まちの記憶を残したい──現在進行形の文化財保存日記 第4回
全国的な広がり
村田 くるみ(冬木建築工房二級建築士事務所代表、東京都建築士事務所協会杉並支部副支部長)
 東京都文京区と杉並区、ふたつの住宅街に残る文豪ゆかりの建物が、同じころ(2014年末)解体の危機に直面し、それぞれ市民団体が保存へ向けて立ち上がった。本誌では、「危機の始まり」(2015年5月号)、「活動団体の立ち上げ」(2015年7月号)、「活動の広がり」(2015年11月号)について報告してきた。
 2件のうち、めでたくもスピーディな解決を見た文京区の「旧伊勢屋質店」(樋口一葉ゆかりの建物)については、今回、市民団体のおひとりから文化財保存活動について話を伺った。
 一方、難航する杉並区の「碧雲荘」(太宰治旧居)では、太宰ファンの後押しやマスメディアの力を受けながら全国展開を試みる様子をレポートする。
樋口一葉が通った旧伊勢屋質店の保存に関わって
──東京都文京区にて

 NPO法人「文京歴史建物の活用を考える会(通称:たてもの応援団)」理事の多児貞子さんは、東京駅の保存でも市民団体の事務局を務められた。初めに東京駅長に要望した際に、要望書に赤いバラの花束を添えて「これから仲良くしたい」という気持ちを込めたというエピソードが印象的だ。さらに「保存活動は価値観を共有する仲間で呼びかけ合って始めるので、たいへんであっても楽しい」という大らかなコメントに驚く。

筆者:「東京駅」の他にも「外務省研修所」、「旧安田楠雄邸」(どちらも文京区)など数々の保存運動に携われていますが、その中で留意されている点は?

多児:活動の成否には人間関係が大きく係わるので、ふたつの事を心がけています。ひとつは「情報の共有」。伊勢屋の件は半年前に聞いたのですが口止めされ、辛かったです。もうひとつは「上下関係をつくらない」ということ。35年ほど前に草創期の「全国町並み保存連盟」に顔を出していたころ、大学教授を「先生」と呼ぶのは止めようというルールがあり、以来ずっと身についています。皆が自由に意見を言えることが大事。敬意を持っての「さん」です。

筆者:事務局として組織を運営される上でのご苦労は?

多児:活動が長くなると参加者が固定してしまい、チャレンジする気持ちもなくなってくる。一方、後から参加する人は気持ちの共有ができ難く抜けていきがち。「基本的なことを受け継ぎながらの新陳代謝」というのは難しい問題です。また、お金の扱いをきちんとするというのは、とても大事なのですが、あまり重要視されていない気がして残念です。

筆者:時にはスイスイと上手く運ぶこともある?

多児:活動の段階でスイスイというのは一度もないですね。旧安田邸の保存では、スイスイよりも「奇跡が起こった」という感じでした。10カ月のタイムリミットのうち既に7カ月以上が経過していた中で、奥様に「皆さんでお使いください」と言われた時の感動は、今思い出しても涙が溢れます。

筆者:今回の旧伊勢屋質店の保存でも見事な成功を収められましたね。

多児:これは今回の危機以前に10数年にわたって「一葉忌」の日の一般公開を担ってきた活動の成果でもあります。

筆者:なるほど、建築史家の松本裕介さんのお話と通じますね(右頁上段)。ところで、運動の結果が出た後の、活動の終わらせ方というのは?

多児:個人的には、会が存続しているのかどうか不明という状態がイヤなので、解散するか、次のステップに進めるかです。保存決定後には、文化財登録の申し入れ、記録集の発行、賛同者への配布、残金の別団体への寄付などします。保存条件を守る期間が過ぎた段階で、おかしな動きがないかなど気に留めることも。東京駅の保存運動では、開始から12年で復原修復保存が決まり、そこから13年後に竣工、さらに2年後に記念誌を送付して会を解散。正直、長かったです。復原が決まった時に解散しても良かったのですが、誰もやめると言わず、ほとんど敬老会のような感じでした(笑)。実際には、残金の処分が決まらないと、事務局の私には本当の解散にはならないのです。

筆者:想像以上に息の長い話なのですね。ありがとうございました。
多児貞子さん。
太宰治が富士を見て泣いた家を残せるか
──東京都杉並区にて
保存活動を一貫して丁寧に報道してくれた太宰の故郷の新聞『陸奥新報』2015年8月1日(土)版。
平成27年7月30日:つい先日区長に届けた署名3,780筆のうち約1,000筆は太宰治の故郷、青森県からのもの。そこで協力者への報告とお礼のため、メンバー有志で旅に出る。五所川原市役所を表敬訪問した後、金木太宰会の会長さん(元、教育長)に「思ひ出の蔵」を案内していただく。いったん解体され後に再建された際に、元の建材を薄く切って内装材に活用したのだという。「そのまま保存」ができなくても、いろいろな残し方が可能であることを学ぶ。

7月31日:期間限定の太宰列車「走れメロス」号に乗り、五所川原市金木町へ移動。車内では、小冊子で太宰作品に触れつつ津軽の風景を楽しめる。国指定重要文化財太宰治記念館「斜陽館」と、「太宰治疎開の家」を見学。太宰は明治42年斜陽館に生まれ、13歳まで過ごし、再び昭和20年に妻子を連れ疎開している。『冬の花火』等が執筆された机の前に座ってみる。つい最近『火花』で芥川賞を受賞した又吉直樹さんも数回訪れ、ここに30分近く座っていたそうだ。
文士らしい雰囲気の又吉直樹さんの写真を探して第2回の告知チラシに。
8月13日:「太宰サミット」第2回の告知ができる段階までようやく漕ぎ着けた。杉並公会堂の大ホール(1,000名収容)を使うという、かなり背伸びした企画。当会の機動力を上回ることは自覚している。「打ち上げ花火」だと揶揄もされるが、マスコミ報道により全国的に碧雲荘問題が周知されるためには、インパクトとスケールの大きさが必要なのだ。広報活動と開催準備を始める。

8月30日:申込者は500名。あと2週間で残り500席を埋めることができるのか。悲観論と楽観論の間を行ったり来たり……。
杉並公会堂が2階席まで埋まった。
松本裕介講演「碧雲荘の建築的魅力」。
又吉直樹講演「私の中の太宰治」。
9月14日:杉並公会堂大ホールが1,003名の皆さんでいっぱいになった。以下のようなプログラムだ。
太宰サミット第2回
「太宰に会う、又吉に会う〜荻窪の碧雲荘を残せるか〜」
1. 太宰作品『富嶽百景』を聴く(朗読:原 きよ+ピアノ:渡辺 秋香)
2. 碧雲荘の文学的魅力(東京大学教授:安藤 宏)
3. 碧雲荘の建築的魅力(建築史家:松本 裕介)
4. 「私の中の太宰治」(芸人・作家:又吉 直樹)
5. 対談「それぞれの太宰」(又吉 直樹 × 作家:松本 侑子)

全国紙を含む30以上の報道各社に大きく扱っていただき、問い合せなどの反響も一気に膨らんでいった。



なぜ建物を残すのか?──④

建物が面白いと思う人を増やす
 家の近くに田んぼがあって毎日泥だらけで遊ぶ少年がいた。小学校へ上がって間もなく1枚の切手を親にもらう。福田平八郎の絵画「筍」の図柄。嬉しくて切手を集め始める。日本美術の図柄が多いので「これ、何の絵?」を連発。親も対応しきれなくなり、山根有三監修の『日本美術史』(美術出版社)を買ってもらった。読み終わったのが小学3年生。
 鎌倉の近くに住んでいたので、実物を見に寺社仏閣や史跡へ通うようになる。考古学の発掘現場も「観て」、中学になると「手伝った」。丸の内の東京銀行協会ビルは切手に載っていたのに、見に行ったら既に壊されていた。高校時代にもカメラを担いで出かけ、東京大学に入ると「子供のころ、本の中で会っていた先生方に」指導を受けることとなった。大学院時代は、書庫に籠って古写本を書き写す。
 「ただ、好きなことをやってきただけ」と振り返る。「僕のように建物が面白いと思う気持ちを共有してくれる人を増やし裾野を広げること、それが文化財保存に繋がる」と話す。そもそも、建物を残す残さないは所有者の問題。見にきてくれる人や「いいね」と言ってくれる人が増えれば、所有者も残したくなると。ほとんどの保存運動が「時、既に遅し」だという。壊す話が出る前に所有者と「お付き合いできる関係」を作っておくべきと強調する。最後に少し怒ったように「良い物を壊したら……、良い物をつくるのがバカバカしくなる」と。

 かつて泥だらけだった少年、松本裕介さんは今、42歳の建築史家、建築家。著書は『建築史家の眼差し 東京に残る昭和の建築の美』(2015年、木族Networks)。
村田 くるみ(むらた・くるみ)
冬木建築工房代表、(一社)東京都建築士事務所協会杉並支部副支部長、編集専門委員会委員
大分県生まれ/お茶の水女子大学文教育学部卒業/家族の駐在に伴い、アメリカ、オーストラリア等で専業主婦の後、子育てを終えてから建築士に