VOICE
村田くるみ(東京都建築士事務所協会杉並支部副支部長、冬木建築工房二級建築士事務所代表)
荻窪の「荻外荘」(未公開)が今年、国の史跡に指定された。昭和戦前期に3度、総理大臣を務めた近衞文麿の旧邸だ。善福寺川へ向かう南向きの斜面に建ち富士も望めたという伊東忠太設計の邸宅に、近衞は昭和12年に移り住む。やがて荻外荘は、近衞内閣の主要な政治活動の場となり、重要な会談や決定が数多く行なわれた。
その荻外荘の公開を待ち望む区民による「荻外荘勉強会」が4年目に入った。近衞のエピソード、交友、数々の居住地など、さまざまな切り口で学んできたが、ずっと棚上げになっていたのが「荻外荘、なぜ荻窪だったのか?」という命題だ。そんな折、杉並建築会が秋の大会のフィールドに荻外荘を含む荻窪南地域を選定した。まずは地図の専門家である友人から自作の荻窪地形図をもらった。
標高5m刻みで塗り分けられた荻窪南地域には、等高線は海抜45mの1本しか見当たらない。つまり断面的には40mから50mの間に収まっており、高低差は少ない。一方、平面で見ると、小さな河川や水路等により武蔵野台地が削られているそうで、低地が台地の中に樹枝状に食い込み、45m等高線の形状はリアス式海岸のように入り組んでいる。
杉並建築会大会前半に行うまち歩きのために、地形図に荻窪南の見どころスポットを落とし込み始めた時、アレッと思った。大田黒元雄旧邸、角川源義旧邸、荻外荘などのお屋敷、そして寺社仏閣、旧石器時代、縄文時代の遺跡までが、標高45mのライン上に並んでいる。この等高線を辿れば「荻窪南散歩」ができるのだ。
偶然、別の友人に誘われて、地形から「権力の館」を考える講座に参加した。講師の話は「宰相の館の立地条件」に及んだ。宰相が選ぶのは川を見下ろす南向きの高台、さらに望むなら、その河川が敷地近くまで迫っていることだそうだ。湧き水は庭園づくりにも好都合だから。これらの条件を備えた、しかも広大な敷地を明治維新以降、山縣有朋、大隈重信、鳩山一郎、田中角栄などが取得しては邸を構えていったという。
なぜ近衞は荻窪だったのか? ようやく宿題に取りかかれそうだ。
村田 くるみ(むらた・くるみ)
冬木建築工房代表、(一社)東京都建築士事務所協会杉並支部副支部長、編集専門委員会委員
大分県生まれ/お茶の水女子大学文教育学部卒業/家族の駐在に伴い、アメリカ、オーストラリア等で専業主婦の後、子育てを終えてから建築士
記事カテゴリー:その他の読み物
タグ:VOICE編集後記