バウハウス百年 第1回
知られざるバウハウス
田中 辰明(お茶の水女子大学名誉教授、(一社)日本断熱住宅技術協会理事長)
1. ハンネス・マイヤー設計のベルナウの「労働組合総同盟の研修学校」。(撮影:筆者)
2. ペーター・ベーレンス設計の「AEGタービン工場」(ベルリン市)。(撮影:筆者)
3. ヴァルター・グロピウス設計の片廊下型集合住宅(デッサウ、テルテン)。(撮影:筆者)
4. ヴァルター・グロピウス設計のデッサウの「バウハウス館」。(撮影:筆者)
5. パウル・クレーとヴァシリー・カンディンスキーが住んでいた「教師館」(撮影:筆者)
6. フランツ・エーリッヒ設計の「ブッヘンヴァルド強制収容所」の門扉。(撮影:筆者)
7. ノイフェルトによる『Bauentwurfslehre』36版の表紙。
女性が多かったバウハウス
 バウハウスは1919年にドイツのヴァイマールに設立された写真、工芸、陶芸、デザインなどを含む美術と建築の総合的な教育を行う国立の学校であった。その後デッサウ、ベルリンと教育の場を移動し、1933年には台頭したナチスによって閉校を余儀なくされた。この間、わずか14年間であったが、教育にあたった教員の豪華さには圧倒される。合理主義的、機能主義的な芸術を目指し、モダニズム運動を行った。
 しかしバウハウスの14年間の存続期間はヴァイマール共和国の時代と一致する。ヴァイマール共和国はヴァイマールで憲法の草案がつくられたことからその名がついている。憲法は極めて民主的で女性に参政権が与えられた。バウハウスはこの時に発足した国立の学校であったため、女性の入学志願者が多かった。それまで大学で学ぶ女性は極めて稀であった。初代校長のグロピウスは予想しなかったことに大いに驚いたが、入学を許可した。その結果女性は織物、染色などの技術を習得し、社会進出を果たした。バウハウスの教員になった女性もいる。
 ヴァイマール共和国は民主的な憲法を持つ理想国家のように見えたが、政権がよく交替し、不安定な国家であった。また天文学的なインフレーションが発生し、一般庶民は生活苦にあえいだ。一方でこれをうまく活用し、利益を得たものもいて、貧富の差が大きくなった時代であった。バウハウスもヴァイマール共和国の光と影の影響をまともに受けた。
バウハウスの教授陣
 バウハウスの教授陣の名声は素晴らしいものがある。中でもパウル・クレー、オスカー・シュレンマー、ヴァシリー・カンディンスキー、ライオネル・ファイニンガーなどはこの時代を代表する芸術家である。
 これに加え、芸術教育に力を入れた教員がいる。ヨハネス・イッテン、ヨーゼフ・アルバース、ラスロ・ナホギ=ナギらがいた。
 ヨハネス・イッテンは最初に教育学を学びその後絵画を勉強している。芸術は天性のものと考えられていた時代に、教育によってある程度の域に達することが可能であるとした。彼らの業績は現在も芸術教育に大きな影響を与えている。これに加えて初代校長はヴァルター・グロピウス、3代目校長はミース・ファン・デル・ローエで、この2名は近代の4大建築家に名を連ねる。
2代目の校長ハンネス・マイヤーの評価
 こうなると、2代目の校長ハンネス・マイヤーの影がどうしても薄くなる。しかしハンネス・マイヤーは校長として精密な教育プログラムをつくり、自らも素晴らしい作品を残している。マイヤーは、グロピウスにより、1927年4月に招聘を受け、かつグロピウスの後任校長にグロピウス自身が1928年初頭に指名している。しかし実際にはグロピウスとマイヤーの折り合いは悪く、バウハウス内での文書にも活動があまり出てこない。ハンネス・マイヤーはもっと評価されてよい建築家である。マイヤーは1928~1930年の間ベルリン北部のベルナウに「労働組合総同盟の研修学校」を設計をしている(写真1)。これはブルーノ・タウトの建築の保全に努めたベルリンの建築家ヴィンフリード・ブレンネ氏により、修復が行われた。
ムテジュウスとドイツヴェルクブンド
 バウハウスは突然ヴァイマールの地に姿を現したのではない。1870年ころ、ドイツの工業デザインは英国より立ち遅れていた。1896年ヘルマン・ムテジュウスが英国に留学し、「田園都市」の考え方、芸術工芸、工芸学校の思想を持ち帰った。ムテジュウスは1907年にドイツヴェルクブンドを立ち上げた。その目的とするところは「芸術家、産業界の企業家、職人の協力を通して、産業製品を発展させること」であった。すなわちそれまでドイツ製品は英国製品より品質が劣ると考えられていたが、ドイツ製品も輸出にかなう「優良品」にしていくことであった。ドイツヴェルクブンドにはブルーノ・タウト(1910年入会)、ヴァルター・グロピウス(1912年入会)も参加し、活発な活動を行った。
 ドイツヴェルクブンドは社会主義運動のようにも見られるが、企業経営者もこれを応援した。たとえばAEGの社長だったエミール・ラテナウ、ヴァルター・ラテナウ父子(ヴァルター・ラテナウはヴァマール共和国初期の外務大臣を務めたが暗殺された)はペーター・ベ-レンスに「タービン工場」(写真2)を建設させ、扇風機などの設計を任せた。ペーター・ベーレンスもドイツヴェルクブンドに属していたし、グロピウス、ミース・ファン・デル・ローエもベーレンスの下で修業を行った。
グロピウスに影響を与えたブルーノ・タウト
 ブルーノ・タウトがドイツで活躍した時代とバウハウスが活動した時代は一致する。しかしブルーノ・タウトはバウハウスで教鞭をとったこともないし、別の活動のように考えられていた。ブルーノ・タウトは芸術研究会の機関誌『建築プログラム』に、建築に際しあらゆる芸術が協調すべきこと、さらに大衆のための建築の試作と展示会の開催が重要であることを訴えた。タウトは「なぜなら工芸と彫刻、そして絵画の間には境界はなく、すべてはひとつのものであり、建築をしていくことである」と述べている。グロピウスは「共につくり上げよう、未来の新しい建築を。それはすべて同じ形態をとるであろう。建築も、彫刻も、そして絵画も」と述べている。明らかにタウトの考えがグロピウスに影響を与えたと考えてよい。
 またバウハウス発足にあたり、グロピウスはバウハウス宣言ともいわれるマニュフェストを発表している。その表紙はライオネル・ファイニンガーによる木版画で、大聖堂が描かれ、その塔の先端には絵画、彫刻、建築の3つの芸術を示す星が輝いている。ブルーノ・タウトは1919年に著した『都市の冠』でゴシックの大聖堂の塔を描いている。これはグロピウスのマニュフェストに影響を与えている。ブルーノ・タウトはバウハウスで講演を行ったことはないと考えられていた。しかし、最近の調査で1920年5月20日に講演を行ったことが明らかになった。
デッサウのバウハウス
 ヴァイマールでのバウハウスも弾圧や妨害が入り、1925年にはデッサウに移転している。デッサウは当時ドイツの大工業地帯で労働者の住宅を欲していた。グロピウスはデッサウのテルテンという土地に実験的な住宅団地を残している。決して芸術的なものではなく、一般労働者が住めるような集合住宅群である。ここでは外廊下型の集合住宅の例を示す(写真3)。このような集合住宅は現在の集合住宅のモデルになった。同じ時期にブルーノ・タウトはベルリンにたくさんの集合住宅を残しているし、エルンスト・マイはフランクフルトに勤労者用の集合住宅を残している。その他グロピウスは後でユネスコ世界文化遺産に登録された「バウハウス館」(写真4)を残している。
 またバウハウス館の近くにグロピウスは「教師館」(写真5)を残しており、これもユネスコの世界文化遺産に登録されている。ここではパウル・クレーとヴァシリー・カンディンスキーが住んでいた教師館を紹介する。
 クレー、カンディンスキーといった個性的な芸術家が同じ屋根の下に住んでいたというのも驚きであるが、実際にはふたりは非常に仲が良かったそうである。事実ふたりの著書はお互いに影響しあったことをうかがわせている(参考文献5、6)。
バウハウスの日本人
 当時バウハウスに留学した日本人には水谷武彦、山脇巌・道子夫妻がいた。この3名は帰国後、新建築工芸学院で講師を務め、バウハウス教育の思想を伝導した。水谷は東京芸術大学教授として後進の指導にあたり、山脇巌は日本大学芸術学部創設に加わり、教授としてバウハウスを参考としたカリキュラムをつくり、指導を行った。このようにしてバウハウスは日本のデザイン教育に影響を与えた。
 また自由学園から山室光子と今井(笹川)和子がバウハウスへ留学を試みたが、バウハウスはナチスの弾圧により揺れ動いていた時期でもあった。そのためにバウハウスの予科課程を担当していたヨハネス・イッテンがベルリンで開いた芸術学校「イッテンシューレ」で学んだ。帰国後ふたりは自由学園工芸研究所を立ち上げ、後進の指導にあたると同時にバウハウスの影響を受けた工芸品の製作・販売に携わった。
ドイツに残ったフランツ・エーリッヒ
 ミース・ファン・デル・ローエ(3代目校長)はナチスが政権を取った数カ月後の1933年に厳しい弾圧を受け、苦渋の選択によりバウハウスを閉校した。バウハウスの教授人の多くは主に米国へ亡命し、そこで大きな影響力を持つようになる。ヴァルター・グロピウスとマルセル・ブロイヤーは建築家として、またハーバード大学教授として建築学を教授する。ミース・ファン・デル・ローエはシカゴで鉄とガラスの超高層建築を建設し活躍した。ヨーゼフ・アルバースはブラック・マウンテン・カレッジで教鞭をとり、ラスロ・モホリ=ナギは1937年シカゴに「ニューバウハウス」を設立している。その他外国へ逃げ、そこで成功したバウハウス関係者は多い。
 しかしすべてのバウハウス関係者がドイツを去ったわけではない。ナチスに追われ、海外逃亡を果たしたくてもできなかった人もいる。中にはナチスの犠牲となり処刑されたバウハウス関係者もいる。また自分が生きるためにやむなくナチスに迎合してしまった人もいる。
 1929年にバーゼルで開かれたバウハウスデッサウの展示会ポスターは秀逸である。これはフランツ・エーリッヒによりつくられた。ドイツに残った彼は一旦ブッヘンヴァルト(現在はヴァイマール市)の強制収容所に収監される。しかし彼はもとバウハウスにいた人間であることを名乗り、強制収容所の設計に従事する。強制収容所の門扉は氏の作品である(写真6)。こうして生き延びたことにより、旧東独で活躍することができた。
バウハウス1期生のエルンスト・ノイフェルト
 バウハウスが輩出した人材は多すぎ、誰を代表と言って良いか分からない。筆者が建築に関係した人をひとりを選ぶなら、エルンスト・ノイフェルト(1900~1986)をあげる。
 ノイフェルトはドイツのフライブルクで生まれた。5年間煉瓦積職人の仕事をしたのち、17歳でヴァイマールの建築施工学校に入学した。そこの教師に勧められ、1919年バウハウスの第1期生として入学、グロピウスに師事する。1920年にスペインに行き、アントニオ・ガウディと交流を持つ。1921年再びバウハウスに戻り、グロピウスのもと、主任建築家となる。1924年アリス・シュピースと結婚、4人の子供を授かる。1925年にはグロピウスと共に仕事をし、デッサウの新しい「バウハウス館」や「教師館」の設計に従事する。
 ベルリンでバウハウスが閉鎖されるとヨハネス・イッテンがベルリンで開いていた建築と芸術の学校「イッテンシューレ」の教員となる。一方それまで収集してきた建築の図面、データーを編集し、1936年に建築設計教本『Bauentwurfslehre』(写真7)という本を出版する。これが話題になり、たちまち18ケ国語に翻訳された。これはわが国の日本建築学会が編集した『建築設計資料集成』(丸善)のタネ本ともなった。この31版は和訳が行われ、『ノイフェルト・建築設計大辞典』という標題で吉武泰水総括のもと1988年に彰国社から出版された。筆者も翻訳の手伝いをさせていただいた。
 1936年渡米し、フランク・ロイド・ライトに会い仕事を求めようとする。しかし既に米国でもノイフェルトの著作は名声を博しており、第2版を出版のためにベルリンに戻る。ナチス政権下ではヒトラーの右腕としてゲルマニア計画を行っていた建築家アルバート・シュペアに呼ばれ、ドイツ工場建築の標準化の作業を担当する。また建築に関するドイツ工業規格(DIN)作成に尽力した。戦後はダルムシュタット工科大学の教授に就任、さらに子息のペーターと協同の設計事務所を開設した。ドイツ連邦共和国大功労賞受賞。晩年は専ら著書、建築設計教本『Bauentwurfslehre』の改定作業に従事した。スイスにあった自宅で死去した。
田中 辰明(たなか・たつあき)
お茶の水女子大名誉教授、(一社)日本断熱住宅技術協会理事長
1940年 東京生まれ/1963年 早稲田大学第一理工学部建築学科卒業/1965年早稲田大学大学院理工学研究科建設工学専修修士課程修了後、(株)大林組入社/1971〜73年 DAAD奨学生としてベルリン工科大学ヘルマン・リーチェル研究所客員研究員/1992年(株)大林組退社後、お茶の水女子大学生活科学部生活環境学科教授/2006年 お茶の水女子大学退職、名誉教授