都市の歴史と都市構造 第4回
律令国家の都「長安」
河村 茂(都市建築研究会代表幹事、博士(工学))
図1 関中盆地
出典:ウィキメディア・コモンズ(地名は著者)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/ 7/7b/China_topography_full_res.jpg
図2 シルクルート
出典:ウィキメディア・コモンズ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Silk_route.jpg
図3 都・長安の域内での位置の変遷
出典:「漢詩唐詩研究『古代都市計画唐長安』」挿入図
http://kodaitoshikei02.ken-shin.net/
左下の紫色:周代の豊京(西側)と鎬京(東側)、黄色:秦代の咸陽(渭水の北側)と阿房宮、中央のオレンジ色:前漢代の長安(城内の未央宮、長楽宮、城西の建章宮)、中央やや右下:隋代・唐代の長安と大明宮
図4 中国における紀元後の気温偏差
中国の過去2000年の気温変動。青・赤はシミュレーションと日記や公的文書記録などから復元した値の解析結果。
出典:吉野正敏、連載エッセイ(21)「異常気象時代のサバイバル─過去2000年の気候─その変化・変動の研究」挿入図(一部省略)
https://www.bioweather.net/column/essay5/sw21.htm
都市長安の歴史
【都市長安】
 都市長安(現在名、西安)は、中国の内陸部をかなり入った、関中盆地(図1)に位置する。この地は、南に富士山と同じ高さの、太白山を主峰とする山並みが東西に連なるとともに、北から西にかけては、起伏の激しい黄土高原が広がり、その先の西方も山々が遮るなど、周囲を天険に守られ、防衛に優れていた。また東側の土地は肥沃で、黄河が南下し、この地で大きく湾曲するなど、水利の便がよかった。さらに、アジアの東西をつなぐ、シルクルート(図2)の起終点にもなっていた。このように長安は、天然の要害に囲まれた盆地で、都市防衛上は絶好の地勢にあり、ユーラシア大陸西部との隊商交易に便利であった。そうしたところから、陸路が重視された古代~中世において、中国歴代王朝の都として重用されてきた。
 長安の都市としての起源は、BC11世紀に周の文王が建設した豊京、また西周の武王が建設した鎬京に遡る。その後、この地には、秦(咸陽)、前漢、隋、唐など8王朝が、都合、1000年以上(BC202年-AD907年頃)もの長きにわたり、政治権力の中心「都」を置いた(図3)。漢の時代の長安(BC190年完成)は、四方に城壁がめぐる不規則な四角形で、各辺には門が設置され、宮殿は南西部の台地上に配置された。また、宮殿の周りに高さ8mの城壁がめぐり、都城の東と西には、住民向けに商業地が配されたが、まちなみは雑然としていた。この時代の長安の人口は、50万人ほどとみられている。

【気候変動と中世中国】
 中世、隋・唐の時代が始まる前、ユーラシア大陸の西側・欧州の地では、遊牧民(フン族:4~6世紀、中央アジアから東欧にかけ活動)におされ、ゲルマン民族などが大きく南下。ローマ帝国を衰退させると、各地に国家が分立していった。一方、大陸の東側でも同じ頃、遊牧民(匈奴や鮮卑などが、中央アジアから東アジアにかけ活動)が中国に侵入。400年以上続いた秦・漢帝国(BC246 – BC206 – AD220年)が滅亡すると、各地に政治権力が分立。三国時代(魏、蜀、呉)、五胡十六国時代*1、魏晋南北朝時代を経て、6世紀後半、ようやく異民族(鮮卑)の血が入った随が、そして唐が中国を再統一する。中国の地では、これ以降、漢民族と異民族とが、交互に国家を組織していく。
 図4は、紀元後の中国における気温偏差を表したものである。これを見ると、漢が滅びた3世紀初め、安史の乱により唐が衰退へと向かう8世紀、そして元が衰退・滅亡する14世紀は、気候変動寒冷化の時期にあたる。逆に、温暖化の時期には、隋(6世紀)や元(13世紀)が興隆している。気候寒冷化は、気温の低下だけでなく、河川氾濫による水害もあり、飢饉が発生、外部からの侵入者も多く、栄養不足で抵抗力の低下した人びとの間に、疫病が流行、人びとは生き残りをかけ、各地で必死の抗争を繰り広げる。この3 – 9世紀は社会不安を映し、紀元前後にインドから中国に入った仏教が、人びとの間に広がっていく。
*1:4世紀以降、五胡(匈奴、鮮卑など5つの部族)と称される遊牧民(一部は漢において辺境警備の傭兵として活用された)が、中国の地に入り、華北やその周辺において覇権を唱え、多くの国を建設していった。
図5 大河川の流れと大運河(①②③④)の配置
出典:ウィキメディア・コモンズ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:China_Sui.jpg
写真1 現代の京杭大運河
出典:「煬帝とはどんな人? 」挿入図
https://rekisiru.com/7997
随、唐帝国の戦略
【社会秩序の確立】
 秦・漢帝国の滅亡以降、300年にわたり四分五裂した王権。荒廃した国土に秩序を回復し、平和で安定した国をつくろうとすると、大方が共有できる理念の下、人民の行動に箍を嵌め、その行動を規制する必要が生じる。そこで隋・唐の時代に考え出された、人民統治の方法が「律令制」である。律令の律は刑法で、犯罪に対し罰則を定める、また令は行政法と民法で、行政法は政治を行う上で、役人が守るべきルールを定める。
 具体には、中世中国社会の礎となる、土地制度として「均田制」(国が民に土地を給付、民は収穫の一部を国に納め、定年になると土地は大方、国に返却される。また、これと連動し租庸調の税制も定められた。780年頃廃止)を定め、これに併せ軍役制度として「府兵制」(民に武器を持たせ任務に就かせる。民には納税か兵役のどちらかを課した)を確立、この両制度を戸籍制度で結ぶことで、隋・唐は人民の行動に大きく箍を嵌めた。また、専制君主の下、中央集権体制を取り、郡県制を敷いて地方を統御するなどして、階層構造(ヒエラルキー)を形成、そして制度の運用にあたる国家組織として、「三省六部」を定めるとともに、法律・制度の運営にあたる官吏の登用に、科挙の制(試験制度)を設け対応した。こうして隋が新たな国家像を描き、これを唐が継承し運営、人民の支持を得て中国を統治していく。

【京杭大運河の建設】
 人類5000年の歴史をみると、地球社会において東西方向、すなわち同緯度にある地域は、気候が似ており、土地の文化が伝播しやすく、相互の交流により文明もよく発展した。一方、土地が南北に長いと、緯度により気候が大きく変化することから、アメリカ大陸にみるように、地域の文化が広がりをみせにくい。ユーラシア大陸では、紀元前からラクダやロバまた船などを介し、人の往来や物資の交換があり、それに伴い文化も伝播した。
 中国の地は、東西だけでなく南北にも広がっている。この地の主な食糧は小麦と水稲で、淮河(図5)が流れる華中の秦嶺・淮河線(年間降水量800~1,000㎜による境界)を境に、このラインより上は、気候が寒冷で乾燥しがちな華北の小麦耕作地帯、下は温暖で湿潤な華中・華南の水稲耕作地帯となっている。
 中国では漢が滅ぶと、中世に随・唐が成立するまで、国土は分裂し統一に至らなかった。それは国内の大河(黄河、長江など)が、みな東西方向に流れ南北を分断し(図5)、軍勢の進軍を阻んだことが大きい。そこで隋の皇帝は、587年、軍事と経済の連携を狙い、黄河と長江を貫き中国の南北を結ぶ、京杭大運河(図5、約2,500km)の建設に入る。この大運河建設は、南船北馬ではないが、農業生産性の高い南部の豊かな食糧や物資を、痩せた土地が続く北部へと輸送して、その消費にあてるとともに、遊牧民の血が入った華北の戦闘に強い騎馬軍団を、中国国内で広く活用しようとする戦略である。食糧と兵を南北で動かすことで、社会統合・安定化を図る政策といえる。大運河の完成は610年である。しかし、工事に100万人を超える人民の動員があり、多大な負担を強いたことが一因となり、隋は倒れ唐が興る。その後、ユーラシア大陸での人や物の動きが大きくなると、高速での大量輸送に向き費用も安い、船での輸送(写真1)が有利となり、陸の隊商交易*から河川や海洋など水運交易へとシフトする。
* 数百頭、場合により千頭を超えるラクダ(1頭で200㎏の荷を1日で30km運搬)を連ね、大量の荷を運ぶ商人集団を隊商という。当時、船は一隻で数十トンの荷を輸送していたので、これは150-200頭程度の隊商に匹敵した。
図6 周王城図
出典:布野修司「『周礼』考工記、「匠人営国」条考(2)」挿入図
https://livedoor.blogimg.jp/funoshuji/imgs/f/f/ff468f6e.jpg
図7 隋唐長安城
出典:每日頭條、龔國強「有關隋唐長安城城門的幾個問題」挿入図
https://kknews.cc/culture/42rjz9g.html
写真2 長安の城壁
これは明代に改築されたもの、高さ12m。
出典:「世界散歩、中国長安」挿入図
https://sekai-sanpo.com/travel-guide/xian-great-wall/
写真3 大明宮含元殿前の御道復元模型
御道は、幅員200m、延長600m弱。沿道に、伝統的な建物群を復元。
出典:「中世のメトロポリス長安を掘る」挿入図
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/teji/200612/10teji-1.htm
城塞方格都市の建設
【永遠の都】
 隋・唐時代に建設された長安は、前漢の都・旧長安の東南約10kmの地(図3)に、律令社会構築の一環として建設される。すなわち、隋・唐は、五胡十六国や南北朝の分立時代を経て、荒れた国土をならし社会を再統合、平安な世としていくため、その要としての都を、防衛と治安に重点を置き、中央集権下の統治拠点に相応しく建設する。
 582年、隋の初代皇帝文帝は、北から南へと下る丘陵状の台地を選ぶと、この時代の統治理念「平和・安定」を、「秩序の確保」により実現するべく、周到に都市計画をまとめ取り組んだ。すなわち、長安は計画都市として、太陽の運行や北極星の位置を見極め、中国古来の伝統思想に従い(周王城図、図6)、南北方向に都市の中心軸を取り、都の北に宮城を配すと、その下に東西に宗廟(祖先の霊廟)と社稷壇(土地や穀物の神を祀る祭壇)を置き、市街を左右対称に碁盤目状に規則正しく割り、道路や街区を整えた。完成は、唐の三代皇帝の時代に入ってしまうが、「長しえに安らかなり」と書く長安は、平和が末永く続く、「永遠の都」として建設された。

【都市計画へ条坊制導入】
 隋の文帝は、部下の建築家・宇文愷に、礼的秩序を重んじ条坊制(中央部の南北に朱雀大路を配し、市街を南北の大路(条)と東西の大路(坊)で、碁盤目状に左右対称に構成する、方形の都市プラン)の適用による、都市計画の策定を命じた。この碁盤の目のようなグリッド・パターンによる市街は、防衛面からみると、敵に攻め込まれやすいが、都市とそれを構成する街区、それぞれを城壁と土塀で囲み閉鎖型の構造とし、夜間外出禁止などソフト面の施策を絡めることで、秩序の確保と防衛・治安との間に両立を図った。都市の形態は、南北8,652m東西9,721mの方形(面積8,400ha、平安京の約3.5倍)とし、その内部を碁盤目状の市街として構成した(図7)。グリッド・プランは、土地の配分や税の賦課に便利で、人や土地の管理が容易となる。
 都市長安は、まず隋の時代に大興城として建設され、その後、唐代に手が入り、長安と改名される。建設プロセスとしては、第一に、外敵の侵入から護るため、都城の周囲を、高さ5mほど土で突き固め、山手線の長さに匹敵する長さの城壁(写真2)で囲むと、その外側には堀をめぐらし、宮城の北には御苑を配した。次に、方格形態の都市とするため、市街を碁盤目状に区画、さらに、都市計画として宮城・太極宮や大明宮(写真3)、また皇城(官庁街)、東西の市(商業地)や坊(住宅地)等を、街路や苑地と関係づけ、秩序だて一体的に都市を構成した。
 すなわち、都市の内部は、北に宮城、その南に皇城を配すとともに、皇城の南門前には東西に幅120mの街路がとられた。また、その南側には南北方向に中心軸として、道幅150mの朱雀門街が4kmにわたり続いた。この中心軸を挟んで、東西に配置された市(商店の営業は正午から日没まで)は、周囲約1km四方を土壁で囲んだひとつの坊(街区)で、この内には井の字の形に道が入った。そしてこれ以外の市街では、商店の立地を禁止した。また、市街は朱雀門街を軸に、東西左右対称に区画され、南北に11本、東西に14本の街路が、幅員25~75mで碁盤目状に構成された。東側の市街は、主に官吏の住宅地で、庶民は西側の市街に住んだ。東西あわせると、住宅地は都城面積の7/8を占めた。なお、南東部の隅に園地が配され、皇帝はじめ一般庶民の遊楽の地とされた。この南東隅の苑地には曲江池も置かれ、自然風景と都城との調和が図られた。
 このように碁盤目状に市街が区画され、格子状に配置された道路の内側(街区)が、「坊」と呼ばれる住宅地である。坊(東西560〜1,120m、南北500〜590m、面積30〜60ha)は、治安の観点から、高さ3mほどの土塀で囲まれ、その内側は十字の形に小路がとられた。坊は、街区の規模の大小により、門が2~4設置され、治安の面から夜は閉じられた。坊は東西に計108あり、街並みは整然としていた。この長安の都城には、すべての社会階層の人びとが暮らした。坊は閉鎖型で、その中は住戸100戸単位に里正が任命され、人民の管理を行った。各街区の南側には溝が取られ、道路には楡の並木が配された。長安の都市計画は、わが国でも平城京、平安京の建設にあたり、その範となった。
 なお、随・唐には駅伝制度があり、道路は30里(約17km)ごとに駅站(駅館、公営の宿)が置かれ、ここに馬が配置され文書等の伝達・配送が行われた。また、街道等の要所には関所が置かれ、旅人や荷を検分、商人からは税を徴収した。
写真4 大雁塔
出典:ウィキメディア・コモンズ
https://ja.wikipedia.org/wiki/File:Da_yan_ta.jpg
写真5 青龍寺
出典:ウィキメディア・コモンズ
https://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Seiryu2004_1224..JPG
唐の盛衰
 こうして国による土地の領有と、土地を活用した人民統治により、中国は唐の3代皇帝太宗の治世に、国内が最もよく治まり安定したところから、この時期は「貞観の治」(627 – 649年)と称される。この頃の645年に玄奘三蔵法師が、インドから経典や仏像を持ち帰り、大雁塔(大慈恩寺境内、高さ64m、写真4)にこれを収蔵する。また、最盛期は、6代皇帝玄宗の治世で、同様に「開元の治」(713 – 741年)と称され、李白や杜甫などの詩人も出て、文化の花が咲いた。わが国からも804年、遣唐使に随行する形で、留学生として空海が長安に渡り、青龍寺(写真5、582年創建)で仏教を学ぶ。この時期、長安は、シルクロードを介し、ユーラシア大陸各地から多くの人びとが集まり、世界最大規模の国際都市を形成した。こうして唐は、隋の時代とあわせ、300年を超える国の統治に成功する(隋581 – 618年、唐618 – 907年)。
 しかし、長きにわたり繁栄を誇った唐ではあるが、長江下流域の山間の谷地などで、水田開発が進むとともに、茶やサトウキビの栽培なども加わり、農業生産が増大すると、農業の商業化が進展、商売の優劣により、農民の間に貧富の差が生じ、これが次第に拡大していく。また、これに天災が加わると、農民の一部は土地を手放し無産民化し、本籍地を離れる者が出てくる。こうして農家の小作化、土地の私有化が進み荘園が増えると、律令社会の基礎をなす均田制が崩れ、税収も細り、府兵制での徴兵もままならなくなる。
 そこで土地の私的所有の進行や、民の貧富の差の拡大をふまえ、新たな税(780年の両税制、夏と秋に徴収)を起こし、現在地課税とする。また、募集兵制(723年)を取り入れ、749年には都の警備に傭兵を用いる。そうして時が流れると、辺境の警備にも、多くの傭兵が用いられるようになる。しかし、辺境の傭兵軍団は、中央の皇帝の目が届かず、軍事統制力が低下、節度使という現地司令官の下で、反乱(安史の乱755年)を起こし、政権を揺るがす。また、この乱の始末や、財政の窮乏化に対応し、塩の専売制を導入すると(塩の価格は10倍ほどに跳ね上がる)、塩の密売人が農民を誘い反乱(黄巣の乱875年)、皇帝を長安から追い出す。その後、皇帝は盛り返すが、皇室内で臣下の裏切りにあい、都が洛陽へと移ると皇帝権威は喪失。さらに都が大運河沿いの開封に寄ると、唐は滅亡する。どこか西ローマ帝国の最後と似ている。

【都の立地】
 都・長安の都城の形態や市街の構成は、中世中国の統治理念を反映し、社会秩序を体現したものとなった。しかし、国際都市化に伴い都・長安の人口が増大すると、関中盆地は、それほど広くないことから、時期により食糧事情が悪化、皇室も300km東方の洛陽へと一時的に避難し、時を過ごすようになる。後に大運河が機能を発揮し、華中・華南から長安に向け食糧輸送が常態化すると、都の機能は次第に大運河沿いへと寄っていく。
 都が大運河沿いに寄ったのは、こうした国内事情だけでなく、ユーラシア大陸内での人と物の動きの活発化に伴い、陸路より河川や運河また海路が重視されるようになり、都市の立地に変化が起こったためである。永遠の都として建設された長安であるが、その立地が時代の変化に適合しなくなると、次第に、地方都市化が進み、中国の都が長安に戻ることはなかった。
 このように長安の盛衰を見ると、都となるような都市の立地は、時代のニーズが反映していることがわかる。すなわち、この時代までは、防衛や統治の容易さが特に重要で、自然地勢のほか、都を支える後背地・田園地帯の食糧生産能力や、交通・輸送路の整備状況などの影響を受けた。しかし、人口が増加(最大人口規模100万人)し、食糧を他地域に依存、また社会経済の活動量が大きくなり、他都市との相互関係が深まると、次第に活動の利便性や経済効率が重視され、交通・輸送網の整備状況や、その手段(牛馬、船など)との適応関係が重要となる。
Column 1
シルクルート
 シルクルートは、ユーラシア大陸の東西を結ぶ交通路・交易路で、①北方の草原地帯を通るルート、②中央の乾燥した砂漠地帯を通るルート、そして③インド沖を通る海洋ルートの3本が形成された。
 シルクルートは、ユーラシア大陸における交易・文化の大動脈で、古来より中東などを経て、欧州と中国はつながっていた。そして東の中国からは絹や陶磁器、逆に中国には金や宗教(仏教ほか)などがもたらされ、相互に影響を及ぼしあっていた。
Column 2
遊牧民と騎馬
BC1300年頃、鉄器文化の進展に伴い、短剣やナイフ、斧などとともに、馬具(くつわ、手綱など)が開発され、馬の制御が容易になる。これに伴い、急な発進や停止また旋回ができ、スピードも速く、移動性に優れる馬の活用が進む。
 こうして騎馬により人間の行動範囲が広がると、BC700年頃、南ロシアのスキタイで、馬に乗って家畜を追い季節毎に牧野を移動する生活スタイルが確立する。牧畜において、羊の管理には通常、牧童ひとりで200頭ほどとされているが、これが騎馬だと1,000頭に広がる。
 この騎馬方式は、家畜を追うだけでなく、交易ルートの拡大や、軍事面においても効果が大きいことが判明すると、遊牧民の間に騎馬化が進展する。
 そうして、この騎馬遊牧スタイルは東へと伝播、匈奴・鮮卑をはじめとする五胡、またイランやトルコなどの遊牧民の間にも広がり、ユーラシア大陸東西の草原地帯に普及していく。以後、「一騎当千」といわれるように、騎馬遊牧民は、定住農耕民との戦闘において、優位な地位に立つ。この状況は、交易ルートが陸から海へとシフト、軍事面において鉄砲や大砲など火器利用が常態化する15~16世紀まで続き、南方に暮らす定住農耕民にとって、騎馬遊牧民の存在は脅威となる。
[参考文献]
京都文化博物館『長安 絢爛たる唐の都』角川書店、1996年
砺波護、武田幸男『世界の歴史6 隋唐帝国と古代朝鮮』中央公論社、1997年。古代秦漢帝国の解体から南北対峙を経て隋唐帝国の律令体制の構築と崩壊までの大きな流れがつかめる。
尾形勇、平勢隆郎『世界の歴史2 中華文明の誕生』中央公論社、1998年。中国古代帝国の成立・衰退の動きや漢代の長安の建設過程などを概略知ることができる。
妹尾達彦『長安の都市計画・選書メチエ223』講談社、2001年
氣賀澤保規『中国の歴史6 絢爛たる世界帝国 隋唐時代』講談社、2005年
森安孝夫『興亡の世界史 シルクロードと唐帝国』講談社、2007年
並木頼壽、杉山文彦『中国の歴史を知るための60章』明石書店、2011年。中国における時代毎の社会のあらましを辿ることができる。
神野正史『30の都市からよむ世界史』日本経済新聞出版社、2019年。古代中国の格子状街割として長安を事例に規模や規格構成などを紹介している。
丸橋允拓『シリーズ中国の歴史② 江南の発展』岩波新書、2020年。
吉野正敏「異常気象時代のサバイバル 過去2000年の気候 その変化・変動の研究」 https://www.bioweather.net/ column/essay5/sw21.htm
世界の歴史まっぷ https://sekainorekisi.com/
世界史の窓 https://www.y-history.net/
河村 茂(かわむら・しげる)
都市建築研究会代表幹事、博士(工学)
1949年東京都生まれ/1972年 日本大学理工学部建築学科卒業/都・区・都市公団(土地利用、再開発、開発企画、建築指導など)、東京芸術大学非常勤講師(建築社会制度)/現在、(一財)日本建築設備・昇降機センター常務理事など/単著『日本の首都江戸・東京 都市づくり物語』、『建築からのまちづくり』、共著『日本近代建築法制の100年』など