都市の歴史と都市構造 第2回
欧州文明の聖地「アテネ」
河村 茂(都市建築研究会代表幹事、博士(工学))
図1 アテネ周辺の地勢
出典:古代ギリシア地図に著者が地名を追加し作成。
http://www.nextftp.com/styx/greece/map.html
写真1 アクロポリスの丘
出典:ウィキメディア・コモンズ
https://commons.wikimedia.org/wiki/ File:View_of_the_Acropolis_Athens_(pixinn.net).jpg
都市国家の形成
 オリエントとの交易活動を通じ、BC3000年頃エーゲ海に広まった青銅器文明。BC2000年以降は、このエーゲ海の地に順次、クレタ、ミケーネ、トロイアなどの文明が栄える。BC1400年頃、小アジア(現在トルコが位置するアナトリア半島)のヒッタイトが、鋼を開発し強国となるが、BC1200年頃に突然崩壊する。この後のBC1150年頃、製鉄技術もつドーリア人が、ギリシアの北方から侵入し、ギリシアの地に定住する。
 こうしてエーゲ海周辺に鉄器が普及、これを活用し森林等が開発され、農業生産(小麦、オリーブ、羊など)が拡大、人口が増えると、各地に都市国家(ポリス)*が誕生する(これを第二の都市化という)。しかし、ギリシアの地は元々山がちで、樹林の伐採や山羊(木の根や芽を食べる)の放牧もあり、裸地化、岩肌がむき出していた。また、ギリシアは土地の起伏がはげしく、平地で小麦などを生産する農耕には適さなかった。そこで人びとは、わずかばかりの平原や傾斜地に散らばり、ブドウやオリーブを育て、羊を飼い、船で交易を行うことで、食糧を得て暮らした。
 BC8世紀以降、鉄器の普及に伴い、エーゲ海周辺地域では農業の生産性が格段に向上、これを受けBC6 – 5世紀にかけ各地に都市国家が出現する(ギリシアの地は、平地を広く確保することができないため、統一国家の形成はならなかった)。アテネはアティキ半島にあり、北と東に山地がめぐる平野に位置、南西部はサロニコス湾に臨み、外港都市ピレウスへと続く。このような地勢(図①)を有する、アテネは防御と交易にたいへん有利なことから、BC776年に改良されたアルファベット文字を用い、ポリス間での商業・交易が活発化する。
 アテネは人口が増加すると、エーゲ海などの沿岸に植民都市を建設するなどして、繁栄の輪を広げていく。この頃のアテネ市民は、政治や祭事を担う少数の貴族と、漁業のほか商工業や農業を営む大多数の平民により構成された。ポリス間で戦争が起きると、武具をもつ平民が奴隷を伴い、歩兵として参加した。指揮するのは馬に乗った貴族である。そんなギリシアの地に、小アジアから領土拡大を目論む大国ペルシアの侵攻が始まる。
*都市国家(ポリス)
 ギリシアには多くのポリス(通常、人口は数百~数千人。アテネとスパルタは例外的に多い)が存在した。ポリスは、土地を所有する農民を基本に、商工業者も入り構成された。このポリスには、職業としての官僚や常備軍は存在せず、市民が必要に応じ、その役職に就き国家の機構を運営した。
 この地で有力なポリス「アテネ」は、アッティカ貴族を中心に、防衛拠点、聖地としての、アクロポリス(高い所にある城址を意味)周辺に(写真1)集うと、小高い丘に神殿を祀り、その周囲に家屋を建て集落を形成、また麓にアゴラ(広場)を設け、市(いち)や集会を開いた。古代ギリシアの小規模な共同体における、市民による民主的な政治運営の形態をポリスという。
図2 アテネ長壁
出典:ウィキメディア・コモンズ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:AtheneOudheid.JPG
写真2 アテネの模型
出典:「生きてることが功名か>アテネ編>⑪ピレウス港」挿入図に、著者が施設名を落とし作成。
http://www.kohmyoh.sakura.ne.jp/greece11.html
写真3 パルテノン神殿
出典:ウィキメディア・コモンズ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File: The_Parthenon_in_Athens.jpg
図3 アゴラのイメージ AD2世紀頃
出典:note 美術史を学ぶ〜西洋文明の礎石《古代ギリシア》挿入図
https://note.com/brilliantly_a/n/nd81600ffa10e
ポリスの都市整備
 BC478年、アテネは、ペルシアの侵攻を食い止めるが、再来に備え、都市を防御するべく本格的な城壁の建設に入る。内陸都市であるアテネの防衛戦略は、最寄港である港湾都市ピレウスを含め描かれる。即ち、アテネとピレウスは7.5km離れているが、都市圏として一体に捉え、都市防御力を高めようと考えた。具体には、両都市それぞれを城壁で囲むと、都市相互を結ぶ長壁(図2、幅180m、高さ6m、全長6km、石積み)を建設、また、これにあわせピレウスの、造船機能の強化と港湾の整備を図った。これはピレウス港からアテネの兵船を出し、海洋から敵国の中心部を攻撃し叩くとともに、海から都市アテネに食糧等を補給する戦略である。
 このための資金は、アテネ近郊の銀山の収益を当てた。そうして長壁等を築き、戦争に勝利すると、戦争で破壊されたアテネの再生へと動く(写真2)。まずパルテノン神殿(写真3)のある、聖地「アクロポリスの丘」と、その北西側の麓に位置する社会生活、経済活動の中心「アゴラ」(図3)の整備である。都市国家アテネでは、アクロポリスの丘に建つ、芸術性に優れる聖なるパルテノン神殿をあがめるとともに、丘の登り口近くのアゴラに市民らが集い議論、さらに、その南西側に位置するプニュクスの丘の民会場で、評議会より提案された議案に、市民が賛否を表明することで、政治を動かした。
図4 アゴラの施設配置(BC5世紀頃)
出典:ウィキメディア・コモンズに著者が主要な施設の名と番号を落とし作成。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:AgoraAthens5thcentury.png
写真4 プニュクスの丘演壇
出典:世界と日本を結ぶ文化広報誌SPAZIO no.67
現代アテネの街角に息づく、古代都市アテーナイ挿入図。3段の階段の上(1mほどの高さ)に演壇が設置。
https://www.nttdata-getronics.co.jp/csr/spazio/spazio67/takano/imgs/pic/5.jpg
民主政の象徴「アゴラ」
 アゴラは、政治のほか商業・社交など市民生活の中心で、ここでは自由な討論・歓談が繰り広げられた。市民が集い等しく、政治と裁判の権利を行使できる場所として、都市の中心に公共空間「広場」が、明確に位置づけられたのは、このアテネが初めてである。
 アゴラには神殿のほか、裁判所や公文書館、評議場など公共建築物が建ち並ぶとともに(図4)、これらを人びとの視線から遮るよう、ストア(柱廊)をめぐらした。市民らは、その中を歩いたり、石段に腰を下ろしたりして、社交を楽しんだ。このストアの周囲には商店が並び露店も出て、正午前の2 – 3時間は大いに賑わった。また、あちらこちらに美しい彫像や樹木が配置され、政治や商業活動のほか、日常的な会話から哲学的議論までがたたかわされた。なお、周辺に建つ建物は、街路に向け窓を直接開くこと、また建物からの排水を街路に垂れ流すことは禁止された。
【アゴラの整備状況】
BC500:アゴラ西側に神域広がる、劇場等の文化施設は存在しない。
BC400:商業施設が多く建設される。
BC300:新たな公共施設が建設される。
BC150:大規模な商業施設が空地内に建設される。これまではアゴラの公開空地を囲むように施設が整備されてきた。
AD100:文化施設の建設が顕著となる。小規模な行政施設が整備される。アゴラの公開空地に入り込んで整備される。
【プニュクスの民会場】
 民会場(面積1ha、2万人収容)は、民主主義の舞台で、周囲をオリーブの林に囲まれた岩山に、BC460年頃、丘の斜面を刻んで青空の集会場として建設された。形状は半径120mの扇形で、平場の要の位置に演壇が置かれ(写真4)、それを取り巻くように、聴衆の席が階段状に整備された。
写真5 ディオニソス劇場
出典:ウィキメディア・コモンズ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Dionisov_teatar_u_Akropolju.jpg
写真6 ヘロデス・アッティクス音楽堂
出典:ウィキメディア・コモンズ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Athen_Odeon_Herodes_Atticus_BW_2017-10-09_13-12-44.jpg
聖地「アクロポリスの丘」
 アクロポリスの丘(海抜150m、市街からは50mほど高い)には、石灰岩でできた崖の上の平場(270m×150m、広さ3ha)に、女神アテナを祭ったパルテノン神殿(BC430再建)、女神アテナの勝利(ニケ)を祈ったアテナ=ニケ神殿、少女像の彫刻を飾るエレクテイオン神殿などが建造された。これらの神殿は、BC480年に侵入してきたペルシアにより破壊されていたが、BC5世紀後半、ギリシア人の芸術的センスをもって、壮大・優美に再建される。この建設費用は、アテネ市民の負担のほか、デロス同盟の納入金が流用された。このほか丘の周辺には、南麓にペリクレス音楽堂(BC443年頃)、ディオニソス劇場(BC320年代に改築、写真5)、ヘロデス・アッティクス音楽堂(AD160年頃、写真6)などが建築される。
【パルテノン神殿】
 パルテノン神殿は、ドーリス式でアテネ全盛期(BC447 – 433年)に再建され、壮大な彫刻が備えられている。神殿の円柱はエンタシスと呼ばれ、中央部分が膨らんでいるが、これは陽光により柱の中程がくびれて見えるのを防ぐもので、柱の下に立つと柱はまっすぐに見える。パルテノン神殿は、建物全体の配置構成から、造形、洗練されたディテイル・デザインに至るまで、その建築プロセスの創造的思考とあいまって、世界から大変高く評価されている。
図5 ギリシア神殿建築の柱様式
出典:「大人になれる本、ギリシャ建築・ローマ建築のオーダーの種類と違い」挿入図
https://otonaninareru.net/wp-content/uploads/2018/10/AdobeStock_82946979.jpeg
写真7 エレクティオン神殿(イオニア式)
出典:ウィキメディア・コモンズ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Athen_Erechtheum_BW_2017-10-09_13-47-38.jpg
ギリシア建築の特徴と都市計画
 この時期、確立されたギリシア建築の特徴を挙げると、①主要な材料が石材であり、その部材が大きく、仕上げ加工も接着面がぴたっとしていること、②柱が多く使用されていること、これは梁に石材が用いられたため、この重みを支える必要があったためである。また、③用途としては、神殿や劇場、ストアなどに、特徴を見ることができる。
 また、神殿建築の柱の様式として、主にドーリス(力強く荘厳)、イオニア(優雅)、コリント(華麗)の各様式(図5)が、時代の進展に応じ用いられている。ドーリス式は柱礎なく柱身を戴くが、その他は柱礎を設け、これに柱身を載せている。柱頭は、ドーリス式に飾りはないが、イオニア式はエレクティオン神殿(写真7)に見られるように渦巻き型、コリント式は葉を模した装飾的なデザインになっている。平面形式としては、前柱式、周柱式、二重周柱式、円形など、各種認められる。  ④柱の直径、高さ、柱間や、神殿の高さ、幅、長さの間に一定の比例関係があり、秩序だったものとなっている。たとえば、パルテノン神殿は、円柱の下部直径と柱間の間には4:9の比例関係にある。
【都市計画】
 BC5-BC4世紀、アテネの人口は、15万人(市民は4万人、その家族7万人、奴隷4万人、その他5千人)ほどを数える。当時、都市の人口は、田園(食糧の供給地)との関係で1万人前後が適正といわれ、これ以上大きくなると、別に新しい都市(植民市)を建設した。しかし、アテネは、海洋交易を発達させ、食糧を地中海、エーゲ海、黒海周辺などから輸入し、この規模を保った。
 都市アテネはヒューマンスケールで、都心部はアゴラを中心に整えられ、公共施設を囲むように住居やコミュニティ施設が建ち並んだ。しかし、都心部を除くと、道路も小径が多く舗装はされておらず、住宅地は迷路状に構成された。都市に下水や清掃の設備はなく、飲料水は井戸から汲まれた。しかし、アテネの外港・ピレウスは、都市計画の祖・ヒッポダモスにより碁盤目状に市街が整備された。
アテネの盛衰
 アテネは、デロス同盟の基金を活用し、海軍力の拡大を図ったが、ペルシア戦の後も、そうして形成された軍事力を用い、地中海東側に制海権を確立、海洋を支配していった。こうして海軍に護られ、アテネの海洋交易が隆盛、経済は絶頂期を迎える。市民は、平和と繁栄を謳歌、また政治に参加できることに誇りを感じるとともに、休日には、無料開放された劇場に出かけ演劇を鑑賞、そして祭りの日にはワインに酔いしれた。この頃、アテネでは、年間を通し競技や祭典が催された。この地は、外国人を拒まず、言論の自由が保障されるなど、都市の開放性が高かった。このアテネの繁栄が周辺に伝わると、ソクラテスやプラトン、アリストテレスなどの哲学者や、ピュタゴラスなどの自然科学者などが集い活躍、欧州文明発祥の源流をなし、政治や経済の面だけでなく文化の面でも、アテネは最盛期を迎える。
 スパルタは、このアテネの繁栄を横目で見て、警戒心を強めた。アテネがデロス同盟基金の金を流用すると、他の加盟ポリスがこれに反発、帝国化したアテネと抗争になる。これをスパルタが支援すると、BC431年ペロポネソス戦争が勃発する。この戦いで、アテネは籠城戦を強いられると、疫病(腸チフスとみられる)が大流行(BC429年)、指揮官のペレクレスをはじめ城内の民の1/3が、これに罹患し病死したこともあり、この戦いに敗れる。その後、アテネは兵船が200から12隻に削減されてしまう。また、長壁も破壊され都市の防衛力は萎え、食糧調達にも支障が出る。そうしてデロス同盟が解体されると、都市連合としての経済力が低下、民主都市アテネの活動も徐々に細っていく。
 古代都市国家アテネが創造した、政治面での民主政と文化面での芸術性高い建築物や都市広場の整備などは、デロス同盟基金の活用による、平和の実現と経済の繁栄あってのものである。世界遺産ともなったアクロポリスの神殿群などに見られる建築様式は、芸術のあらゆる尺度の基礎を体現しており、民主政治のコアともいえるアゴラ、その整然とした都心空間の形成とあいまって、アテネは西洋の建築・都市計画の聖地とされている。
都市のイメージ形成において、芸術文化の果たす役割は大きい。今日、アテネに代表されるギリシア文明は、欧州文明の源流と見なされ、世界の人びとから愛されており、アクロポリスの丘やアゴラ等が醸す都心景観は、その象徴となっている。魅力的な都市イメージの形成において、当該都市の起源や特徴などを体現する、都市シンボルの創出は重要である。
Column
古代都市国家の民主政
【民主政への歩み】
 アテネは、BC8世紀半ばに、王政から貴族政へと移行、BC620年頃、貴族ソロンの改革(平民の借金、帳消し)により、平民は借金の返済ができなくとも、奴隷に落ちることがなくなる。そして経済の中心が土地(農業)から商工業へと移ると、土地収入を基盤とする貴族の地位が低下する。BC508年、貴族クレイステネスが、将軍や評議員など政治代表の選出方法を、血縁的要素の強い4部族制から、地縁的要素の強い10地域制へと切り替えるなどして、民主政の基礎を築く。
【民主政(直接民主主義)の確立】
 アテネの古代民主政*は、BC5世紀、平等(発言、投票など政治的行動における平等の確保)をコンセプトに、貴族ペリクレスの指導の下、ペルシア戦争において、軍人や三段櫂船(200人乗りの軍船)の漕手として、勝利に貢献した平民が政治参加を果たすことで、完成(BC444 – 429)へと導かれる。
*古代民主政(アテネ)
BC451年市民権法で、両親が共にアテネ人の人間にのみ、市民権が認められた。市民の内18歳以上の成年男子全員が参加資格を有する、民会(BC507年設置)が最高議決機関で、法律の制定や戦争の開始などに賛否の投票が行われた。行政機関メンバー10人も、民会の選挙で選ばれた。また、将軍以外の官職は抽選制で、政治や裁判への参加に対し、日当を支給するところに特徴があった。しかし、女性の参加は認められず、また奴隷制度を前提としていた。
ペルシア戦争
 アテネが民主政を確立する、BC5世紀前半から100年ほどの間、この地ではペルシア戦争(BC499-BC449、この間3回侵攻)、ペロポネソス戦争(BC432~404)など、戦争が常態化、1年の内2/3ほどは戦に明け暮れる。対ペルシア戦は、海洋が得意のアテネと陸のスパルタが手を組み、他のポリスも参加しギリシア連合軍として戦う。BC480年ギリシア海軍が、サラミスの海戦に勝利、陸ではBC479年スパルタ中心の重装歩兵がペルシア軍を破る。その後も、ペルシアの再来に備え、エーゲ海周辺の200のポリスが参加し、BC478年にデロス同盟*を結成、連携して立ち向かう。同盟のリーダー・アテネは、BC466年の戦いを経て、エーゲ海の支配権を確立、デロス同盟の盟主として、最盛期を迎える。
*デロス同盟
 この軍事同盟では。各ポリスが一定の兵や船を出し連合艦隊を編成、それができないポリスは、一定の納入金を同盟金庫に入れる仕組みとした。しかし、実際、艦隊を提供したのはアテネぐらいで、他の多くのポリスは納入金を納めた。金庫は、エーゲ海の中央に位置する、デロス島に置かれたが、管理執行権はアテネが握ったため、基金の運用を通じ、次第にアテネの支配が強まる。即ち、アテネは基金を用い大量の木材を調達、造船により巨大な海軍力を築く。そしてペルシア戦争に勝利すると、その力を海洋交易に向け、経済的繁栄を実現する。こうしてアテネは軍事力、経済力を高め、政治面では民主政を完成へと導き、文化面でも学問や芸術、娯楽などの隆盛をみる。
[参考文献]
ピエール・ブリュレ『都市国家アテネ:ペリクレスと繁栄の時代』「知の再発見」双書、創元社、1997年6月。民主政の立役者ペリクレスを通し、古代民主政の現実を理解することができる。
桜井万里子・木村凌二『世界の歴史5 ギリシアとローマ』中央公論新社、1997年10月。ギリシア文明がオリエント全体に普及していく様子が、簡潔にまとめられている。
ロラン・マルタン『図説世界建築史第3巻ギリシア建築』本の友社、2000年4月
平嶋兼輔『講談社選書メチエ185・海の文明ギリシア』講談社、2000年5月。西欧的な見方とは異なる、ギリシア文化の捉え方が学べる。
日端康雄『都市計画の世界史』講談社、2008年3月。都市アテネ等について記述。
周藤芳幸『新装版図説ギリシア』河出書房新社、2007年9月。
青柳正規『人類文明の黎明と暮れ方』 (講談社学術文庫)「興亡の世界史」全21巻中の16巻 、講談社、2009年11月
熊倉洋介ほか『増補新装カラー版・西洋建築様式史』美術出版社、2010年4月。平面形式、建築写真有。
塩野七生『ギリシア人の物語Ⅰ-Ⅲ』新潮社、2015年12月–2017年12月。史実を基に展開する物語であるが、背景、原因、結果等きめ細かで丁寧な描写となっていて参考になる。
松枝朝他「古代ギリシア都市アテネのアゴラにおける画像解析による復元的考察」日本大学生産工学部第49回学術講演会講演概要、p649-652、2016年12月
出口治明『人類5000年史Ⅰ・Ⅱ』筑摩書房、2017年11月
井沢元彦『逆説の世界史3 ギリシア神話と多神教文明の衝突』小学館、2019年10月。洋の東西の宗教的性格を比較しており面白い。
神野正史『30の都市からよむ世界史』日本経済新聞出版社、2019年11月。古代アテネについて概括。
「世界の歴史まっぷ」
「世界史の窓」
河村 茂(かわむら・しげる)
都市建築研究会代表幹事、博士(工学)
1949年東京都生まれ/1972年 日本大学理工学部建築学科卒業/都・区・都市公団(土地利用、再開発、開発企画、建築指導など)、東京芸術大学非常勤講師(建築社会制度)/現在、(一財)日本建築設備・昇降機センター常務理事など/単著『日本の首都江戸・東京 都市づくり物語』、『建築からのまちづくり』、共著『日本近代建築法制の100年』など