バウハウス百年 第2回
ヴァイマール共和国とヴァイマール文化──運命の双生児?
黒川 剛(元在オーストリア大使)
ヴァイマル共和国 1919 – 1933
 ドイツが第一次世界大戦で敗北した結果誕生したいわゆる「ヴァイマール共和国」は、1919年から1933年までのたった14年という短い生涯であった。そしてヴァイマール期の文化活動の代表的現象のひとつである「バウハウス」は、共和国と同じ年に生まれ同じ年に消えた。「バウハウス」をその花のひとつとするヴァイマール文化と呼ばれるものは、共和国の生い立ちとその時代が必然的に産み落とした美貌の双生児だったのだろうか。それとも、民に愛されること少なかった共和国が、政治的・社会的混沌の中でせめてものレガシーとして後世に問うた遺児だったのだろうか。
国家統一の遅れたドイツ
 ヴァイマール共和国を語るためにはその生誕を強制したドイツ帝国(いわゆる第二帝国)に目を注がざるをえず、そしてこの帝国を知るためにはさらに17世紀まで遡らざるをえない。
 当初は宗教的対立から始まった三十年戦争は、時とともに政治権力間の闘争となり、1648年のヴェストファリア諸条約でやっと収束した。主権国家の並立という欧州の政治的骨格が成立し、これはナポレオン失脚時のウイーン会議を経て、20世紀初めまで存続した。ただし、ドイツ(そしてイタリア)を除いて。
 ドイツ(語圏)がなぜ立ち遅れたかを説くには数十頁を要するが、ゴルディウスの結び目を断つ思いで端言すれば、ライン川がローマ文化の東漸を妨げ、地形の複雑さも加わってゲルマン諸部族が分立したまま定住地に小国家を立て、神聖ローマ英国というゆるい傘のもとで併存していたことと、北独で宗教革命がおこったためドイツ語圏が分断されてしまったということである。
大ドイツ主義か小ドイツ主義か
 しかしナポレオン軍に蹂躙されるとドイツ語圏でも遅まきながらプロイセン王国(ホーエンツオレルン王朝下のドイツ単一民族、プロテスタント国家)を中心に民族統一への気運が高まった。その際の問題は、統一ドイツにハプスブルク王朝下のカトリック国家であるオーストリアを加える(大ドイツ主義)か否かであった。宰相ビスマルクが率いるプロイセンは小ドイツ主義をとり、普仏戦争で勝利を収めた機会に「ドイツ帝国」を創立する。時は1871(明治4)年であり、つまりドイツ帝国は明治政府よりも若いのである。
 ビスマルクは欧州にドイツ包囲網を生み出さないことを最重要課題とし、複雑な条約網をつくってそれに成功した。しかし自負心の強い皇帝ヴィルヘルム二世はビスマルクを罷免すると大国主義に転じて孤立し、サライエヴォ事件をきっかけに二正面戦争を起こして国を滅ぼした。
偶然で生まれた共和国
 突如敗戦に直面したドイツでは保守派、中道、左翼の各派がそれぞれ政権獲得を狙ったが、中道の社会民主党(SPD)が機先を制して共和国を宣言し、爾後ヴァイマール期の政治的中核に留まることになる。それはドイツ共産党の前身スパルタクス団の代表リープクネヒトが共産主義ドイツ国を宣言するわずか数時間前のことであったという。しかし諸勢力がこれを是認したわけではなく、その後数年にわたって政権転覆の動きが止まらない。
 スパルタクス団は1920年1月に武装闘争に走るが、リープクネヒトとわが国でも有名なローザ・ルクセンブルクは惨殺され死体は運河に投げ込まれた。右翼では翌年3月にカップ一揆がおこるが労働者のゼネストで挫折する。また、つい先年まで独立国だった国内各州でも新政権への反発が強く、たとえばバイエルンでは(ただちに国防軍、義勇軍に制圧されたものの)左翼のいわゆるレーテ共和国が宣言されたりした。後述する1923年のヒトラー一揆もこの流れのなかにある。
理想主義の陥穽
 新政権は新体制を支えるべき憲法の制定を急いだが、上述のとおりベルリンは情勢不安定で危険なため、作業はゲーテやシラーが活躍した古都ヴァイマールで進められ、国家や憲法もその名を冠して呼ばれることになった。
 新憲法はドイツ人特有の観念論的理想主義を反映して「最も美しい民主主義的憲法」と称賛されるものに仕上がったが、それは混沌から抜け出るための強力な指導者を必要とした当時のドイツには、かならずしも適合した内容ではなかった。たとえば、完全な比例代表制にもとづく国会の議席配分はまことに民主主義的ではあるが、常に政情不安定をもたらす危険がある。議会が機能しない場合の大統領令による処断は、最高機関たるべき立法府の基盤を揺るがすものだ。しかもその大統領は国民の直接選挙で選ばれ、法理よりは民意に依存する危険が強い。こうした現実と乖離した諸規定の存在が、ヒトラーが「合法的に」権力を獲得した一因ともいわれる。クレオパトラや楊貴妃のごとく美しすぎる女の命ははかなく、男を破滅させる。
誰にも愛されない共和国
 ドイツ人一般は「敗戦」という事実をなかなか受け入れられなかった。ひとつには軍指導部が折々の現状についての情報を国民に提供しなかったためであり、ひとつにはドイツ自体の国土では一切戦闘行為が起こっていなかったからである。そのため、敗戦は国内の非愛国勢力(共産主義者やユダヤ人)が雄々しく戦っている軍を背後から刺したためだという「匕首伝説」がうまれた。
 その火に油を注いだのがヴェルサイユ講和条約である。欧州では戦争は一種の政治ゲームであって、適当なところで手打ちが行われるべきだという認識が定着していた。しかしこの条約は、①ドイツの軍備を兵員10万名以下に限定し、戦車、飛行機の開発を禁止、②ドイツのGDPの何十年分かの賠償、③国内辺境地区および海外植民地の奪取等、極めて苛酷な内容で欧州の伝統に反するものであった。
 ひとつには第一次世界大戦が前例を見ない総力戦となり戦勝国側も膨大な国富の損失を蒙ったためであり、これに加えて民主主義のもとでは政治指導部も、前線銃後で生じた損害の完全な回収を求める世論に配慮せざるをえなかったからである。しかもフランス・ベルギー軍が賠償支払い遅延を理由としてルール工業地帯を占領し、これに対するドイツ側の「消極的抵抗」のため、史上最悪のハイパーインフレが生じたりしたので、条約を受け入れざるをえなかったドイツ政府は、民衆から「十一月犯罪人」などと罵倒された。
 このような状況のもと、いわゆるヴァイマール体制は政見の如何を問わずすべての勢力から支持されず、政権を支えるべきインテリ・グループも「共存はするが愛情はもたない」というスタンスであった。哀れな共和国は誰からも愛されなかったのである。
不安定な社会が自由な芸術を生む
 政治経済面での権威と秩序の欠如は、国民一般には不安と恐怖をもたらしたが、芸術の世界には発展と飛躍の機会をもたらした。芸術はつねに秩序への反抗と不可分であるが、ドイツ帝国はプロイセン的権威主義が支配していたのみならず、そもそもドイツ人には(芸術家も含めて)権威に服従する傾向もあったので、情感の自由な発露は望むべくもなかった。
 しかし今や古い権威は消滅し、残った障碍に対しては抵抗する自由が与えられ、その空気は外国の芸術家をもドイツに引き寄せた。すべての呪縛が一挙に切り落とされたのである。無秩序は美徳であり、破壊は建設と見做された。
 解放された芸術家たちは世紀末に開花していたさまざまな流れをいっそう発展させた。ある人びとは個人の感情の束縛なき展開をもとめ、非合理な美に惹かれて表現主義に走った。またある人びとは理性による機能の調整が美を生むと考え、それを現実化する路を求めた。「バウハウス」もそのひとつである。
 思想・哲学の分野では、シュペングラーの『西洋の没落』はワイマール前期に、ハイデガーの『存在と時間』は後期に世に問われている。文学に目をやれば、トーマス・マンのノーベル文学賞受賞やエーリッヒ・M・レマルクの『西部戦線異状なし』、ベルト・ブレヒトの『三文オペラ』もこの期の業績である。ついでに音楽では1923年にフルトヴェングラーがベルリン・フィルの常任指揮者となっている。
 建築・造形や文学、絵画の蔭に隠れて忘れられがちであるが、この時期にドイツ映画が黄金時代を迎えた事実も確認しておきたい。わが国では「カリガリ博士」ばかりが話題になりがちであるが、UFAのあげた業績や、E.ルビチュ、F.ラング等の傑作はもっと記憶に留められてよいであろう。
 ついでに言及すれば、ドイツとは反対に大戦で焼太りした米国でも20年代はRoaring Twentiesと呼ばれているし、わがお膝元の日本でも、大正時代から昭和初期にかけて仇花的なものも含めて、民衆芸術が一挙に開花したことも思いだされる。
分権的伝統のメリットと20年代のベルリン
 統一前のドイツでは各地の王侯たちが自国のなかに大学や劇場を建て、学術文化の振興を競い合っていた。その伝統は統一後も生き続け、ヴァイマール期にもそのメリットを発揮した。ミュンヘンやドレスデンのごとき旧王都のみならず、各地の中小都市も自らの文化的伝統に誇りをもち競い合っている。さればこそ「バウハウス」も、デッサウやヴァイマールといった田舎町に根拠をおきつつ内外に影響を及ぼしえたのである。今日のドイツでも、文化政策は連邦政府ではなく各州政府の所管となっている。
 したがってベルリンへの一極集中は存在せず、この都市は政治の中心とはなっても経済産業そして学術文化の中心となったことはない。今日でも連邦政府と議会はベルリンにあるが、憲法裁判所はカールスルーエに、連邦銀行はフランクフルトに置かれている。
 しかしヴァイマール期に新たな自由の魅力を最も鮮烈に発揮して、内外の人びとを惹きつけたのもベルリンであった。たとえばドイツ特有の「政治キャバレー」はこの時代のベルリンに生まれ、その伝統は現在まで引き継がれている(ライザ・ミネリ主演のアメリカ映画「キャバレー」を想起されよ)。
「バウハウス」の終焉
 先述のとおりヒトラーは、ヒンデンブルク大統領による任命という合法的なプロセスを経て政権を手に入れたが、ドイツ政界の実力者たちは一旦彼に権力を与えるものの、遠からずこの「新参者」を放り出すつもりでいた。ところがナチ政権はあっという間に独裁体制を確立し、12年間ドイツを支配した。
 ナチ政権の政策をひと口でいえば、人種主義的色彩の強い民族主義(指導者民族としてのゲルマン/アーリア人種と最劣等人種たるユダヤ人)のもとで、ヴェルサイユ体制からの脱却とドイツ人の「生命圏」の獲得を求め、これらの目標をヒトラー総統の絶対的指導のもとに実現するということである。
 文化政策もこれに対応してドイツ人の民族性と美徳(質実剛健など)の称揚・強調が求められ、これに合致しないものは「頽廃文化」として排除された(もっともミュンヘンの「文化の家」で開催された「頽廃文化展」は、ドイツで最も多くの人が押し掛けた展覧会だったといわれる)。
 そもそも総統の権威に反逆することは許されないのだから、個人の表象の自由な展開や発展は望むべくもなく、また普遍的(脱民族的)な美の基準をかかげることは指導者民族論に反するものであり、かてて加えて何人かのユダヤ人が参画しているのだから、「バウハウス」がナチの御眼鏡に適うはずもなく、閉鎖以外に道はなかった。
建築家志望だったヒトラー
 ヒトラーは若いころ画家・建築家を目指しており(ウイーン美術学校を2度受験していずれも失敗)、終生、建築・都市計画に関心があった。ナチ時代建設された「第三帝国様式」建築のいくつかは戦火を生き延びたが、ヒトラーのウイーン放浪時代の印象が反映されているのか、とりたてて民族的とも近代的ともいえない感がある。お気に入りの建築家A. シュペアー(ニュルンベルク党大会での「光のドーム」が印象に残る)は、総統の命に応じて欧州征服完了後の大首都「ゲルマニア」の都心モデルを作成しているが、巨大なドームが中心に立つ折衷主義的なものであった。
 音楽についてはドイツ・ゲルマンの伝統を謳いあげたワグナーに傾倒し、バイロイト音楽祭の常連であったし、演説の原稿は「ローエングリン」の間奏曲を聞きながら書きあげたという。
結語
 ナチ党の政権獲得とともにドイツの暗黒時代が始まったと考える人もいるが、1938年までは大量失業が克服されて国内情勢は安定し、国際的にもドイツの存在は重みを加え、国民のあいだでヒトラーの指導者としての評判は高まる一方であった。この「平和時代」に独裁体制は強化されたものの、20年代の奔放な自由への記憶はドイツ人の心のなかに生き続け、また亡命者の活動によって諸外国にも広がっていった。
 1世紀後の今日、ワイマール文化は「敗戦で生まれ、狂乱に生き、悲惨のなかで死んだ」と評されることもあるが、その余光はわが国も含めて現在までわれわれを照らしているといえよう。
黒川 剛(くろかわ・つよし)
1932年東京生まれ。東京大学、ハンブルク大学で学んだ後外務省入省。在デユッセルドルフ総領事、在クウエイト大使、在オーストリア大使を経て退官後、中央大学教授のほか国民外交協会理事長、日独協会理事などを歴任。訳書:「政治家ヒトラー」「人間ヒトラー」「日本はなぜユダヤ人を迫害しなかったのか」など