場での戦車競技や、コロッセオでの猛獣と剣闘士の戦いなどの見世物が、ローマのエンターテイメントとして、たいそう人気を誇った。なお、ローマ市内は、夜明けから午後2時(夏は3時)まで、車輪付き車両の通行が禁止されたため、裕福な人びとは輿に乗り担がれて移動した。
 一方、市民に食糧ほか物資を供給する物流基地ポルトゥス(クラウディウス)港が、ローマの外港・オスティアの北3kmに整備される(図5)。また、この港を防風から護るため、頑強な防波堤が築かれる。さらに、陸側に内港(トラヤヌス港)が整備されると、その周囲には巨大な倉庫や荷捌き施設などが建設されていく。この港ができるまで、地中海各地からローマへの船荷は、一度ナポリに持ち込まれ、ここで小分けにされたあと、オスティアに運ばれていた。

【建築制限と再開発】
 古代ローマは、その成長過程で、領域国家の建設をめざしたため、統治の要である帝都には人口が集中、貴族は丘の上の乾燥した台地に、ドムス(風呂付の一戸建ての邸宅)を建てて住んだが、庶民はインスラ(写真5)と呼ばれる、高層住宅(下部は石造、上部は木造の共同住宅)に暮らした。
 そこでローマは、市街の密集化を抑制するため、BC450年頃から、危害防止と衛生の面から、建物相互の間隔を5フィート空ける規定を定め、建築を規制した。その後、人口が増加してくると、住宅は独立して個別に建てるよりも、互いに接し共通の壁で各住戸を区画する習慣ができ、インスラが建築される。インスラはバルコニー付で、1階に中庭を置き、このアトリウムを囲む形に店舗や倉庫、事務所が配置される。住戸は、防災・環境面から、原則3階以上に取られた。ローマでは、過密な住環境の形成や、地区のスラム化を抑制するため、土地の有効利用の一環として、BC1世紀頃から市街の高層化を進めた。インスラは、通常6~7階建てであるが、場所によっては8~9階建て、100ローマン・フィート(29.5m)を超える高層住宅も現れた。
 そこで市街の密集化による衛生状態の悪化と、建築物の高層化による地震や火災の危険(倒壊、避難)を回避するため、皇帝アウグストゥスは、インスラの高さを70ローマン・フィート(20.7m)に制限、7階建て以上の建築を禁止する。つづくトラヤヌス帝は、これを60ローマン・フィート(17.7m)に引き下げる。しかし、64年に大火が起こり、ローマは市街の1/3を失ってしまう。皇帝ネロは、都市再生にあたり、防火や公衆衛生の面を重視、道幅を広げて市街を区画整理、建築物の高さも街路幅員の2倍以内に制限、併せて採光・排水関係の規定を整備する。その上で住居は固有の壁で囲み、必要な個所は耐火性の石でつくること、また共同住宅には、中庭や消火器具を設置することなどが規定される。そうしてローマの街なみは一変していく(写真6)。
写真7 パンテオン(2世紀建設、現存)
出典:ウィキメディア・コモンズ(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Pantheon_Front.jpg
写真8 パンテオン内部
出典:ウィキメディア・コモンズ(https://commons.wikimedia.org/wiki/ File:Pantheon11111.jpg
古代ローマの衰退
 ローマ最盛期の1 – 2世紀、市民が軍役を忌避するようになると、皇帝の親衛隊に傭兵が用いられたことをふまえ、116年の疫病(天然痘とみられる)の流行に起因する、人口の大幅減少をうけ、辺境部から順次、軍団の傭兵化(主にゲルマン人)が進む。その後、気候変動寒冷化に伴い、騎馬遊牧民のフン族が西に進み、周辺に暮らすゲルマン人等が、ローマ領内へと押し出される。これを受け5世紀、アウレリアヌスの城壁が、高さを8mから16mに改修される。この頃、寒冷化がさらに進展、ゲルマン人の移動規模が大きくなると、兵士の待遇悪化や軍団内の内紛もあり、国境警備の傭兵が雲散霧消、異民族の侵入を許してしまう。そうして街道や都市インフラなどの破壊が進み、修理もなされないでいると、人や物資の動きが細り、ローマに入る税収も減って、街道や都市インフラの維持や、軍の保持が困難となる。悪循環である。そうしてローマは次第に機能を低下、衰退していき、400年間続いたローマ帝国も、395年に東西に分裂、西ローマ帝国は476年に滅亡する。
 ローマ人は、ギリシア人のように建築等に芸術精神を発揮することは少なかったが、エトルリア人から学ぶなどして、都市整備や建築の技術面では、存分にその能力を発揮した。具体には、道路(橋を含む)や上下水道の整備、暖房設備(ハイポコースト※3)などの開発である。また、テヴェレ川左岸には天然セメントを用い、コンクリート造では世界最古となる、港湾施設や小麦の貯蔵庫などを建設した。ローマ建築の特徴は、火山灰を混入したコンクリート(ローマン・コンクリート)の活用のほか、アーチ(ドーム、ヴォールト含む)方式の開発により、建築架構を工夫することで、三次元の立体的な大空間の創出を可能としたことである。こうして神殿やバシリカ、市場や倉庫のほか、公衆浴場や闘技場などが建設されていった。具体には、パンテオン(写真7、8、前面に8本の円柱、内陣には直径43.3mの半球体ドーム)、トラヤヌスの市場、コロッセオ(写真3)などがつくられ、パンとサーカスを求める民のニーズに対応した。住宅建築では、貴族の館などにアトリウム形式が確立、玄関を入ると天窓を開けた広間がとられ、これに沿って各部屋が並んだ。
 ローマ帝国の領域拡大に伴い、大都市化する都ローマでは、帝国の司令塔として十全に機能するべく、都市施設や建築物などの整備において、新たな空間構成の技法や構造材料を開発、併せて必要な建築法規も整えることで、パックス・ロマーナを実現した。このように都市繁栄のためには、時代ニーズを受けた形で、都市活動や市民の暮らしを支える施設の整備に向け、技術開発(法制度も含め)を進めることが肝要となる。
※3古代ローマの公衆浴場や個人住宅・ヴィラに使われた、セントラル・ヒーティング。炉から床下や壁に熱気を送り、屋根付近から排出する。

[参考文献]
桜井万里子、木村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、1997年
ベルナルド・ロゴラ『古代ローマの歴史 ヨーロッパ文明のルーツを求めて』PHP研究所、2000年。絵本として描かれているので理解しやすい。
青柳正規、NHKローマ帝国プロジェクト『NHKスペシャルローマ帝国Ⅰ-Ⅲ光と影』日本放送出版協会、2004年。ローマ帝国の誕生から繁栄、衰退までを素描、人類史におけるローマ帝国の意義が、大略把握できる。
ピエール・グリマル『古代ローマの日常生活』白水社、2005年
塩野七生『ローマ人の物語』新潮社、2006年。古代帝国の建国、繁栄そして衰退への流れが、論理的にわかりやすく描かれている。
木村凌二『興亡の世界史第04巻 地中海世界とローマ帝国』講談社、2007年
日端康雄『都市計画の世界史』講談社、2008年。都市ローマ等について記述。
レイ・ローレンス『古代ローマ帝国トラベルガイド』創元社、2010年。古代のローマ市内の施設や生活関連の情報が載っている。
永井俊哉ドットコム「西ローマ帝国はなぜ滅亡したのか」(https://nagaitoshiya.com/)、2017年。
平本一雄『世界の都市 5大陸30都市の年輪型都市形成史』彰国社、2019年。世界との関わりを背景に、興隆・衰退する歴史を中心に、空間構造形成の多様性を読み解いている。
神野正史『30の都市からよむ世界史』日本経済新聞出版社、2019年。王政期から現在までローマの動きを概括している。
世界の歴史まっぷ https://sekainorekisi.com/
世界史の窓 https://www.y-history.net/
河村 茂(かわむら・しげる)
都市建築研究会代表幹事、博士(工学)
1949年東京都生まれ/1972年 日本大学理工学部建築学科卒業/都・区・都市公団(土地利用、再開発、開発企画、建築指導など)、東京芸術大学非常勤講師(建築社会制度)/現在、(一財)日本建築設備・昇降機センター常務理事など/単著『日本の首都江戸・東京 都市づくり物語』、『建築からのまちづくり』、共著『日本近代建築法制の100年』など