建築史の世界 第10回
軍人会館 (現・九段会館)──「帝冠様式」は軍国主義の象徴か?
藤岡 洋保(東京工業大学名誉教授、近代建築史)
図1 帝国議会議事堂下田案透視図(『思想ト建築』私家版、1930)
写真1 九段会館(旧・軍人会館)北東側外観*(*印撮影:藤岡洋保)
はじめに──いわゆる「帝冠様式」について
 大正から昭和戦前にかけて、府県庁舎や美術館・博物館などのデザインを募集する大規模なコンペが相次いで行われた。その実施数や応募者数の多さと賞金の高さから「コンペの時代」ともいえるほどである。その応募者向けに『日本趣味を基調とせる最近建築懸賞図集』(日本建築協会編、1931)のような出版物があったことに象徴されるように、それらのコンペで「日本趣味」、「東洋趣味」の意匠が指示、または示唆され、鉄骨鉄筋コンクリート造の建物に瓦葺の勾配屋根を載せる案が当選するのが常だったことが知られている。それは俗に「帝冠様式」と呼ばれ、今日に至るまで批判的に見られがちな建築である。
 この用語は、帝国議会議事堂の設計に関して、アメリカで修業した建築家・下田菊太郎(1866-1931)が第44回帝国議会(1920.12.27-1921.3.26)などに提出した請願に添付した設計案の呼称に由来するといわれる。下田は、当時の建築界における欧米直写の傾向を批判しつつ、伝統的な日本建築の要素をとり入れるべきだとして、「羅馬式」(古典様式と解される)の議事堂の中央部に紫宸殿風の入母屋屋根を、貴衆両院議場には近世城郭風の屋根をそれぞれ載せた案を示し、それを「帝冠併合式」*1と呼んだのである(図1)。しかし、戦前の建築文献には「帝冠」に「様式」を加えた「帝冠様式」といういい方はまず見られないので、ここでは、そのようなデザインを当時の呼称に倣って「日本趣味の建築」と呼ぶことにする。
 この「日本趣味の建築」を、当時のモダニストが厳しく批判したことも知られている。連載第3回で触れたように、彼らは、「日本趣味の建築」が「日本的」とする瓦屋根は仏教建築に由来し、それは中国起源だから「日本的」ではなく、仏教建築は千年以上日本でつくられてきたからすでに「日本的」と見なせるとしても、それは「過去の日本的なもの」で、現代における有効性は認められず、陸屋根で済むところにわざわざ重い瓦屋根を架けるのは構造的に不合理だと批判したのである。過去の建築様式の適用を否定し、構造合理性を標榜したモダニストにとっては、当然の主張といえる。しかし、彼らがそれに優る案を示せたわけではなかったことは指摘しておかなければならない。この種のコンペが求めたのは威厳や記念性の表現だったが、モダニストは機能の分析から形が決まると主張していたので、そのような「形の意味」を表現するための方法を持ちあわせていなかった。モダニズムでは「形の意味」は問われない。のちに、ポスト・モダニズムがそれを糾弾することになる。
 ここでは、「日本趣味の建築」の中でも最も厳しい目が向けられがちな「軍人会館」(現・九段会館、1934、写真1)をとり上げ、その資料やデザインを検討することを通して、「日本趣味の建築」の実像を確認することにしたい。
写真2 大阪軍人会館(『建築雑誌』1937年10月号、竣工建築物)
軍人会館の計画
 「軍人会館」は、帝国在郷軍人会によって計画され、コンペの1等当選案をもとに、伊東忠太(1867-1954)の監修、川元良一による実施設計、清水組(現・清水建設)の施工で、昭和9(1934)年3月に東京市麹町区九段の靖国神社の権殿*2用地に建てられた。鉄骨鉄筋コンクリート造地上4階地下1階建てで、延床面積が4,370.523坪(竣工時)という、当時としてはかなり大規模な建物である。
 その名称のゆえか、太平洋戦争後には、この建物は、軍国主義やファシズムの象徴とも見なされるようになった。しかし、当時の資料を確認すると、そのような批判が当たっていないことがわかる。それを説明する前に、まずこの建物の計画の経緯を以下に記す。
 帝国在郷軍人会発行のパンフレット「軍人会館建設に就て全国軍人諸氏に望む」(その記述から昭和3年に出されたことがわかる)によれば、軍人会館の設置は、同会が昭和天皇の「御大礼の記念として(中略)東京に軍人会館を建設するの計を定め」たことによるもので、その建設費は「総額金一百五十四万円で、内金一百四万円は陸海軍軍人(現役者及在郷者の協力)の出金とし、金五十万円を一般の寄付に待つことに定められた」(pp.3-4)。そして同会は、その設計案募集のために1930(昭和5)年にコンペを実施した。その審査員には、建築関係者として中村達太郎(東京帝大名誉教授)、伊東忠太(同前)、塚本靖(同前)、大熊喜邦(大蔵省営繕管財局工務部長)、佐藤功一(早大教授)、内田祥三(東京帝大教授)、内藤太郎(陸軍技師)が、在郷軍人会からは辻村楠造理事長を含め、4名が指名された。1等賞金は5千円だった。当時のコンペの賞金は高額で、この頃の東京市役所の建築技師の年俸が2千円弱程度だったことを知れば、軍人会館コンペの賞金の高さが想像できるだろう。高額の賞金は、多くの応募を集めるのに有効だったといってよい。
 軍人会館コンペの際に応募者に示された「設計心得」では、「五、建築ノ様式ハ随意ナルモ容姿ハ国粋ノ気品ヲ備ヘ荘厳雄大ノ特色ヲ表現スルコト」(『軍人会館競技設計図集』洪洋社、1931)が求められていた。コンペの主催者は記念建造物を望んでおり、応募者や実施設計の担当者はそれを踏まえて設計したわけである。そして、その中の「国粋ノ気品」、「荘厳雄大」の具体的な表現として、当時のこの種のコンペの当選案の定番のモチーフであり、日本の独自性を示す要素と見なされていた瓦葺の勾配屋根を採用したのである。
 ここで、この軍人会館の設計において、過去の建築のモチーフである瓦葺きの勾配屋根を載せることが、軍国主義やファシズムの反映ではなかったことを確認しておこう。大阪府庁舎と名古屋市庁舎のコンペ(それぞれ1922年、1930年実施)で1等当選し、「コンペ男」(複数のコンペに上位当選した建築家)の1人として知られた平林金吾(1894-1981)が、1930(昭和5)年に記した「懸賞設計に就いての雑感」というメモがある。これは、東京工業大学の学生向けの講演の自筆草稿で、明治時代から昭和初期までのコンペを振り返りながら、その裏事情や、彼が応募する際の心得などを記したものである。その一部は水に浸かって読めないが、「コンペ男」の肉声を伝える貴重な文書である。その中に軍人会館コンペに言及した個所があり、「美術館でも庁舎でも会館でも名称丈けに依って想像するのですか一寸見当のつかなかつたのは軍人会館でした と云ふのはあまり軍国主義を発揮する時代ではありません これか日露戦争後であれば何んと解決することも出来たのです 今日はそうは行きません」(下線引用者)と記されている。この発言から、平林には「軍人会館」コンペの頃が軍国主義の時代だという認識がなかったことがわかる。
 また、陸軍第四師団経理部工務科の設計で、東京の軍人会館の3年後に竣工した「大阪軍人会館」(大阪市東区京橋、1937、写真2)は、モダニズムで設計されている。これらのことは、「軍人会館」=(軍国主義やファシズムの体現)=(瓦葺きの勾配屋根を冠する建物)というような単純な図式ではなかったことを示している。
図2 軍人会館コンペ1等当選案地階・1階平面図(線図を踏襲したと見られる、『軍人会館競技設計図集』洪洋社、1931)
図3 軍人会館コンペ1等当選案透視図(『軍人会館競技設計図集』洪洋社、1931)
図4 軍人会館コンペ2等1席当選案(吉永京蔵、黒川仁三)透視図(同前)
図5 軍人会館コンペ2等2席当選案(木村平五郎)透視図(同前)
軍人会館のコンペ当選案に見られる特徴
 当時のコンペでは、「線図」と称される略平面図が応募者に示されることが多かった。その応募要項に記されていたように、応募者にはそれに従う義務はなく、別のプランニングを提案する余地はあったが、当選案の大多数は線図をほぼ踏襲したものだった。つまり、外観意匠が当選の事実上の決め手になっていたということである。このことをもって、戦前のコンペの主催者や審査員を批判する向きもあるが、審査の際に審査員がプランニングもきちんとチェックしていたことは指摘しておかなくてはならない。
 「軍人会館」のコンペでも線図が示されていた*3。そこから見えてくるのは、この建物がクラブ建築であり、講堂のような大空間から、大食堂や宴会場のような中規模の室、さらには小規模な宿泊室が混在する複合施設として計画されていたことである。そして、講堂や宴会、宿泊などの機能ごとに玄関が別々に設けられていた。また、敷地形状はひとつの隅が内側に屈折した凹五角形で(図②参照)、そこに上記の複合機能を持つ建物を収めるために、線図は非相称になっていた。記念建造物に一般的な、左右相称の構成がやりにくい建物だったのである。それに「国粋ノ気品ヲ備ヘ荘厳雄大ノ特色ヲ表現スル」記念建造物らしい外観をまとわせることという条件が加わるので、当時のコンペの中でも難易度の高いものだったといえる。
 このコンペの当選案を掲載した『軍人会館競技設計図集』(洪洋社、1931)によれば、1等から佳作までの10案のうち9案に瓦葺きの勾配屋根が載っている(残り1案は庇に瓦を並べている)。
 小野武雄(工手学校1902年卒、大蔵省営繕管財局技師)による1等案は図2、3のようなものである。小野案が1等に選ばれた理由は、北側に1つ、東側に2つある玄関部をバロック様式風のジャイアント・オーダーで強調しつつ、2つの塔屋に入母屋屋根を載せて、北東の交差点側からの見栄えを荘重かつ華やかなものにしたことにあると考えられる。
 まず、講堂や宴会、事務、宿泊機能に対応するために、建物の玄関が北立面(講堂・宴会用)、東立面の北側(事務用)、そして東立面の南側(宿泊用)に1つずつの計3つ必要になるが、それらの玄関部をその両脇から少し張り出して、その立面の2〜4階を縦に貫くように、ジャイアント・オーダー風の大きな柱型を配している。この一連の操作によって玄関部を目立たせているわけである。そして、3層構成の立面の中間層などの壁面に、ピースが大きめのタイルを1列おきに突出させて、水平方向に凹凸をつけて張ることにして、力強さを感じさせる表現にした。それは、玄関部などに立ち上がる柱型との強い対比を生み出し、立面に重厚さと緊張感を与えている。
 ちなみに、コンペ主催者が北東側からの見え方を重視していたらしいことが、コンペの応募要項から見てとれる。応募要項の第9条で、透視図の視点を「透視図ニ於ケル画面「ピクチュアープレーン」ハ建物ノ北北東隅ニ接シ且ツ正面ト45度ノ角度ヲ保タシメ其ノ視点ハ建物ノ北北東角ヨリ250尺ノ距離ニシテ其ノ水平線ハ地盤面上高12尺ノ位置ニアルモノトス」(『建築雑誌』昭和5年9月号、p.116)と指示していることにそれがうかがえる。
 1等当選案では、この視点からの眺望に対応すべく、北面と東面に異なる扱いをしている。まず北面では、玄関(講堂・宴会室用)が西端に位置し、その東側の屋上には入母屋の瓦屋根が架かる塔屋が建つので、その非相称性を踏まえつつ、塔屋側の下階の北壁面を、その東隣の壁面より少し張り出して、瓦屋根つきの塔屋とその下の縦長の立面をひとまとまりとして扱い、そこにもジャイアント・オーダー風の柱型をつけて、その部分を強調した。その一方で、東立面では、左右の玄関部を含め、相称性を意識して整えた(2つの塔屋の棟の向きは異なっている)。そして、立面に配された多様な要素を統合するために、壁面頂部に瓦を載せた軒をぐるりと廻らせている。
 相称と非相称の強い対比がもたらす緊張感、そして玄関部などの柱型と、壁のスクラッチ・タイルの凹凸の帯状パターンによる垂直性と水平性の対比の強調が、北東側からの見所で、この一連の手法によって、力強さと荘厳さを感じさせる立面になっているし、瓦屋根も、単なる装飾ではなく、エレベーター機械室と屋上出入口を収める塔屋の屋根という存在理由を与えられている。これが他の当選案には見られない特徴で、1等に選ばれた理由と考えられる。なお、参考のために、2等1席、同2席案を示す(図4、5)。
図6 軍人会館東立面図(『建築雑誌』1934年7月号巻末付図)
写真3 九段会館(旧・軍人会館)屋根*
写真4 同、瓦屋根鴟尾*
写真5 同、外壁タイルのディテール*
写真6 同、北側立面パラペット鬼面装飾と柱頂部装飾*
写真7 同、講堂側玄関ホール*
写真8 同、講堂側壁*
写真9 同、2階貴賓室*
写真10 同、大食堂*
写真11 同、4階儀礼室*
写真12 同、避難階段*
軍人会館の実施設計に見られる特徴
 実施設計は、川元良一(東京帝大1914年卒、設計事務所自営)が担当した。1等当選者が実施設計に関わらないのは当時のコンペの通例で、この軍人会館コンペの応募要項にも「第十四条 当選図案ニ関シ応募者ノ有スル一切ノ権利ハ当選ト同時ニ本会ニ帰属スルモノトス 第十五条 当選シタル図案ト雖モ実施ニ当リテハ之レヲ取捨変更スルコトアルヘシ」(『建築雑誌』昭和5年9月号、p.116)とあるので、応募者はそれを了解したうえで参加していたわけである。実施設計にあたって、川元はまず、1等案のコンセプトや外観をおおむね踏襲しつつ、南東玄関近くのエレベーター・コアの平面を変更して、塔屋の棟の掛かり方まで含めて、立面図上ではほぼ相称に見えるようにした(図6)。1等案の意図をより明瞭にしたのである。また、1等案では塔屋の勾配屋根に照り(反り)がついていたが、実施案では平らな斜面になるように変更された(写真3)。その上に葺かれた屋根瓦も断面が角張った特注のものになっており、鴟尾も幾何学的な図形を組み合わせてデザインされている(写真4)。一連の変更はモチーフを幾何学的・直線的な形に変更するという趣旨で一貫しており、当時流行していたアール・デコの影響を感じさせる。つまり、実施設計では、細部をモダンにするようにアレンジされたわけである。
 外壁には、腰壁部分に花崗岩や擬石が、その上の壁面には、1等案に倣って、大きめのスクラッチ・タイルが水平の凹凸の段状に張り付けられている(写真5)。このような凝ったタイル張りは当時の建築でも珍しい。
 以上から、実施設計では装飾や細部を幾何学的にアレンジしたことがわかる。1等案の外観意匠を、モダンかつシンプルになるように改変したわけである。
 外観で装飾が認められるのは3つの主玄関まわりと、北立面頂部の鬼面装飾(1等案にはなかった)、そしてジャイアント・オーダー風の擬石の柱形の頂部(写真6)である。それらは、幾何学的なモチーフによる構成というコンセプトで一貫している。上記の鬼面装飾が、それを象徴しているともいえる(写真6)。皇居の鬼門にあたるということで魔除けの意味があるともいわれるものだが、具象的にではなく、幾何学的な平面によるコンポジションという趣旨でデザインされている。ここにもアール・デコ風のアレンジが感じられる。
 内部意匠にも、外観同様、当時のモダンなやり方が見られる。特に、講堂の玄関ホール(写真7)、講堂側壁の菱形文様(写真8)、講堂北側左右の主階段、2階の貴賓室まわり(写真9)、3~4階吹き抜けの大食堂(写真10)のバルコニーや天井長手中央の帯状の装飾にアール・デコ的な手法が見られる。
 なお、講堂の音響設計は、この分野の日本のパイオニアだった佐藤武夫(当時・早大助教授)が担当した。佐藤は、最奥部まで講演者の声を届かせるために、この講堂の客席天井面の一番後ろの断面をヴォールト状にしている。また壁面や天井には、音を適度に反射させるためにコルクを張っていた(写真8)。
 内装でもっとも注目されるのは、2階北東隅の貴賓室(写真9)である。和洋折衷の意匠でまとめられており、アール・デコ風の暖炉前飾り、寄木張りの床、暗赤色のマット面に斜線のモチーフが配された腰壁タイル、床の透かし彫りなど、凝った内装になっている。
 それ以外の室で意匠が注目されるのは、儀礼室(結婚式場)である(写真11)。和風のデザインになっているが、柱と長押の構成でシンプルにまとめられている一方で、中央を横断する梁の下には網代模様を配し、また祭壇下の木階には、神社建築の設計者として知られた大江新太郎(1875-1935)好みの、華麗な曲線文様の金物があしらわれていた。
 ほかに注目されるのが、西・南立面の4階にキャンティ・レバーで張り出した横長の鉄骨製のテラスと、南西角の避難階段(写真12)に見られる、鉄骨によるモダンなデザインである。アングル材やパイプ、プレートなどを組み合わせてつくられたもので、直線材による即物的な構成という点で、モダニズム的な手法といえる。
 以上から、「軍人会館」は、「軍国主義やファシズムの権化」というような類いのものではなく、装飾を幾何学的にアレンジし、内装にアール・デコを用いるなど、むしろ当時の新しい美学でまとめられた建物だったことがわかる。2つの塔屋に瓦葺の勾配屋根を架けることを前提にデザインしたというだけのことであって、実施設計者の川元にも軍国主義を表現しようという意識は感じられない。川元は、当時の新しい息吹きが感じられるように手を加えたのである。
「日本趣味の建築」の背景
 先述のように、「軍人会館」は昭和天皇御大典(御大礼)記念事業の一環だったが、「日本趣味の建築」には御大典関連で建てられたものが多い。「京都市美術館」(現・京都市京セラ美術館:前田健二郎原案・京都市営繕課設計、1933)や「東京帝室博物館」(現・東京国立博物館本館:渡辺仁原案・伊東忠太+宮内省内匠寮設計、1937)などがその例である。
 また、「場所性」が「日本趣味」を要請したと見られるものもある。「名古屋市庁舎」(平林金吾原案・名古屋市建築課設計、1933)と「愛知県庁舎」(西村好時+渡辺仁原案・愛知県営繕課設計、1938)は名古屋城の近くに建っており、「静岡県庁舎」(安井武原案、中村與資平設計、1937)は駿府城址にある。城の近くにあるという「場所性」(景観への配慮)が瓦葺の勾配屋根というモチーフを要請したと見られるという意味である。「軍人会館」が建つのも、皇居(旧・江戸城)の堀端である。「日本趣味の建築」には、御大典や、城の傍に建つことなどを踏まえた記念建造物という面もあり、そこにはナショナリズムの表現が求められやすい背景があったわけである。
 1930年代は、欧米でも記念建造物にナショナリズムの表現が求められた時代だった。そこでよく用いられたのは古代ギリシャ・ローマ様式をもとにした新古典主義だったが、日本の場合、それに倣うだけでは日本独自の記念性を示すことにはならないので、瓦葺きの勾配屋根という過去の日本建築、それも特に仏教建築のモチーフが好適と見なされ、それを冠した案が記念建造物のコンペで多数当選し、建設されることになったのである。それは、当時終焉を迎えつつあった歴史主義に属するもので、日本独自の記念性を表す建築様式として寺院建築の瓦屋根のモチーフが適用されたということである。ナショナリズムというイデオロギーに支えられたものではあったが、そこには「軍国主義」や「ファシズム」は含まれていない。
[註]
*1 下田菊太郎『思想ト建築』私家版、1930、p.111。同書では、「帝冠併合式」を「帝冠式」とも表記している。
*2「権殿」の「権」は「仮の」という意味で、本殿の修理や罹災の際にご神体を遷す「仮殿」のこと。
*3「軍人会館」コンペの「設計心得」に「一〇、添付平面図ハ各室ノ配列関係及大サヲ参考トシテ示シタルモノニ依リ」とあることから線図が示されたことが確認できるが、その線図は『建築雑誌』や当選案掲載の図集では示されていない。しかし、当選案の平面図が似ていることから、線図の形や室配置がほぼ特定できる。
藤岡 洋保(ふじおか・ひろやす)
東京工業大学名誉教授
1949年 広島市生まれ/東京工業大学工学部建築学科卒業、同大学院理工学研究科修士課程・博士課程建築学専攻修了、工学博士。日本近代建築史専攻/建築における「日本的なもの」や、「空間」という概念導入の系譜など、建築思想とデザインについての研究や、近代建築家の研究、近代建築技術史、保存論を手がけ、歴史的建造物の保存にも関わる/主著に『表現者・堀口捨己─総合芸術の探求─』(中央公論美術出版、2009)、『近代建築史』(森北出版、2011)、『明治神宮の建築─日本近代を象徴する空間』(鹿島出版会、2018)など/2011年日本建築学会賞(論文)、2013年「建築と社会」賞
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