古民家から学ぶエコハウスの知恵 ⑫
養蚕が民家をエコハウスにした その2
丸谷 博男(一級建築士事務所(株)エーアンドエーセントラル代表/(一社)エコハウス研究会代表理事/専門学校ICSカレッジ オブ アーツ校長)
 江戸時代末期、「清涼育」という養蚕法が田島弥平によって提唱され、大きな影響力を持ちました。そこには、東北地方で普及していた高気密型「温暖育」の課題が問題視され、「清涼育」が改めて工夫されて行った物語があります。現代住宅の目標とされている「高気密高断熱住宅」にも落とし穴があることを示唆している歴史的な経験です。今回は、この経過に注目して見ます。まずは、「蚕」そのものの生態的な性質と生育条件等の基礎知識から学びます。
1. カイコの一生(蚕糸・昆虫農業技術研究所資料より)
蚕の成育と環境

──温度、湿度、換気、通風、日射量ほか

 養蚕のための蚕室の温湿度コントロールのためには、蚕そのものの求める温湿度条件を理解しておく必要があります。とはいっても蚕にとっての快適さはなかなか理解できないので、絹糸の生産のための好条件として温湿度を確認することにしましょう(❶:カイコの一生)。

1. 蚕の発育と温度

 蚕は変温動物です。体温は周囲の気温の影響を受け、周囲温度+1℃といえます。生理・成長機能は温度と平行し温度が高い程活発となり、蚕が発育する温度範囲は7〜40℃、正常な発育範囲は20〜28℃です。1回目の脱皮から2回目、3回目、4回目、さらに繭をつくる時へと成長適温は28〜22℃へと次第に降下して行きます。飼育中は常に適温の範囲に室温を保つことが大切といわれています。
2. 蚕の成育と湿度

 成長と湿度の関係は気温の違いよりはその影響は少ないのですが、健康度に及ぼす影響は大きく注意する必要があります。60%以下では低すぎるし、90%以上でも高すぎて健康を害しやすくなってしまいます。成長段階では、気温と同じように前期の方が高湿を好み後期の方が低湿を好む傾向があります。70〜90%の範囲に敵湿があると理解してよいでしょう。
3. 蚕と空気

 蚕は身体の両側にある気門から空気を吸い込み、体内で脂肪・炭水化物・タンパク質等を燃焼して、その際生じる熱とエネルギーを利用して成育しています。その時に発生する炭酸ガスや不要な水分は、再び気門から吐き出しています。このような状態が蚕の身体の周囲にあるため、換気と通風が必要となります。蚕は高温多湿を好むため、周辺にカビが生えないようにするためにも換気と通風は欠かせないのです。特に壮蚕期に気温が30℃以上になった場合には、秒速0.1〜0.5mの通風が必要となります。気門からの水分蒸散は、その気化熱による体温降下に寄与します。しかし、強い通風は桑葉のしおれを早めることになるので要注意が必要です。
4. 蚕と光線

 明暗の違いによる成育の違いは25℃以上の温度でなければ現れません。また違いが現れるのは1齢から4齢までで、5齢では現れないのです。蚕は強い光線と暗闇を避け、15〜30lux程度の弱い明るさの光の方に近寄る性質を持っています。暗よりは明の方が、運動や食欲が活発となり、繭の密度も大きくなるのです。1日16時間以上明るくし、その後は暗くして飼う方が、「眠期」が揃うと理解されています。

 以上の蚕の適温適湿、空気質と気流、そして光線量、さらにそれら各条件の相互作用を配慮して初めて適切な蚕の成長を実現することができるのです。そして「蚕」を「人間」と読み替えることができれば、住宅をどのようにコントロールしたら良いかが理解できるはずです。ところが、そこまでの理解を私たちは持ち合わせていないように思います。現状の住宅ではほとんど気温だけの調節で終始しているのではないかと思います。これら蚕の生育条件の研究には素晴らしいものがあると思います。その研究は150年ほどの間に研究されてきたものなのです。
2. 蚕種家の多い伊勢崎市境島村地区の民家。中心となった田島弥平旧宅母屋。
3. 蚕種家の多い伊勢崎市境島村地区の民家。中心となった田島弥平旧宅桑場。
4. 蚕種家の多い伊勢崎市境島村地区の民家。
5. 蚕種家の多い伊勢崎市境島村地区の民家。
江戸末期に「温暖育」から「清涼育」にいたった蚕種家田島弥平の改良

 現在の群馬県伊勢崎市境島村に蚕種家田島弥平の豪壮な屋敷兼蚕室があります(❷〜❺)。
 利根川流域にあり、江戸時代には舟運と養蚕で賑わい、養蚕の歴史では全国的に注目された拠点でした。特に江戸末期に起きたヨーロッパにおける微粒子病の大流行によりヨーロッパの蚕種が大打撃を受け、日本・中国の蚕種が高価格で求められ、盛んに輸出された時期がありました。この時に島村の蚕種業も大きく発展して行ったのです。田島弥平はこのような養蚕の動きに機敏に行動し、蚕の品種改良も含め、良質の蚕種を提供し大きな信頼を得ました。
 1850(嘉永3)年前後、奥州では「温暖育」がほぼ完成の域に達していました。弥平は父と共にこの温暖育に取組みました。建具からちょっとした穴まで完全に塞ぐという気密工法をとり、温暖な環境で蚕の成長を促進させ良質の繭をつくろうとするものでした。ところが、田島親子の取組みは成功せず、失敗に終わるのです。その後も養蚕法改革に取組んでいたところ、米沢の養蚕農家との出会いがありました。そこで、清涼育により養蚕に成功している様子を直面し、再び清涼育に関心を向けることになるのです。
 その結果、蚕室の密閉性を廃し、室内を可能な限り清潔に保つことができる蚕室の構築へと向かっていったのです。ついに到達した方法は、「抜気窓」の活用、昼夜ともに窓を開放する方法、四方に窓戸を設け水平方向に吹抜けにする方法、天井を簀子上にして垂直方向にも吹き抜け構造とする方法などにより豊蚕を実現できることを確信することに至ったのでした。
 弥平は完成した養蚕建築を「桑拓園」と命名し清涼育完成を宣言したのです。1859(安政6)年のことでした。それ以後、全国各地に抜気窓を設けた蚕室構造を持つ養蚕建築が広がって行きました。
 弥平はさらに研究を進め、明治中期には、「天然七部人為三分」という清涼育と温暖育をともなう「折衷育」を提唱することになります。
6、7. 松ヶ岡開墾記念館
「折衷育」の典型といえる松ヶ岡開墾記念館

 「松ヶ岡開墾記念館」(山形県鶴岡市)は、当時職を失った氏族の転職の典型として明治政府が後押ししてでき上がったものです。養蚕業の先進地、上州島村(現群馬県佐波郡境町)田島弥平家の蚕室を模し、桁間はその倍にして建造したといわれています。たいへん豪壮な建築で、1875(明治8)年創建の1番蚕室は現存する5棟のうちの1棟。棟梁は当時の名匠高橋兼吉(鶴岡)ら2名で、桁間21間(37.8m)、梁間5間(9m)で2階建ての上に通風換気のために越屋根を取り付け、屋根には明治8(1875)年に取り壊された鶴岡城の瓦が使われています。(❻、❼)
8. 競進社模範蚕室の詳細構造
一派温暖育・競進社模範蚕室のオペレーションと各部の機能を解説

 前回(『コア東京』2018年3月号)は競進社の模範蚕室の建築的な資料を紹介しました。今回は、それをどのようにオペレーションし、効果を上げるのかを解説して行きます。
 なぜ、このようなことを理解しなくてはいけないのか。それは私たちがそのようなレベルまで住宅の設計を考えていないからなのです。蚕室の試行錯誤に学び、住宅の設計をそこで暮らす人びとの健康から考えるべきことがまだまだあることを、ともに再確認して行きたいと思います。特に、日々のオペレーションがとても大切だということなのです。
 競進社模範蚕室の詳細項目に基づき、蚕室構造の理由と使用方法を解説していきます。(❽:競進社模範蚕室の詳細構造)

1. 建物の向きは南向きとする。

 南向きにして通風をよくし、日差しを沢山受けることを基本とする。
 真南に向けるよりは、西日を避け東日を受けやすくするという方が有利と考えられる。
 西日については、室温上昇を招くため遮る対処が必要となる。そのために、東西壁は土壁とする。
2. 蚕室は基壇上に建てる。基壇の高さは2尺(606mm)内外。

 水はけが悪い土地では、周囲に溝をつくり水気を他へ導く必要がある。また湿気を招かないように周囲に比べ一段高くする方が有利となる。また、地面からの水蒸気の直接的な流れを受けずにすむことにもなる。これは建物の構造である木部の耐久性を上げることにつながる。
3. 蚕室の床下は三州敲きとする。

 敲きにすることにより地面からの水蒸気を抑えることができる。
4. 蚕室は2から4室の連接とする。

 「清涼育」のような大部屋にせず、小部屋にすることで各部屋ごとの温湿度調整がしやすくなる。
5. 蚕室の大きさは、表の間16尺5寸、奥行15尺5寸とする。

 約14畳の部屋ということになる。これは、九蔵の経験から割り出された大きさと考える。
6. 蚕室には規定した寸法の炉を2カ所設け、火鉢を入れる揚蓋を設ける。

 火鉢による温度調整と湿度低下、さらに上昇気流による換気促進のための装置だが、火鉢の上に被せる揚蓋は、火鉢で直接温めると一部に強い輻射熱が届いてしまうが、揚蓋を被せることにより、輻射温度を下げるとともに、輻射面積を大きくすることで緩やかに隅々まで周辺を温めることができるという素晴らしい仕組みがここにある。驚くべき知恵であると関心させられる。
7. 蚕室の床下には床下壁を設ける。

 この床下壁の効果が何を目的としているかが不明。可能性があるとすれば、床下壁による風の制御、蓄熱効果、さらに土壁の調湿力を期待してのことと考えられる。
8.蚕室の出入り口は南北にとり、柱間8尺2寸5分とし、室内側と廊下側に二重に障子をたてる。

 南北にある広縁からの出入りとし、断熱性を向上させるために二重障子としている。これもなかなかできないことをしっかりと考えていて驚かされる。
9. 入口左右は等分とし、板壁とする。板壁と出入口障子の上部は欄間とし、板壁の下部蹴込みには障子(地窓)を設ける。

 これは、気密と断熱、そして換気、さらには日射量の調整を立体的に計画している。これも、実証的にたどり着いた知恵と関心させられる。
10. 蚕室の間仕切りは欄間付きの障子とする。

 これは日射量の考え方から必要となった知恵と思われる。
11. 蚕室の天井は簀子張りとし屋根裏部屋を設ける。

 天井の簀子張りは、通風換気のため。そして上部に屋根裏部屋を設けたのは外界からの温熱的な影響を少なくする方法と考えられる。また、簀子張りの床の上にはムシロを敷いて換気量を調整する。
12. 屋根裏部屋には蚕室1室に付き1カ所の換気窓付きの高窓(越屋根・抜気窓)を設け、上下に回転板戸を2カ所設ける。

 抜気塔の構造がおもしろい。そこには大小の回転窓が南北それぞれについている。実際にどのように使用し、気流・換気を調整していたのか興味深い。そこまで解説している資料は、今のところ見当たらない。
13. 屋根裏部屋の南北壁は欄間窓付きの土壁とする。

 屋根裏部屋の温度調整、気流調整により飼育室の安定した温熱環境を実現しようとする用意周到な建築的な仕組みと思える。土壁の調湿作用、遮熱作用(気化熱による)も期待できる。
14. 廊下は下屋とし、蚕室の周囲に巡らし、両妻側は土壁とし、妻側に入口2箇所を設ける。

 廊下を下屋とするのは、屋根裏部屋の欄間窓をとるための断面計画。蚕室の周囲に廊下を巡らせるのは、外界の影響を飼育室に緩やかに伝える仕組みとなっている。動かない空気は断熱効果がある。また、飼育室と温度差のある外気を直接飼育室に入れずに、廊下で温度緩和をしてから飼育室に取り入れるという素晴らしいオペレーションがある。現在の熱交換換気に変わる仕組みといえる。
15. 妻側廊下と飼育室境は板壁とし、板壁は解体組立式とする。

 この仕組みは何のためにあるのかは不明。
16. 廊下の外壁側の南北面は障子と雨戸、上部には欄間をとる。

 通風と換気、さらに日射制御を考えての構造。夏の昼間には雨戸を使い日射制御を行ったりする。
17. 飼育室ごとに床下換気口を南北に設ける。換気口には板戸とガラス障子を設ける。

 おそらく夏の昼間は換気口を閉じ、夜間は開放することで昼間の加熱を防ぎ、夜間蓄冷する。冬には換気口を塞ぐことで床下土間の温度低下を防ぎ、晴天の昼間にはガラス障子を閉じて温室効果によって床下を温めるという使用法が考えられる。とても賢い複雑な仕組みといえる。
18. 屋根は土下葺き・本瓦葺きとする。

 屋根は、茅葺きが一番。その次は板葺が本来良いのだが、近代になると火災対策から瓦葺にするようになった。その場合には、屋根裏部屋の熱負荷が増幅することになり、それを防ぐために抜気窓による換気が必要となった。

参考文献
・『埼玉県指定有形文化財 競進社模範蚕室修理工事報告書』 埼玉県教育委員会刊
・論文「清涼育と温暖育の蚕室の仕組みと構成要素」勝亦達夫(東京理科大学大学院理工学研究科建築学専攻 工修)、川向正人(東京理科大学理工学部建築学科教授)
・『蚕にみる明治維新 渋沢栄一と養蚕教師』 鈴木芳行著、吉川弘文館刊
・『日本のシルクロード・富岡製糸場と絹産業遺産群』佐滝剛弘著、中公新書ラクレ
・「養蚕」 養蚕技術研究所のHP上で公開
丸谷 博男(まるや・ひろお)
建築家、一級建築士事務所(株)エーアンドエーセントラル代表、(一社)エコハウス研究会代表理事、専門学校ICSカレッジ オブ アーツ校長
1948年 山梨県生まれ/1972年 東京藝術大学美術学部建築科卒業/1974年 同大学院修了、奥村昭雄先生の研究室・アトリエにおいて家具と建築の設計を学ぶ/1983年 一級建築士事務所(株)エーアンドエーセントラル arts and architecture 設立/2013年一般社団法人エコハウス研究会設立