保存へのうねり
まちの記憶を残したい──現在進行形の文化財保存日記 第3回
村田 くるみ(冬木建築工房二級建築士事務所 代表)
 東京都内のふたつの住宅街に残る木造建築。明治から昭和にかけて建てられ、それぞれ樋口一葉と太宰治という文豪ゆかりの遺構が、偶然にも時を同じくして(2014年末)解体の危機に見舞われ、市民団体が保存に向けて立ち上がった。
 本誌5月号では「保存活動が何をきっかけに始まったのか」、7月号では「いかに活動団体を立ち上げたのか」を報告した。今回は、活動が広がっていく様子を追いかける。

 (建物Yについても敷地売買が済みましたので、今回からはA、B、X………がなくなり、すっきりとお読みいただけます。読者の皆様のご想像は当たっていましたでしょうか?)
それぞれの立場からの安堵の声を伝える『東京新聞』2015年3月13日(金)版。
樋口一葉が通った本郷の旧伊勢屋質店、保存決定 !!
──東京都文京区にて
平成27年1月8日:旧年中の区議会での要望書提出に続き、区長宛の要望書提出、懇談と、年末年始も動きは止まらない。

1月14日:文京区が、旧伊勢屋質店の保存・活用のための「一葉募金」を創設した(3月10日までに、81件、約105万円の申込があったそうだ)。また、同区は地元の複数の大学に旧伊勢屋質店の購入を打診し、所有者と大学側の交渉も続いている。

1月15日:日本ペンクラブの浅田次郎、阿刀田高、吉岡忍の3氏が連名で要望書を送付する。

1月21日:文京建築会と同ユースが区長宛要望書を提出。

1月22日:文京区の跡見学園女子大学と所有者代理人(不動産会社)との交渉が再開された。以後、会としては区と密接な連絡をとりつつ、静かに推移を見守ることとなる。

3月12日:跡見学園女子大学が旧伊勢屋質店の土地と建物を取得したことを発表した。跡見学園は明治8年に「跡見学校」として創立。自律し自立した女性の育成を教育理念としている。今年4月に新設予定の「観光コミュニティ学部」で歴史・文学等の授業で使用し、実践の場として活用するとのこと。休日の一般公開も検討しているそうだ。購入金額は非公表だが、専門家による鑑定では1億3,000万円程度。購入額のうち約4,200万円を文京区が補助する。

3月13日:『読売新聞』、『毎日新聞』、『東京新聞』などに朗報が大きく掲載された。各紙から喜びの声を拾ってみよう。
・「明治時代の景観を維持するのは、地域にとっても重要。大学が地域の伝統を尊重し受け継ぐ姿勢を持っていることを、学生に認識してもらいたい」(跡見学園学長)
・「観光資源としても大きいと判断した。旧伊勢屋質店は文学・歴史散歩に欠かせないランドマーク」(文京区長)
・「菊坂にあの建物は欠かせない。心配してたがよかったね」(伊勢屋の斜め向かいで明治10年頃創業の商店主)
・「大型店、消費税等の影響で畳む店が多い。保存により街が活性化すればいい」(近くのパン店主)
・「大学が取得したことで菊坂に若い人が集まり、街が活気づけばいいですね」(保存団体のひとり)
所有者、文京区、市民団体が連携、努力した結果、ついに旧伊勢屋質店解体の危機が去った。おめでとう!
3,780名の署名提出を伝える『東京新聞』2015年7月29日(水)版。
太宰治が富士を見て泣いた家を残せるか
──東京都杉並区にて
平成27年1月25日:『東京新聞』第1面トップに「太宰のアパート残したい」という記事が掲載された(当時、緊迫状態にあったイスラム国の事件報道により、途中の版から紙面縮小される顛末も)。碧雲荘を舞台とした『富嶽百景』の一節を引用した上で、所有者、土地取得を検討中の杉並区、移築者募集を担う日本民家再生協会、そして保存を願う「荻窪の歴史文化を育てる会」という4つのサイドからの見解が紹介されている。
・所有者:祖父(大工棟梁)が意匠を凝らした建物が消えるのは惜しい。現地保存が難しいなら移築を。
・杉並区:隣接地と共に福祉施設用地とするため、敷地購入を検討。福祉目的なので建物を残すのは困難。
・再生協会:伝統的工法で造られ銘木も使用。高級下宿の趣がある。移築可能だが現地保存が望ましい。
・育てる会:太宰にとって碧雲荘時代は「変化の時期」。体験が後の作品に結実した貴重な場所。
四者四様である。

4月13日:杉並区と再び面談。「既に、所有者との土地売買契約をほぼ終了した」とのこと。碧雲荘の敷地所有権は杉並区に移ったが建物は今も所有者の物だというイレギュラーな状態。両者の間で、平成28年春に建物取壊しの約束になっているようだ。残り時間は、1年。

4月24日:これまでは、土地売買交渉に差し障ることを危惧して表立った行動を控えてきた。いよいよ署名活動を開始する。経験もなく方法も分からないので、とりあえずホームページに掲載してみると、支援者が積極的に署名を集めてくれるようになった。やがて、太宰にちなんだ遠方の地域からもまとめて届けられるようになり、「太宰の力」を実感。
5月30日に開催された「太宰サミット」第1回には各地から82名が参加した。
「太宰サミット」にて。津島克正さん(太宰の親戚・左)の話に聞き入る渡部芳紀さん(太宰文学研究者・右)。
5月30日:太宰治は生涯に50カ所近くの邸宅、下宿、旅館等に居住、滞在し、作品を執筆した。たいへんな引越魔だと驚くが、当時の文士にはそれほど珍しいことではなかったようだ。それらの居住地の中から青森、荻窪、船橋、三鷹の関係者、研究家に一堂に会してもらい「太宰サミット」第1回を開催した。太宰文化財をそれぞれの地ではどう保存活用しているのか。アイディア交換と相互交流が目的だ。

7月28日:杉並区長に3,780名分の署名を手渡す。ネット署名を使わずアナログな方法だけでこれだけ集まった。酷暑の中、顔も知らなかった支援者が駆けつけ、見守ってくれた。区長からは、区民と共にアイディアを出し合って太宰が荻窪に住んだことを残したいと、前向きの発言をいただいた。
なぜ建物を残すのか?──③
受け継がれていく考えや思いがある
 「古い建物を保存しよう」という仲間には、やはりどうしても「古い人間」が多い。口は動いても手は動き辛く、「事務局をやってくれる若い人はどこかにいないのか」という安易な声も……。
 そこに突然、現われたのが、20代前半の大学生、高久ゆうさんだ。芝浦工業大学で都市工学を学び、先日、東京工業大学大学院への合格通知を手にしたばかり。なんと「太宰治を対象とし、無形の価値を有する史跡・建築物の保全活用について」研究しているという。もったいないくらいの、うってつけの人材がいたものである。
 青森はじめ太宰ゆかりの地を巡り、それぞれの地での取り組みをヒアリングする姿はひたむきで爽やかだ。「目に見えない価値は評価の対象と考えにくく、保全や活用をすることはとても難しいと実感」しつつも、次のように語ってくれた。
 「実際に太宰治が住んだり小説を書いたりした場所、建物を残すことによって、そこに存在する記憶や言葉までもが残る。受け継がれていく考えや思いがある」。「それこそが私たちが未来に引き継いでいくべきもの」と。
村田 くるみ(むらた・くるみ)
建築家、冬木建築工房、東京都建築士事務所協会編集専門委員会、杉並支部