都市の歴史と都市構造 第14回
メガ・シティ「東京」──スマート化①
河村 茂(都市建築研究会代表幹事、博士(工学))
 この連載では、ウルクに始まりシンガポールまで、時代ごとの都市形成の軌跡を描いてきた。すなわち、古代、都市は河川近くに立地し、運河や道路を築くと広場付近に倉庫を置き、市が開かれる。そして神殿や塔、宮殿が配されると集合住宅がこれを囲み、城壁が外界とを隔てた。その後、都市化が進むと、神殿を配した丘の麓には、広場を囲み評議場、裁判所、図書館など公共施設のほか、劇場や音楽堂、競技場、公衆浴場など娯楽文化施設も配され、海に臨み外港も築かれる。住宅は大都市では共同形態で高層化、防火・衛生面から建築規制(高さ、排水、消火など)も行われた。
 中世、大きな都市は堅固な城壁を築くと内部は秩序を重んじ形を整え、中小の都市は山地や沿岸部の地形をふまえ立地。城壁等に囲まれた市街の多くは迷路状に構成される。また、社会不安に対応、教会・寺院・モスクなどが街区単位に配されると、商業の隆盛をうけ隊商施設が建つ。近世、火器が導入されると城壁は機能を低下。航海術の進歩をうけ海洋交易が盛んとなり、大型の船が入れる港湾とともに、関連施設(造船所、倉庫、銀行・証券取引所、商会など)が整備される。
 近代は、五千年に及ぶ城壁都市から解放され、産業革命に伴い煙突が立つ工場が市街に建ち並び、住工混在の密集地が広がる。一方、新市街は機能性の発揮や管理・運営を重視、拡張しやすく土地の高度利用が図れるよう碁盤目状に整備され、鉄橋とトンネルで鉄道や高速道路が周囲を結ぶ。大都市には雇用・所得を求め人口が集中、消費市場を形成すると産業、諸機能の集積が進み市街はスプロール、都心部には超高層建築物が建ち並ぶ。
 そんな動きの中、東京は山地状の島国日本の真ん中に位置し、海に臨む起伏ある地形を基盤に、他の大都市圏同様、放射・環状形態の都市構造を築き、人口約3,700万人を擁し世界一のメガ・シティを形成する。この地は市街の治安もよくナイトライフも安心、鉄道の運行状況もよく暮らしは大変便利。提供される食べ物も多彩で美味しい、また身に着ける服や住まいも多種多様で選択の幅も広い。東京は、その規模だけでなく運営面でも世界最高水準の都市のひとつとなっている。そこで最後に、縄文後期(古代)、平安期(中世)、江戸後期(近世)に続き、社会の成熟段階にある平成・令和の近代日本から都市東京を取り上げ、その歴史と構造を紹介することにしたい。
都市「東京」の歴史
【江戸から明治へ】
 今日につながる東京の都市づくりが本格的に始まったのは、徳川の世となった江戸時代である。この農業社会下の都市づくりは、戦国の世を脱し平和・安定を確たるものとするため、まずは戦いの原資となる外様大名の財力を削ぐべく、お手伝い普請として諸大名を動員し進められた、統治拠点としての江戸の防衛都市建設である。この都市建設は、妻子江戸在府や参勤交代の制度、また鎖国政策等と相まって、17世紀半ばの寛永期までに実現する。この後、消費経済化が進み多くの人口が集積、木造建物の密集等により過密化が進む江戸は、防災面から危惧される。そうした折、明暦の大火が起こり(1657年)、都市江戸はその過半を焼失する。復興にあたっては、市街の過密化を防ぐべく、道路の拡幅や敷地内空地の確保など、オープンスペースの拡大に向け、「大江戸化」が図られる。この時あわせて江戸圏の河川網再編に絡め、新田開発と輸送体系の整備が図られると、全国的な海路網の整備と絡み経済が発展、流通経済都市としての江戸が成る。江戸後期、都市江戸には寄席や寺子屋など娯楽文化施設やまちなみ景観が整うとともに、花卉文化が隆盛、大名屋敷の庭園から町人地の路地・軒先に至るまで、四季折々の花で彩られる。そんな江戸の文化成熟期、押し寄せる欧米勢力に侵略の恐怖を感じ、近代化(中央集権化、富国強兵、殖産興業など)に向け、政権の転換が図られ明治維新が成る。
写真❶ 明治初期の銀座
出典:コロンビア大学「Ginza Bricktown and the Myth of Meiji Modernization」挿入写真
https://meijiat150dtr.arts.ubc.ca/essays/grunow/
図⑤ 市区改正設計
出典:コトバンク「都市計画」挿入図
https://kotobank.jp/word/都市計画-105108
図⑥ 明治期の鉄道網整備
出典:東京都都市整備局HP「東京の都市づくりのあゆみ、第1章01鉄道技術の導入」挿入図
https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/keikaku_chousa_singikai/pdf/tokyotoshizukuri/1_01.pdf
写真❷ 明治・大正期の市電の走る市街
出典:国立国会図書館「写真の中の明治・大正」挿入写真
https://www.ndl.go.jp/scenery/data/137/index.html
写真❸ 丸の内一丁倫敦
出典:三菱地所の歩みOVER 100 YEARS HISTORY挿入写真
https://www.mec.co.jp/marunouchi/history/
【近代都市へ市区改正】
 明治政府は、幕末に結んだ不平等条約の改正に向け、近代国家の首都として、その対面を繕う必要から、都市東京に対し幹線道路・鉄道・市街電車、それに上下水道・公園緑地・河川港湾の整備に加え、官庁街やビジネス街の建設、また建物不燃化などの課題に取り組む。
 東京では、この時期、毎年のように大火が発生、1872年に日本初の鉄道が開通する直前にも、東京の表玄関・新橋(汐留)駅前の銀座で大火が起こり、これを機に銀座を近代都市東京の顔として整備するべく、焼跡等の用地買収を進め、道路を拡幅(歩車分離、街灯・街路樹の設置)、宅地に煉瓦街を建設(1877年、写真❶)する。また、1873年には浅草・上野など5カ所に公園を誕生させる。さらに、東京防火令として「防火線路並びに屋上制限規則」を定め、都心三区の主な道路・運河沿いに防火路線(22本)を指定、建物の煉瓦造・土蔵・石造化とともに、都心四区内の家屋屋根の不燃化を企図するが、新政府は、まずは社会統治の方が重要とし、廃藩置県(1871年)をふまえ中央官庁の建設を優先する。
 そして明治も半ばを迎え、治安が整い社会も安定をみると、政府は江戸の都市基盤を活用し、東京の近代化に向け計画的な都市改造に入る。江戸市街を引き継いだ東京は、道路幅が狭く近代的な上下水道など都市基盤の整備も遅れていた。そこで1888年(明治21年)、内務省は東京市区の営業、衛生、防火及び通運等の永久の利便を図るため、東京市区改正条例(勅令第62号)を公布する。これ以前も銀座煉瓦街計画や中央官庁集中計画はあったが、都市全体から構想された計画は、市区改正設計(上水道、市街電車&道路整備、日比谷公園、新橋–上野間の高架鉄道と東京駅建設など、図⑤)が初めてで、これにより東京の都市改造がようやく動き出し、明治から大正期にかけ事業が進む。
 幕府が滅んだ頃、江戸は100万人ほど人口を擁していたが、東京と名を変えると武士は地方へと戻り、50万人ほどに落ちていた。そこでスカスカとなった市街に、市区改正で外科手術を施し、近代都市にふさわしく道路や鉄道(図⑥)・軌道(写真❷)また上水道や公園等の都市基盤を整えるとともに、ビジネス街「一丁倫敦」の建設(1894年完成、1968年解体。写真❸)や、建物不燃化など建築規制を行うことになった。しかし、土木施策は財政難でなかなか進まず、外債の発行により、ようやく鉄道整備(明治末には、赤羽–品川間の山手バイパス線も電化、大正期に入ると都心部を貫通し環状線化)や道路の拡幅整備等が動き出すが、防火や公衆衛生関連の建築施策は後回しとなる。
 また、新政府は殖産興業政策をとり、銀行のほか、紡績・製糸また煉瓦や製鉄などの官営工場を建て、近代工業化を急ぐ。そうして市街に工場等が建っていくと、地方から雇用・所得を求め人口が集中、市区改正で拡幅なった幹線道路に、乗合馬車や馬車鉄道(1882年)に代わり路面電車が走ると、過密居住の都心等から職住が分離、千駄ヶ谷、渋谷、大崎等の山手線沿線辺りまで住宅地が広がる。これに伴い周辺市街にも商店が立地していく。こうして東京は、明治末には、江戸の最盛期の人口を回復、都心部では人口減少の傾向も見られるようになる。
図⑦ 路面電車の整備進展状況
出典:東京都都市整備局HP「東京の都市づくりのあゆみ、第1章02馬車鉄道から路面電車へ」挿入図
https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/keikaku_chousa_singikai/pdf/tokyotoshizukuri/1_02.pdf
図⑨ 用途地域図(1925)
出典:東京都都市整備局HP「東京の都市づくりのあゆみ、第2章01都市計画制度の確立」挿入図
https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/keikaku_chousa_singikai/pdf/tokyotoshizukuri/2_01.pdf
図⑧ 明治後期~昭和初期の市街化状況(産業興隆期、東京市の膨脹(左) 経済隆盛期、大東京市の形成(右)) 著者作成
写真❹ 計画開発された田園調布
出典:nomu.com「街から」挿入写真(東急提供)
https://www.nomu.com/machikara/1429/
【経済隆盛、市街拡大】
 明治期の後半、戦争特需によりもたらされた産業革命により、日露戦争(1904~05年)前後に重工業が興る。そして大正期に入ると、第一次世界大戦(1914~18年)により落ち込んだ世界の工業生産力を代替するように、東京市街の北部と南部に重工業の立地が進み産業構造が転換、経済は隆盛をみる。京浜工業地帯も大正期の埋立造成により、昭和初期には形成される。しかし、公衆衛生や医療の状況が十分でなかったため、新生児・乳幼児の死亡率は高く、人口構造は基礎構造が脆弱なため、安定したピラミッド型とはならず、地方から都市への人口移動はあっても、将来的に国内経済の拡大発展を図るためには、まだパワー不足の状況にあった。
 しかし、東京市街は路面電車の整備進展(図⑦)とともに、旧江戸の朱線を超え、都市基盤が未整備なまま、近郊集落にまで広がっていった(図⑧)。ここにおいて市区改正的な計画・事業手法では、勢いを増した市街拡大の圧力に対応できず、都市活動面で支障を来すということで、この市街拡張の動きをコントロールするべく、建築活動の動きと整合を図り計画的に道路・公園等の都市施設整備を進めるため、法制度として用途地域規制などの、都市計画制度が確立される。すなわち、1919年、都市計画法と市街地建築物法が制定され、用途規制(工場危害を抑制)と密度(建ぺい率+高さ)規制が仕組まれる。東京では1922年に都市計画区域、1925年に用途地域(図⑨)を指定する。この頃の建築規制においては、市街の整備とともに防火や公衆衛生(伝染病への対応)の確保に重点が置かれた。
 こうして東京の都市づくりは、「市区改正設計に基づく都市施設整備のための事業執行」から、都市施設整備と建築規制との整合による均衡の取れた市街の整備に向け、「都市計画に基づく計画規制」へと移行する。この新法の制定に伴い土地区画整理事業が位置付けられるが、田園調布(写真❹)の住宅地整備(1918-1923年)は、これ以前のもので(分譲は1923年に開始)、田園都市株式会社が、英国に倣い計画開発したものである。
写真❺ 明治神宮の杜(現在)
出典:日本の神社・寺院検索サイト「八百万の神」挿入写真
https://yaokami.jp/1130483/photo/x2BQ9Cd7/
【神宮の杜の創出】
 近代日本をリードした明治天皇が崩御されると、まだ軌道に乗ったばかりの近代日本の経営を安定させるべく、明治天皇を近代日本の祖「神」として祀り、今後とも諸勢力を抑え国家経営を万全ならしめるとともに、その遺徳を多くの民が偲べるよう、内苑(70ha)と外苑(28.4ha)とに分け神宮が造営される。内苑(1915–20年整備)は、従前、畑地、草地、沼地であったが、造園家は植物遷移の動きに留意し、将来目標イメージを描き造林計画をまとめる。すなわち、初め赤松・黒松の間に針葉樹を配し、その檜・杉が育って徐々に樹林を支配、その後に樫・椎・楠など広葉樹が育ち針葉樹と混生、最後に広葉樹が林を支配する、という四つの段階を辿り、150年後に天然林相に到達するよう計画した。植栽樹木は全国からの献木が8割を占めた。一方、外苑(1921–1926年)は、全国からの献木と寄付金また全国の青年団団員の勤労奉仕(10万人、延べ100万人)により造営され、1926年に竣工する。こうして整備された明治神宮の杜(写真❺)は、隣接する新宿御苑(58.3ha)や赤坂御用地(50.9ha)など、江戸の大名屋敷跡をベースとする緑とともに、現在、東京都心部の緑の核として都市の骨格を形成している。
図⑩ 関東大震災焼失区域
出典:内閣府「防災情報のページ」挿入図
https://www.bousai.go.jp/kohou/kouhoubousai/h21/05/past.html
写真❻ 同潤会青山アパート1926
出典:日本の旅「同潤会青山アパート」挿入図
https://www.uraken.net/rail/travel-urabe31.html
図⑪ 郊外電車の開設状況
出典:東京都都市整備局HP「東京の都市づくりのあゆみ、第2章04私鉄の発達と郊外開発」挿入図
https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/keikaku_chousa_singikai/pdf/tokyotoshizukuri/2_04.pdf
写真❼ 東京臨海部の工場群
出典:江東区「早わかりKOTO CITY」挿入写真
https://www.city.koto.lg.jp/skoto/kotocity/sement.html
【関東大震災と震災復興】
 1923年9月1日、M7.9の大地震が発生、東京・横浜等は未曾有の被害をうける。この関東大震災により東京は、世帯の73.4%が罹災、市域の44%、3,465haが消失(図⑩)、死者等は10万人を数える。そこで国は帝都復興院を設置し特別都市計画法を制定、震災復興計画(道路、区画整理等)に基づいて、都心・下町の約3,600haを対象に、土地区画整理事業等を実施する。この復興事業は、予算の削減や反対運動などがあったが、1930年まで7年の事業期間で、昭和通り、八重洲通りなど幹線街路52路線、延長114kmを整備、施行区域内の道路率は14→26%となる。これにあわせ橋梁(鉄橋化)は424橋、運河は新設・改修で12、公園(隅田、錦糸、浜町など大公園のほか、小学校に隣接し52の小公園を整備)は55カ所42haが整備される。この時期の1924年に乗合自動車(バス)の運行が始まり、1927年には上野–浅草間に日本初の地下鉄も開通する。
 このほか1924年に市街地建築物法施行規則が改正され、強度計算に新たに地震力が規定され、水平震度は0.1以上と設定される。住宅も同潤会アパート(写真❻)などで、不燃構造の建物が建設されていく。この時期、建築基準の全国統一化に向け、市街地建築物法は1931年に施行令等を改正、これまで各地方毎に実施されてきた建築取締規則が廃止される。これにより全国に広く事業を展開する者は、仕事が大変やりやすくなる。
 東京では、大正期の震災前後から昭和にかけ、山手線ターミナル駅から相当な勢いで私鉄建設が動き出す(図⑪)。これは大震災後、地主が井荻や玉川等で土地区画整理等の手法を用い、住宅地開発を進めたことも関係し、郊外人口の増加により都市は大都市化(1932年代東京35区が成立)していく。同じ頃、臨海部に工場の建設(写真❼)も進み、東京から横浜・川崎にかけ京浜工業地帯が形成される。1931年には羽田飛行場も開港する。
 なお、この時期の都市づくりで、忘れてならないのは水害対策である。明治から昭和初期にかけ江東地区は、4年に一度ほど洪水被害に遭っていた。そこで明治末の1910年から昭和期の1930年にかけ、荒川放水路の整備が行われる。この水路完成により江東デルタ地帯は、水門と堤防に守られ、ようやく水害から解放される。
 また、これとともに戦前の都市計画として特筆すべきものとして、グリーンベルト構想の下に東京緑地計画(1939年)が策定され、これが時の防空計画に位置づけられることで、その成果として今日、区部に残る大公園(砧、舎人、水元、小金井)や、河川沿いの緑道(神田上水沿い緑道など)の多くが生み出される。
写真❽ 大空襲・江東地区
出典:ウイキペディア「東京大空襲」挿入写真
https://ja.wikipedia.org/wiki/東京大空襲
図⑫ 戦災による都区部の焼失区域
出典:不二草紙「東京大空襲から76年」挿入図
http://fuji-san.txt-nifty.com/osusume/2021/03/post-ccd9a8.html
写真❾ 東京タワー1958
出典:JIJI.COM「今日は何の日?」挿入写真
https://www.jiji.com/jc/daily?d=1223
【第二次大戦と戦災復興】
 1945年、東京は連日のように空襲に遭い(写真❽)、焼失家屋は71万棟(区部家屋の1/2)に上る。終戦により戦災復興院が発足、その翌年には特別都市計画法が制定される。これをうけ東京都が策定した戦災復興計画(1946年)は、後の首都圏計画を彷彿させるものがある。しかし、その内容が余りに理想的であったことから、緑地地域(区部の34%)の指定はできたものの、財政難もあり多くが計画倒れとなり、区部の1/4に及ぶ焼失区域16,230ha(図⑫)のうち、実施された土地区画整理事業は、新宿や池袋など山手線駅前の広場整備を中心に1,274ha(計画2万ha)であった。
 しかし、大正期に始まった水道水の塩素殺菌が功を奏し、乳幼児死亡率は劇的に改善、戦後のベビーブームを経ると、人口構造は典型的なピラミッド型を形成、将来の労働力人口を涵養、経済発展に向けその基礎を整える。その後、朝鮮戦争(1950年)を契機に、傾斜生産方式での経済政策が軌道に乗り、基幹産業や開発効果の大きい地域から、順次、財政・金融資金等が流れていく。そして東京タワー(写真❾)が建設される頃(1957~1958年)、日本は成長過程に足を踏み入れる。その後は、1960年の所得倍増計画・全国総合開発計画をガイドラインに、太平洋沿岸ベルト地帯構想(1962年)の下、大都市に集中しがちな投資を、太平洋沿岸地帯にも誘導するべく、護送船団方式で行財政運営がなされると、成長が成長を呼ぶ高度経済成長過程へと入っていく。
図⑬ 昭和期後半の市街化の状況(高度成長前期、都市圏の形成(左)と高度成長後期、大都市圏の形成(右))著者作成
図⑭ 第2次首都圏基本計画
出典:東京都都市整備局HP「東京の都市づくりのあゆみ、第3章01 都市圏の拡大と首都圏の形成」挿入図
https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/keikaku_chousa_singikai/pdf/tokyotoshizukuri/3_01.pdf
図⑮ 東京オリンピック1964
出典:日吉通信「東京オリンピック」挿入図
http://m-shidara.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/index.html
写真❿ 首都高速道路
出典:日本の自動車の歴史「日本橋」挿入写真
http://www.automobiles-japonaises.com/HistoireAJ/Nihonbashi/Nihonbashi.php
図⑯ 東京の地下鉄網整備の進展状況
出典:東京都都市整備局HP「東京の都市づくりのあゆみ、第3章04車社会の到来と地下鉄への移行」挿入図
https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/keikaku_chousa_singikai/pdf/tokyotoshizukuri/3_04.pdf
【大都市圏の整備】
 この時期、人口・産業の都市集中、市街のスプロール化が急激に進み、道路交通渋滞や都市公害、通勤混雑などが、社会問題化していく。都市東京は行政区域を越え急激に拡大、周辺の中小都市を飲み込み都市圏を形成(図⑬)、さらに、この動きが拡大し首都圏(1都7圏100km圏)という巨大都市圏(グレーター東京)を形成していく。そして1958年、首都圏基本計画(既成市街地、近郊地帯、周辺地域に区分。図⑭)をうけ、工業等制限法が制定(1959年)され、既成市街において工業・大学等の立地が抑制される(2002年廃止)。その後、工場立地は、地価高騰や水不足、また道路交通の渋滞や大気汚染・騒音・水質汚濁等の公害規制(1969年、各種公害規制を統合し公害防止条例制定)強化の動きをふまえ、臨海部埋立地や周辺都市等へ移っていく。また、都心への業務機能の過度な集中を抑制するため、都市構造の多心型への改編(再開発で拠点整備)に向け、高速鉄道や高速道路の結節点・ランプ近くに、副都心や流通業務地区を整備、一方、都心は中枢業務管理機能(事務所)へと純化する。しかし、近郊地帯における無秩序な市街化の抑制を目的とした、グリーンベルト(既成市街周辺近郊地帯に幅10km)の設定は地元の反対により失敗する。
 この頃、都市交通が麻痺する状況を迎えており、これから急ぎ脱出するため、1964年の東京オリンピック開催(図⑮)を契機に、道路容量増大に向け国道246号、放射7号、環状3号・4号・7号など22路線、延長54.6kmが整備される。この他、高速道路(71km)が都市計画決定(1959年)されると、その整備は緊急性に鑑み広幅員の道路の上空や堀割・運河を活用、高架の工作物として構築される(写真❿)。これにあわせ幹線道路の機能の発揮と、旅客の迅速で大量な輸送に向け、路面電車の地下鉄化(道路と鉄軌道の立体化)が図られる。地下鉄線は、戦前の銀座線(1927年)に続き、戦後は丸ノ内線(1954年)、浅草線(1960年)、日比谷線(1961年)、東西線(1964年)、三田線(1968年)、千代田線(1969年)、有楽町線(1974年)、半蔵門線(1978年)、新宿線(1978年)が順次整備されていく(図⑯)。このほか鉄道在来線の線増(複々線化)、連続立体化また私鉄と地下鉄などとの相互直通運転も図られる。公園緑地も計画改定がなされ445カ所と、現在計画の基をなす。
写真⓫ 超高層霞が関ビル
出典:ITmediaビジネス「50年たっても、なぜ霞が関ビルは存在しているのか」挿入写真
https://www.itmedia.co.jp/business/articles/1804/25/news014.html
写真⓬ 高さ31m制限の丸の内(1960年)
出典:TURACO、旅と日常を綴る「丸の内を振返る」挿入写真
http://turaco.blog.jp//archives/52977635.html
図⑰ 多心型都市構造イメージ
出典:建設省・大都市再開発問題懇談会第一次中間報告「東京の再開発に関する基本構想」1963年
【都市空間の再編・立体化】
 1960年代後半は、1964東京オリンピックをバネに、日本経済の発展が最盛期を迎える。この時期、日本経済は物的豊かさを享受するべく、大量生産大量消費をスローガンに、テレビ、冷蔵庫、洗濯機等の工業製品の規格化、設計の標準化が進む。都市も、駅前広場を含め碁盤の目状に区画され、市街の住居表示も旧町名が廃され、東、西、南、北;1、2、3、4と機械的な表示に変わる。
 また、モータリゼーション化の動きに対応、道路への駐車に伴う交通渋滞、大気汚染などの公害の抑制に向け、建築敷地内に広場・緑地また駐車・荷捌きスペースを整備するべく、都市空間の有効利用に向け、特定街区制度が創設され、大規模な敷地での高層ビル開発(霞が関ビルは1968年。写真⓫)が促進されたり、絶対高さ制限(住居地域20mその他区域31m。写真⓬)に代えて、容積率規制が(都心と新宿副都心が1,000%)導入される。このほか多心型都市構造(図⑰)形成に向け、放射環状方向に道路・鉄道網が強化、また副都心(1960年都市計画決定の新宿副都心は基盤整備を終え1971年京王プラザホテルが完成する)や流通業務市街地の整備が進む。さらに、用途地域の専用地域化により都市機能の分散と建築用途の純化を進めることで、都市活動の効率性の発揮と居住環境の維持保全が図られる。
 東京は都市活動の拡大に伴い、給水能力の向上をめざし、郊外の村山(1927年)、山口の両貯水池(1936年)に加え、奥多摩の山間部に小河内ダム(1957年)を建設するなど、水源の整備が進められる。しかし、大都市圏化の動きを受け1964年東京オリンピックの頃、大規模な水飢饉が発生する。すなわち、この時期、水源に思いの外、雨が降らず給水量が激減、建設大臣から「東京に都政なし」、とまでいわれる事態を迎えてしまう。その後、北関東各地の山間部に水源を求め、関係県の理解と協力を得て、ダム建設が進められる。一方、都市部では江戸のリサイクル文化を甦らせ、大規模なビル建設や市街地再開発事業などにおいて、一定の水質を確保した上で、雑用水の再生利用等が進められ、ビル用水の節約が図られる。一方、遅れていた下水道の整備は、1964年に山手線内側の整備をほぼ終え(区部普及率26%)、環状6~7号線にかけての住宅地(木造密集地区が多い)に展開していく。この下水道整備にあわせ、生活道路のアスファルト舗装も進められ、道路上からゴミ箱やバキュームカーが姿を消していく。しかし、区部の下水道普及率100%の実現は、1994年を待たねばならなかった。
写真⓭木造密集住宅地
出典:木造住宅地を再考する「墨田区京島」挿入図
https://db.10plus1.jp/backnumber/article/articleid/1063/
写真⓮ 中高層マンション1965
出典:青山売買.com 「コープオリンピア」
https://www.aoyama-baibai.com/detail/175/
写真⓯ 多摩ニュータウン
出典:UR都市機構「多摩ニュータウン」挿入写真
https://www.ur-net.go.jp/overseas/achievements/tama.html
写真⓰ 新宿駅通勤ラッシュ(1960-70年代)
出典:DNA「懐かしの国鉄時代」挿入写真
https://dailynewsagency.com/2013/08/29/insane-photos-of-tokyo-commuters-9en/
写真⓱ 交通渋滞(1970年代)
出典:日本自動車会議所「あゆみ」挿入写真
https://www.aba-j.or.jp/outline/successive/
写真⓲ 東京のスモッグ1971
出典:環境白書昭和57年挿入写真
https://www.env.go.jp/policy/hakusyo/zu/eav11/eav110000000000.html#2_2
図⑱ 江東再開発基本構想
出典:東京都都市整備局HP「東京の都市づくりのあゆみ第3章11都市災害への備え」挿入図
https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/keikaku_chousa_singikai/pdf/tokyotoshizukuri/3_11.pdf
写真⓳ 防災拠点・白鬚東地区
出典:東京都都市整備局
https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/dainiseibi/tikubetu/shahige_higashi/index.html
写真⓴ 延焼遮断帯の形成
出典:ウイキペディア「東京都道317号環状6号線」挿入写真
https://ja.wikipedia.org/wiki/東京都道317号環状六号線
図⑲ 都区部土地利用現況図(2016)
出典:東京都都市整備局HP「計画」挿入図
https://www.toshiseibi.metro.tokyo.lg.jp/seisaku/tochi_c/pdf/tochi_kekka/tochi_kekka_r3_6.pdf
【都市環境の整備】
 この時期、東京圏(南関東一都三県)は、人口(1955–65年で500万人、1965-75年で600万人増加)・産業・諸機能の、急激で大規模な集中を受け地価が高騰、既成市街ではミニ開発による木造住宅密集地(写真⓭)や中高層マンション(写真⓮)の建設が進み、防災面や日照・採光の確保など環境面で問題が発生する。一方、郊外部では、都市基盤整備の動きを上回るスピードで、市街化が無秩序に進展していく。そこで都市基盤整備とセットでの住宅供給をめざし、多摩(1971年入居開始。写真⓯)や港北、千葉などでニュータウン開発が進展する。しかし、都市構造再編に向けた、交通施設整備の遅れもあり、都心部の鉄道混雑は極限化(写真⓰)、道路交通の渋滞も激しく(写真⓱)、人びとは大気汚染や騒音など公害状況(写真⓲)の下で、遠距離での通勤や狭い木賃アパート等での居住を強いられる。
 そうした状況をふまえ、宅地造成の段階から市街化を制御するため、新都市計画法が制定され(1968年)、市街化区域・市街化調整区域の区分と開発許可の制度が確立する。また、住宅地の日照等の確保を目指し、住居専用地域での北側斜線制限の導入(1970年)と、これを強化する高度地区の活用、さらに日影規制(1977年)の導入も図られる。これに既存宅地におけるミニ開発の抑制と、良好な環境形成に向けきめ細かく建築行為等を制御する、地区計画等(1980年)の仕組みも創設される。
 一方、市街の平面的な拡大を抑制するべく、中心市街等の土地の高度利用を進めるため、都市再開発法(1969年)が制定され、市街地再開発事業が施行される。東京は当初、駅前や防災拠点など、公共性の高い地区で事業化が進んだが、バブル経済前後の頃から、都市計画の決定件数が増加、赤坂・六本木や大崎などの、密集地や大規模土地利用転換(機能更新)地区などでも、実施されるようになる。
 1960年代後半~1980年代にかけての四半世紀、東京などに、オーストラリア、オランダ、ベルギーなど、先進国一国並みの人口・産業規模を有する巨大都市圏が出現するなど、わが国は工業国として、経済成長のピークを迎える。この物的豊かさの中、若者は「戦争を知らない子どもたち」を歌い、大学紛争等に青春を謳歌する。また、大人たちも大阪万博を楽しみ、近代化の進展により失われゆく古い日本を探しに、「ディスカバー・ジャパン」の旅に出る。この時期、古都保存法(1966年)、伝統的建造物群保存地区(1975年)の制度が整う。
 また、1969年の江東再開発基本構想(図⑱)に基づき、6カ所で避難広場や避難路など防災拠点(写真⓳)の整備が進められる。これに続き都区部で「地震、地域危険度調査(1975年)」が行われ、都市災害に備え避難広場、避難道路の指定や、その沿道建築物の不燃化等の施策が進められる。具体には、幹線道路などの沿道に最低限度高度地区と防火地域を指定、市街の防火区画化に向け道路と不燃建築物により延焼遮断帯の形成(写真⓴)が図られる。また延焼遮断帯により区画された内部では狭隘道路の拡幅、建築物の不燃化や、広場の整備などで防災生活圏の形成が目指される。その後、阪神淡路大震災を経て大規模地震対策として、幹線道路など緊急輸送道路沿道建築物の耐震化や、木造密集地域を対象とした重点的な建築物の不燃・耐震化を促進することで、防災都市づくりが強化されていく。
 2度のオイルショック(1973年、1979年)を経た、この頃の人口構成をみると、ピラミッド型が崩れ釣り鐘型へと向かい安定感も弱まり、将来の経済発展に影を落とす。その後、日本経済は低成長へと移行する。こうした時期の1981年、都市の巨大化・複雑化に対応し、東京都は土地利用現況調査を実施する。そこでは建物の用途に加え構造や階数、また田畑等の農地、山林・原野も含め全数を悉皆調査、その成果は地図情報(図⑲)としてだけでなく、数値情報としても整理される。これまでの都市づくりは、この道十年という職人的行政マンの、経験と勘に負う部分が大きかったが、調査データー等の整備により、科学的で戦略的な行政計画の策定と、これに基づく効果的に施策展開できるようになる。
写真㉑ 臨海部大川端での住宅地整備
出典:株式会社UG都市建築、大川端リバーシティ21プロジェクト
https://www.ugtk.co.jp/projects/okawabata-river-city-21/
写真㉒ 新宿副都心
出典:西新宿5丁目北地区防災街区整備事業挿入写真
http://building-pc.cocolog-nifty.com/helicopter/2019/09/post-41326a.html
写真㉓ 赤坂・六本木再開発
出典:森ビル主なプロジェクト「アークヒルズ」挿入写真
https://www.mori.co.jp/en/projects/
写真㉔ 恵比寿ガーデンプレイス
出典:久米設計「恵比寿ガーデンプレイス」挿入写真
https://www.kumesekkei.co.jp/project/0144.html
写真㉕ 代官山ヒルサイドテラス
出典:ファイル:Hillside Terrace A B 2010.jpg - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Hillside_Terrace_A_B_2010.jpg
写真㉖ 東京国際空港・羽田
出典:Yakei.jp「羽田空港国際線展望デッキ」挿入写真
https://yakei.jp/japan/spot.php?i=haneda_international
【拠点開発と都心居住】
 経済はオイルショック(1973、1979年)で、低成長へと移行するが、その後、プラザ合意を契機に、貿易黒字を削減するため金融緩和策がとられ、内需拡大を促したことから、1980年代後半にバブル経済が発生、最盛期にはジャパン・アズNo.1とまでいわれる。しかし、地価高騰、住宅取得の困難化、交通混雑など都市問題が激化する。このバブルが数年ではじけると、日本経済に史上最長の不況(失われた20年そして30年)がもたらされる。これまで右肩上がりで上昇を続けてきた地価も、1991年をピークに下がり続け土地神話は崩壊。再開発等のために地上げされた土地も、塩漬け状態となる。
 そして1995年頃、人口構造も基礎部分がもろい壺型へと移行、人口構造の膨らみは50歳代以上へとシフト、25~50歳の層に大きなくぼみが生じ、将来に課題を残す。この時期、都心部では業務地化が進み人口が減少、都心居住が政策課題となる。そこで都心区の自治体は緊急措置として、大規模なオフィスビルの建設などを対象に、住宅の付置を指導、そのインセンティブとして、総合設計制度等を活用して住宅整備に容積割増を行い、事業者の協力を求める。この動きが東京都心7区と大阪市に広がり、社会的な支持を得ると、国も誘導措置として、用途別容積型地区計画(1990年)や機能更新型高度利用地区(1990年)、都心居住型総合設計(1996年)、また強制力をもった規制措置として、中高層階住居専用地区(1997年)の導入など、法制度面から支援する。そして臨海部の工場跡地などでも、大規模な住宅供給が図られる(写真㉑)。一方、事業者側も土地神話が崩れ、下落した地価の下で、不動産開発を採算ベースに乗せようと、住宅容積の割増を得るべく、ミクストユース型での再開発やビル建設に取り組む。こうして21世紀に入ると、徐々に人口の都心回帰が進む。
 この間、1960年代から取り組まれてきた、新宿副都心の建設(淀橋浄水場跡地約34haを中心に、区域約96haを計画整備。写真㉒)が、バブル経済が崩壊した1991年、丸の内からの都庁移転により完成をみる。この超高層ビル群の雄姿は、明治・大正の人びとがヨーロッパに憧れ、その熱い思いが戦後はアメリカへと変わったが、ここに来てようやくその憧れのアメリカに追いついた、ついにアメリカを手に入れた、という気持ちに人びとをさせた。また、赤坂・六本木(写真㉓)や恵比寿(写真㉔)、代官山(写真㉕)などの開発整備において、用途地域の変更や用途許可、高度利用地区、一団地認定や総合設計許可また市街地再開発事業や地区計画等の手法を活用し、時代をリードする魅力的なまちづくりが進む。
 また、この時期、第三セクター方式で、大江戸線(1991–2000年)、ゆりかもめ(1995年)、りんかい線(1996年)、つくばエクスプレス(2005年)などの、鉄道整備も進む。羽田空港は、航空需要の拡大を踏まえ、首都圏空港の能力アップを目的に、まず1978年に成田空港を開港させ、ここに国際線を移行させると、これに続いて1984~2013年にかけ、騒音対策と運行処理能力の向上をめざし、空港の沖合展開事業(1980~2013年)を実施。その後、空港能力拡大がなった羽田には、国際競争力の強化に向け、国際線の一部が復帰する(写真㉖)。また、2020年東京オリンピックを契機に、飛行コースなど空港の離発着方式の運用を見直し、発着回数の増大が図られる。
Column
日本の狩猟採取&農業社会
 日本の地は、今から15000年ほど前、氷河期が終わり縄文時代に入ると温暖化が進む。この時期、海面は現在より80mほど低かった。わが国は、温帯モンスーン気候に属す島国で「森林国」、山地状の地形を有し、春と夏の間に梅雨という独特の季節があり、また夏から秋には台風が来襲、さらに冬は日本海側や列島北部を中心に雪となり、季節をずらし流水に恵まれることから、年間降水量は豊富である。こうして適度な温湿度条件に恵まれ、動植物はよく育ち食糧資源は多彩である。そこで縄文時代の人びとは、野山では木の実や豆、椎茸などを採取し、猪や鹿を狩猟、また河川や沿海部では魚や貝類を採取するなどして、植物性や動物性の栄養源を確保した。また、海流の流れが速いことから、大陸からの侵入者や移民も少なく、日本は長いこと食糧や資源・エネルギー(森林伐採による薪)が大きく不足することはなかった。そうしたことから狩猟採取の縄文時代(BC14,000年頃~BC5–3C)から、農耕牧畜の弥生時代(BC5–3C~AD3C)への変化は、大陸に比べ遅れた。
 縄文時代(土器、弓矢、竪穴住居、環状集落)は、日本列島が温暖な時期で、現在より気温は2°Cほど高く、湿潤で、BC4500頃の縄文海進により、海面は現在より4mほど高かった。人口のピークはBC3000–2000年に20-30万人ほど、人口密度は東日本の高い所で200-300人/100km2であった。BC2200年頃、寒冷化に伴い、大陸から移民が渡ってくる。BC11世紀末に再び寒冷化し、大陸では玉突き的に人びとが移動、日本には移民とともに水稲栽培が伝来する。BC5世紀頃、日本でも気温が徐々に低下、山では木の実などの生育が悪くなり、人間だけでなく野生動物も食糧に困る。こうして縄文から弥生にかけ寒暖を繰り返しながら、寒冷化が進み海が後退。広がる沿岸部(海岸砂丘、低湿地、河岸段丘など)などで、弥生時代の半ば九州から東北にかけ、順次、農耕(米、そば、麦、豆、まくわ瓜など)が普及。人口は60万人ほどとなる。しかし、平坦な土地の少ない日本では、農耕だけで食糧を得ることはできず、狩猟採取と組み合わせ生命をつないでいく。縄文時代に形成された小さな集落は、大陸からの移民の流入とともに争いが増え、弥生時代には環濠集落を形成、防御に向け協働化や階層分化が進む。
 ユーラシア大陸の東の辺境。太平洋に飛び出す形で弧を描く日本列島(図①)。この地には、北方や南方などから人びとが渡ってきて「縄文人」を形成、その後に寒冷化に伴い大陸から移民が入り、民族が融合する形で「弥生人」が形成された。DNA的にみると弥生時代には既に複数の民族が存在、その刻印は今日へと緩やかにつながり、顔立ちなどに身体的特徴となって現れる。すなわち、四角顔はチュルク系で新羅経由、うりざね(面長)顔の胴長タイプは揚子江下流域越人系で中国南部・ベトナム経由、丸顔で背が高くないタイプは中国東北部ツングース系で百済経由、彫りが深く頬骨が張る縄文人タイプは南と北からの渡来人といわれる。現在では、さまざまに交わり融合しており、断片的な特徴くらいしか捉えることができない。
 わが国は、この後、寒冷化にみまわれ、古墳時代に入る。各地の環濠集落はその規模を拡大、次第に地域統合も進みクニを形成するようになる。この時代になると、争いは水利から土地をめぐる紛争へと拡大、その調停者、地域の統治者として、集落の首長に代わりクニの王が出てくる。その勢力の大きさは、古墳の規模となり現出する。この時代、気候変動寒冷化に見舞われ(図②)飢饉が発生すると、各地の王は地域紛争を経て大王へと政治統合が進む。大陸(朝鮮半島絡み)との戦いもあって、国の統治力を高める必要からわが国は律令制度を整えるべく、701年大宝律令を制定する。また、社会不安に対応し渡来人を介し仏教が伝来する。これ以降、わが国は民族的にも安定、国名として「日本」を名乗る。この時代、官僚らは法令に基づき役割を分担、ルールに基づいて行動するようになる。そうした中、土地制度が公地公民制、班田収受法(農民に口分田を支給)、三世一身法(開田者には三代に渡り所有認める)、墾田永年私財法(開墾者の身分による墾田面積の制限)と整っていき、律令国家が完成。統治者(天皇、摂関家)は次第に王朝化していく。この時代後半から350年間ほどは、徐々に温暖化が進んだ関係で、牛(西日本)や馬(東日本)を用いた農耕が始まり、農耕地は広がりをみせ、人口は540万人ほどに達する。
 奈良・平安時代は、中世温暖化の時期で(図②)平安初期に最高気温を記録、海岸線も現在より奥に食い込むが、安定した穏やかな気候が続き、貴族や大寺院、地方豪族は、土地を大規模に開墾、財政の基盤を荘園(私有地)に求める。そして農民が手放した口分田(国有地)を吸収、鉄を用いた農具の活用や、用水路の整備を図り、水車の利用を進めると二毛作へとつながる。人口は平均寿命が延びたこともあり、700万人ほどを記録する。この間、荘園への不輸不入(田租の免除、国家権力の不介入)が進展、地方の台頭に伴い律令体制は崩れ、土地はこれを実効支配する武士の下に分割されていく。
 鎌倉時代は、諸国に守護を、また荘園(名主、小百姓、下人で耕作)・公領に地頭を置いて、土地を管理した。しかし、この時代は平安後期から室町時代まで300年ほど続く寒冷化の時期で、多くの災害や飢饉に見舞われ、栄養が不足、人びとの身長(平安時代に比し2割ほど低い)や寿命(平安30→室町15歳)は前時代より縮むなど、過酷な状況にあった。しかも、元寇という国難に見舞われるなど、国家としての負担も大きかった。こうしたことから宗派活動が活溌化、庶民の間にも仏教が広がる。室町時代半ばは温暖化し安定したが、後期は寒冷化が進み洪水・大風の被害を受け荘園が衰退、飢饉が起り疫病も広がり人びとの間で抗争が激化する。こうして武家王権は四分五裂、戦国時代を招き平均寿命が縄文時代並みとなる(図③)。こうして中央の統治力が弱まると、地方や民の力が増し、地方大名による地域開発(水利、灌漑施設の整備で三毛作も実現)が進み惣村自治の芽も出る。
 戦国末から江戸時代前期は小氷河期(図②)で、政権を奪取した徳川家は、戦国の世から脱すべく、幕府機構や統治拠点都市江戸を整備し、武家諸法度・公家方御定書、妻子江戸在府・参勤交代、改易・転封、鎖国など各種制度を整え、人びとの行動に箍をはめ、幕藩体制・封建支配を確立。これら施策を適切に運用することで、平和な時代を構築する。さらに、治水事業にあわせ地域開発を進め、農業生産の拡大と物資流通の円滑化を図ると、江戸時代前半は人口が順次増加する。江戸時代は人口の75%が農民で、海外から寒さに強いサツマイモなど新食物が伝わり、消費経済が発展、人口の伸びが大きくなる。しかし、江戸も半ばを過ぎると、台風や地震、噴火が頻発。寒冷化(最低気温を記録)により飢饉が度々発生する。また、分地制限令(1673年)が出て、地方農村に長男等を残し、他の多くの子弟が都市へと送り出されると、都市の人口密度は上がり、元禄期に全国人口は縄文時代のピークの100倍を超え、3,000万人ほどになるが、感染症にかかり生命を落とすものも多く、その後は農業生産が伸びず晩婚化や独身化が進み出生率も低下、近代明治を迎えるまで3,000万人を少し超えたところで安定化する(図④)。
図① 逆さ日本地図(大陸から見た日本)
出典:Google Earth
図② 気候変動と日本の主な出来事
出典:水土の礎挿入図
https://suido-ishizue.jp/nihon/17/01.html
※図中、日本の主な出来事は著者加筆
図③ 日本人の時代別平均寿命の推移
出典:いろは出版「寿命図鑑2016」を参考に著者が作成
図④ 日本人口の長期的推移 出典:国土審議会政策部会長期展望委員会資料 2011.2.21
https://www.mlit.go.jp/policy/shingikai/content/001377610.pdf
[参考図書]
堀内亨一『都市計画と用途地域制』西田書店、1978年
川添登『東京の原風景』日本放送出版協会、1979年
内藤昌『江戸の町(上・下)』草思社、1982年
石田頼房『日本近代都市計画の百年』自治体研究社、1987年
鈴木理生『都市のジャーナリズム・江戸の都市計画』三省堂、1988年
東京都『東京の都市計画百年』東京都都市計画局、1989年
藤森照信『明治の東京計画』岩波書店、1990年
大河原春雄『都市発展に対応する建築法令』東洋書店、1991年
越沢明『東京の都市計画』岩波書店、1991年
新藤宗幸『行政指導』岩波書店、1992年
田村明『江戸・東京まちづくり物語』自治通信社、1992年
陣内秀信『東京の空間人類学』筑摩書房、1992年
山鹿誠次『江戸から東京そして今』大明堂、1993年
石川英輔『江戸空間 百万都市の原景』評論社、1993年
特別区職員研修所『特別区職員ハンドブック’94』ぎょうせい、1994年
岡本尭生『東京の都市交通』都市交通研究会、1994年
小木新造・陣内秀信『江戸・東京学への招待(2)都市誌編』日本放送出版協会、1995年
宮元健次『江戸の都市計画』講談社、1996年
竹内誠ほか『東京都の歴史』山川出版社、1997年
中村英夫『東京のインフラストラクチャー』技法堂出版、1997年
鈴木博之『日本の近代 10 都市へ』中央公論新社、1999年
依田和夫『都心改創の構図』鹿島出版会、1999年
河村茂『日本の首都 江戸・東京 都市づくり物語』都政出版社、1999年
東京人編集室『江戸・東京を造った人々1』筑摩書房、2003年
河村 茂(かわむら・しげる)
都市建築研究会代表幹事、博士(工学)
1949年東京都生まれ/1972年 日本大学理工学部建築学科卒業/都・区・都市公団(土地利用、再開発、開発企画、建築指導など)、東京芸術大学非常勤講師(建築社会制度)/現在、(一財)日本建築設備・昇降機センター常務理事など/単著『日本の首都江戸・東京 都市づくり物語』、『建築からのまちづくり』、共著『日本近代建築法制の100年』など