都市の歴史と都市構造 第12回
構造改革進む、中華の鼎・大都「北京」
河村 茂(都市建築研究会代表幹事、博士(工学))
図① 北京の位置
外務省「中華人民共和国」挿入図
https://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/index.html
 北京(16,800km2)は、元・明・清、そして中華人民共和国の首都(現在、国の直轄市)で、人口は約1,230万人、内2/3は都市民で1/3は農民工※である(都市圏人口は2,490万人。2018年現在)。この地は、北から西に山地が連なる、華北平原の北の端に位置し(図①)、気候は暖温帯半湿潤気候で、春と秋が短く夏と冬が長い。年平均気温は13°C(寒い1月は3.7°C、暑い7月は25.2°C)で、夏は比較的過ごしやすいが、冬はマイナス温度となる。今日、住居には暖房(「暖気」と呼ばれる、セントラルヒーティング)が施され、冬でも半袖で過ごせる。しかし、内陸型乾燥気候のため、加湿には留意する必要がある。
※農村に戸籍を持つ都市就労者、総人口の12%を占める。
図② 大都
ウィキメディア・コモンズ「大都」
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Dadu_Map.jpg
図③ 明代の北京
ウィキペディア「北京」挿入図
https://ja.wikipedia.org/wiki/北京市
写真❶ 中南海を望む
ACADEMY FOR NEW SINOLOGY「 CHINA HERITAGE」挿入写真
https://chinaheritage.net/journal/for-truly-great-men-look-to-this-age-alone/
都市の歴史
 北京の地は、春秋戦国時代(BC403年–BC221年)、燕の首都・薊と称した。この地は中国の北の辺境に近く、モンゴルと満州の間にあり、交易に便利な土地柄から、匈奴など遊牧民がたびたび侵入、土地の支配を巡り頻繁に争いが起こった。そうして各国が覇権を競う中、秦の力が伸び、中国が統一された秦・漢時代、薊は北平と称した。その後、この地は満州の開発が進み、高句麗(朝鮮)など周辺国が台頭してくると、戦略上重要な位置を占める。
 唐末の騒乱期、この地はモンゴルから南下した、遼朝(遊牧民キタイ)の支配下に入るが、これを女真族(満州族)の金が滅ぼし、その都として「中都(周囲4km四方)」が建設される。そして1206年、モンゴルの「チンギスハン」が、モンゴル諸族を統合。東欧、中東含めユーラシア大陸一帯に広がる、史上最大規模を誇るモンゴル帝国を樹立する。元(1279~1368)は、この大帝国のひとつで、チンギスハンの孫、フビライが内部抗争を経て建国、中国本土からモンゴル高原にかけ領有し、モンゴル(大元ウルス)帝国の盟主となる。
 フビライは1267年、金の中都に隣接するその北東部に(金の離宮が置かれた北海の覆華島を中心に)、8年かけ新しい都「大都(7.4km×6.65km)」を興し、カラコルムからそこに移ってくる。この地がそうしてモンゴル帝国の中心となったのは、モンゴル高原と中国との中間に位置し、帝国を統治するのに都合がよかったからである。しかし、田畑や人口が多いこの地は、遊牧民であるモンゴル人の目には、最初、不要なもののように映った。そこで重臣が王に、農業や商工業の大切さを説いて、ようやくこの地が都として存続することになる。
 大都の都城は、BC2~BC1世紀に確立された儒教の経典、周礼・考工記の王城モデルを適用、さらに風水思想にも基づき建設された計画都市である(図②)。すなわち、大都は、都の周囲に約28kmの城壁(土造)を構築すると、その市街を左右対称的に碁盤目状に構成(60坊)、その上で儒教の経典に則り、北極星に見立てた王座を北に置き、運河を開き城内に水を引き入れ飲料に供するとともに、これを京杭大運河につなげ水運にも利用した。この地には、金の時代を含めると、元・明・清と約800年間(この間、2度首都を外れる)、都が置かれる。この地が中国の首都となったのは1267年で、都市北京の基礎が築かれたのは、元の時代である。
 1368年、明王朝(1368~1644)が成立すると、明の首都は最初「南京」とされる。この時、大都は「北平」と改称され、都の座から下ろされるが、15世紀に入り三代永楽帝が即位すると、1406年に都城の改築工事に入る。これが1421年に完成すると、首都は北平に戻され「北京」とその名を変える。今日につながる都市北京の基盤を整備したのは、永楽帝である。
 永楽帝は、北側の城壁を南に2里ほどずらし都城を改築(5.35km×6.65km)、自らが暮らす宮城・紫禁城(現在の故宮)を核に、その周囲を聖域(皇族の住居)として囲むと、大祀の祭壇・太廟、社稷壇(国土安全五穀豊穣を願う場)を皇城内の左右に移す。また、城外の南側に大祀の祭壇・天壇(天命を受ける場)、先農壇(農耕儀礼の場)を造営、そして皇城の後ろ北側には、景山という小高い丘を築き、皇帝の背後を護った。そうして市街に格子状の道路を整備すると、鼓楼と鐘楼を都城の南北中心軸上に移し、国家の象徴性を強化した。
 その後、都の発展に伴い、内城から溢れ出る人びとを収容するのにあわせ、都城の防備を強化するため1564年に外城(7.95km×3.1km)を建設する。現在、北京の中心市街が、「呂」の字の形(図③)をしているのは、このためである。なお、内城には、城壁に護られ皇城が配置されるとともに、その内側には宮城(72ha)・城壁もとられるなど、皇帝の周囲は三重に城壁(煉瓦造)が巡る堅固な造りとなる。
 1644年、政権は満州族の清王朝に移行するが、都は引き続き北京とされた。こうして内城には満州人が住み、敷地規模は大きくとられ街路も整然としていた。一方、外城には漢族が住み、敷地は狭く道も曲がりくねり、人口密度も高かった。北京は、1959年の中華人民共和国建国10周年にあわせ、400年ぶりに大改造に入るが、ここまで都城は戦火などで大きく破壊されることもなく、その基本構造は20世紀半ばまで維持されてきた。
 さて、都城の佇まいであるが、北京では「前朝後寝」の原則に基づき、都城は中心軸上に配置され、前方の行政ゾーン(皇城)と後方の皇帝の居住ゾーン(宮城)とに分けられる。すなわち、宮城・紫禁城(現在の故宮)の両側は、皇后や皇太子妃の住まいとなり、宮城の後ろには庭園が配される。宮城内の主要な建築物群は,西側の園林や北海・中海・南海の水面(写真❶)と関係づけて配置された。皇帝の祭礼の場は、内城のほか外城や城外にも確保され、全体でひとつの祭祀空間を形成した。
 近世から近代に至るまで、内城市街は大都の碁盤目状の道路骨格を基本的に継承、住宅地は坊里制(碁盤目状左右対称)の下、胡同(細い路地)が東西方向に伸び生活道賂として機能、街路樹(エンジュ)が住宅中庭の樹木(ザクロなど)とともに、黒瓦の低層住宅地を緑で覆い、宮城建築物群の赤色のつくりを引き立て、近年、都市改造・再開発が実施されるまで、街全体が樹林地と見間違うほど、閑静な住環境を保ってきた。一方、外城市街は、元代以降の自然発生的な道賂を取り込んだ関係で、多くは無秩序で、南北中心軸を除き規則性を有していない。
写真❷ 天安門広場
ウィキメディア・コモンズ「天安門広場」
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Tian%27anmen_from_the_square_(20200825114150).jpg
近代都市の整備
 1945年に第二次世界大戦が終わり、国共内戦を経た1949年1月、北京は共産党の手に移り、10月に毛沢東が天安門上で、中華人民共和国の成立を宣言すると、新たな都市づくりに入る。まずは、天安門広場の改築と、墓地や下水溝の改修など、停滞していた都市施設の整備である。天安門はもともと皇城の正門であったが、その前方の空間を拡張し、建国宣言のため、16万人の集会が可能な広場に改造される(この頃の人口は約130万人)。その後、この広場は、民族表象再生産の場、儀礼空間とし、長安街(幅員40~100m、往復10車線)の拡幅整備とともに、100万人のパレードも可能な規模(880m×500m、0.44km2)に拡張される(写真❷)。そうして都市北京は、社会主義の下で経済建設の一環として計画的に整備が進められていく。すなわち、1953–57年の第1次5カ年計画では、①市の中心部に政府部門を配置、②工業技術センター化(いわゆる工業都市化)を図るとともに、③歴史を出発点とし、これとの調和の下に進められる、また④放射環状の道路網整備、⑤水資源の開発を中心に、都市の整備が図られていく。しかし、1950年代、食料が配給制に移行すると人口移入が制止され、1966-76年の文化大革命時には都市計画の執行も停止、その再開は1979年の改革開放後となる。

【大都市化】
 その後、北京は政治文化都市として整備されていくが、1992年に鄧小平の「南巡講話」が出ると、北京の姿は激変する。すなわち、1990年代以降、中国が世界の工場として経済成長を実現すると、北京には人口・産業・諸機能の集積が進み都市は拡張、モータリゼーション化も大きく進展。2010年に北京の自動車登録台数は470万台を超える。
 この自動車の普及に対し、道路や駐車場などのインフラ整備が追いつかず、交通渋滞・大気汚染等の公害が深刻化する。市は、この状況を改善するため、地下鉄などの公共交通を優先する政策をとり、自動車交通についてもナンバープレートによる、通行制限などを適宜実施する。しかし、都市北京が、内陸部にあり山に囲まれ、空気が停滞しやすいこともあり、大気汚染は未だ改善途上にある。
図④ 北京の道路網
ふえー@道・ROAD・道路「北京の環状高速道路ルート」挿入写真
https://twitter.com/festiva1202/status/784361088670244864
写真❸ 通州副都心
中時新聞網「北京の副首都通州に40万人が移住」挿入写真
https://www.chinatimes.com/newspapers/20171221000665-260108?chdtv
写真❹ 5環路
人民網日本語版2003.10.30「北京の第5環状道路が全線開通へ」挿入写真
http://auto.sina.com.cn/news/2003-10-31/48867.shtml
図⑤ 中国人口の長期推移と主な出来事
【都市の骨格構造】
 これまで都市北京は、故宮(紫禁城)を南北軸の中心にとり、東西が左右対称に造られてきたが、新中国になると初めて東西軸が導入され、その要として長安街が整備される。また、1952年以降は、モスクワの専門家の助言もあり、市街は都市の拡大にあわせ天安門広場を核に、大きく道路・鉄道(地下鉄を含む)により放射環状型に整備されていく(図④)。現在、副都心が開発されるなど機能分散が図られ、多心型の都市構成へと移行している。具体には、長安街の東25㎞、京杭大運河と交差する所に、通州行政副都心(写真❸)の建設が進められている。
 都市骨格としての道路網の整備は、1960–70年代、明代に整備された内城城壁が撤去され、その跡地に一周約32.7kmの2環路(1980年代完成、地下鉄2号線が入る)が整備される。これに続き3環路(1994年、延長50km)も、城壁跡を活用し整備される。さらに、都心8kmの所に4環路(2001年、延長65km)、都心15kmの所に5環路(2003年、延長98km、写真❹)が市街を囲み、6環路(2009年、延長188km)と7環路(2018年、延長940km)が郊外を回っている。現在、北京では、計画された7本の環状道路のすべてが開通している。また、2環路ないし3環路からは、放射状に12本の国道が国内各地に伸び、高速道路も東方の天津を経由し、渤海沿岸などへ6本建設されている。
 次に、都市交通の主役である地下鉄の整備をみると、当初、この地は地盤が軟弱で、硬い地層が相当深い所にあるため、費用の面から地下鉄建設はためらわれた。しかし、モスクワを視察した国家首脳部は、道路交通渋滞の緩和に向けた人の輸送施設というだけでなく、国家戦略の視点から防空機能(防空壕、核シェルター、軍事指令所)も併せ持って、建設を進めるべしとした。そうして地下鉄建設は進み1969年に1号線が開通、現在、環状線2本(2号線は延長23.1km、1971年開通。10号線は延長57.1km、2008年開通)を含め、19路線(他にリニア、LRT各1、その他2路線)あり、総延長は750kmで、市街を網の目のようにカバー。平日1日の輸送量は1,000万人を超え、世界一の輸送量を誇っている。2006年には、交通ICカードも導入され、地下鉄全線に自動改札機が設置されている。
写真❺ 国際貿易街CBD地区
ウィキメディア・コモンズ「北京市」
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Guomao_Skyline.jpg
写真❻ 金融大街
ウィキメディア・コモンズ「北京金融街」
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Beijing_Financial_Street_(overlook).jpg
写真❼ 四合院住宅
「中国伝統建筑——北京四合院」挿入写真
https://twgreatdaily.com/zh-hans/Mt_IPmwB8g2yegNDeq1a.html
写真❽ 中関村科学技術パーク
ウィキメディア・コモンズ「黄荘北歩道橋からの中関村」
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Zhongguancun_from_Huangzhuang_North_Footbridge_(20201214122926).jpg
現代都市化
 都市北京の建設において、近代化の期間は短く、近世から一気に現代へと飛ぶようにして、整備が進んでいる。現在の北京市街は、都心部に形成された大都の方格形状の市街を核に、故宮の南北軸と長安街の東西軸を中心に整備が進んでいる。具体には、北京経済の中心となるビジネス街は、2環路沿いに東に国際貿易街CBD地区(写真❺)、西に金融大街(写真❻)が、また商業中心は東に王府井、西に西単が整備されている。そして故宮西側・中南海の政府要人居住区の南側には、官庁街が形成されている。そのほか大学・研究機関が北西部に、また基幹産業が南西部に、それぞれ重きを置いて立地している。市街は、中心に近づくほど繁華で、中心街にはアフターファイブの遊び場も充実している。交通は大変発達しており、バスと地下鉄でどこにでも行け、通勤通学だけでなく食事や買い物にも困らない、たいへん便利な街である。
 近年、北京は国家が主導する形で、世界都市を目指し戦略的に都市の更新が進められている。中国は土地公有制をとっており、1982年の憲法で都市部の土地は国家に帰属するとされたが、土地は国有でも自己居住用住宅の所有は、文革時を除き民間人にも認められてきた。
 また、1994年に都市不動産管理法が制定され、不動産の譲渡のほか、抵当権の設定や賃貸なども明記された。これをうけ21世紀に入ると、国有企業地(工場、住宅等)や伝統的な四合院住宅地(写真❼)などにおいて、ディベロッパーによるプロジェ クト型の再開発が盛んになる。
 たとえば、天安門広場の東、車で15分ほどのところに位置する、国際貿易地区CBD(中心業務商業地区)では複合市街地開発が進み、外資系企業も入居する高層オフィスを中心に、高級ホテル、大規模ショッピングモールのほか、マンション群(計26棟、1,800戸の住宅)が建ち並んでいる。従前は、国有企業の工場や古びた住宅などがあったが、現在では、外国人駐在員とその家族をはじめ、多くの中国人富裕層が暮らす、高級住宅地へと変わっている。これら住宅の多くは、見た目にはゲーテッド・コミュニティ※を思わせる、高層集合住宅(7階建以上はエレベーター付き)として整備されている。
※ゲートを設け周囲を塀で囲むなどして、住民以外の敷地内への出入りを制限することで、通過交通や不審者の流入を防ぎ、防犯性を向上させるまちづくり手法。
 また、都心部の老朽化が進む四合院住宅地など、再開発地区の住民は、新しく建設された住宅を安価で優先購入できたり、転居を希望する者には補助金が支給されることから、急速に再開発が進み高層集合住宅地へと姿を変えている。また、放射状に伸び環状に結合された高速道路の沿道には、中国のシリコンバレー・中関村科学技術パーク(写真❽)をはじめ、数多くの工業団地や住宅団地の建設が進んでいる。このように北京は、大都市圏化の動きにあわせ、周辺農村地域を飲み込む形で、現代都市化を目指し、新たな都市機能の集積が進んでいる。
生活スタイルの揺らぎ
【職場単位】
 近年、急速に姿を変える都市北京、しかし、生活サービスの供給面で、困った問題が発生している。北京に限らず中国の都市をよくみると、地域コミュニティ施設の類いがなかなか目に入ってこない。これには訳がある。それでは中国独特の都市生活スタイルを紹介しよう。
 中国は血縁社会で、伝統的に家族が社会の基本単位となり、子育てや介護など多くの生活支援機能を担ってきた。しかし、中国では、1949年に社会主義・計画経済体制が成立すると、政府・軍、工場・商店、学校・病院等の職場毎に、「単位」という職場中心の共同社会組織が整備され、この中に旧来の家族が担ってきた機能等を組み込んでいった。すなわち、夫婦フルタイムでの就業を前提に、職場が単位となって、住宅、医療・福祉、娯楽・文化など、各種生活支援サービス(低賃金の家政婦による、育児や介護など家事サービスなど)を提供するようになった。このため都市空間も職場単位の存在を前提に、「職住近接」型で構成されてきたことから、改革開放政策がとられるまで、都市には通勤形態の郊外住宅地は存在しなかった。
 しかし、改革開放政策により、非効率な国有企業が解体され、居住地の選択も自由になると、1980~90年代にかけ公有賃貸住宅の払い下げが進む、その一方で1998年には政府による住宅支給の制度が廃止される。そうして市場経済化の進展に伴い民間住宅の建設が進み、住宅が商品として都市の外縁部に大量に供給されていく。これらの動きにあわせ、交通インフラの整備も進展、市街は2環路で囲まれた旧市街から、都心10km圏を回る5環路(高速方式、延長約100km)にまで広がる。こうした住宅地の郊外化の動きに、世帯分離、核家族化の動きが絡み、通勤の長距離化に伴い、単位や家族が果たしてきた保育や介護等の生活サービスが利用できなくなり、近年、それら生活サービスの供給を求め、地域コミュニティ施設の整備が課題となっている。
写真❾ 北京国家体育場
ウィキペディア「北京国家体育場」挿入写真
https://ja.wikipedia.org/wiki/北京国家体育場
【都市発展段階への対応】
 中国、北京は、地域的課題はあるものの、社会主義市場経済の下で、驚異的な発展を遂げた。この地では伝統的に政治的統合を第一に、開発整備がなされてきた。しかし、生活水準が上がり、市民の思考が個性化・多様化してくると、身近な街の充実にも目が向けられるようになる。
 近代都市の発展には、政治的安定に続き、経済の隆盛・成長を受け、社会インフラの整備とともに、住宅等を大量供給する都市拡大の段階があり、それを過ぎると生活文化面での充実が求められ、個性的で魅力あるまちづくりが求められるようになる。
 わが国もかつての成長拡大期に、「大きいことは良いこと」として、オリンピックをバネに大きく高く速く(大都市化、高層化、高速化)という時代があった。しかし、それが一段落すると、旧のものを懐かしむ、ディスカバー・ジャパンの時代となり、「小京都や小江戸」ブームが起きた。21世期に入り、中国も2008年北京オリンピック(写真❾)、2010年上海万博を経ると、海外旅行に出かける傍ら、老北京や西安探索など、ディスカバー・チャイナの動きが活発化している。
 都市や街また建築の整備を進めるにあたっては、当該都市の発展が現在どの段階にあるのか、よく社会の動きを見極め、ニーズにあった建築やまちづくりに対応していくことが肝要となる。
Column 1
古代中国の都市空間構成
 中国の古代思想「天円地方(天は丸く、地は四角)」によると、地上を支配する皇帝の都城は、「方格形状につくり、その各辺に3つの門を開く。そして、東に宗廟、西に社稷壇を配し、宮城の前面で政治を執り、後ろには市を配す。」とされ、「支配のための儀礼空間を備える」とある。
Column 2
中国の地域計画法制
 中国では、都市計画法(施行は1990年)が1989年に制定されるが、2007年に都市と農村を一体的に計画する城郷計画法(城郷規劃法)が成立すると廃止される。中国では都市と農村の峻別がはっきりしていて、都市区域となることは農村ではなくなることを意味する。都市と農村との区分は、1950年代から警察権を背景とした戸籍制度により、都市への流入人口をコントロールすることで保たれている。
 さて、都市の土地利用であるが、中国では、土地は国家ないし集団所有の公有制をとるが、土地使用権の譲渡は認められている。また、計画の内容は非公開で、例え、マスタープランの内容が判明しても、具体の鉄道・道路の路線位置などは明らからされず、用途地域、容積率、建蔽率などの建築規制も実施されているが、プロジェクト単位に当局との交渉により変更可能とされている。
Column 3
四合院住宅
 北京の旧市街(老北京)は、南北方向に走る主要幹線道路(大街)と、東西方向に走る支線道路(胡同。当初は幅員9.3m、現在6-7mさらに狭いものも)とで、格子状に区画(街区)された東西に長い街区で構成されている。この元~清代の市街構成を受け継ぎ、住宅地を構成する基本単位「四合院住宅」は、BC10世紀から続く住宅建築様式で、胡同に対し南北方向に短冊状に割られた敷地に建ち、すべての住宅が北に座し南を向くことで、「座北朝南」という中国建築の理想を実現している。
 敷地北側の主屋を「正房(主人夫妻)」、その前方左右の棟を「廂房(他の家族)」、主屋と対面する南側の棟を「倒座(サービス施設・設備等)」と呼び、この土煉瓦でできた平屋4棟が、正方形の大きな中庭に面した回廊で結ばれ、住宅の基本ユニットを構成する。
 一般に、正房、東西の廂房、中庭が家族の生活空間となる。中庭は、パティオ形式で各棟を結ぶ通路であるほか、ザクロなど植木の観賞や子どもの遊び場、冠婚葬祭や宴会の場などとして使われる。
Column 4
なぜ、中国で産業革命、近代工業化が遅れたのか
【歴史人口の動き】
 古代より中国では、気候変動等(飢饉→戦争、疫病)を契機に、異民族の侵入に伴い農民の税負担が増加。そして地方が台頭すると中央権力が弱体化し王朝が交代。この旧王朝の衰退・新王朝の興隆期に、戦乱や病気などで人口は減少するが、気候が温暖化に転じ新体制が安定すると、灌漑など土木事業が進展。品種改良や二毛作が進むと農業生産が上がり、その余剰で商業交易・手工業が発展。経済が隆盛の時期を迎えると人口は増加する。また寒冷化をうけ食糧や商品が減ると、人びとは相争うようになり人口は減少する(マルサスの罠)。これを繰り返してきた(図⑤)。
 中国の収容人口は、唐の時代まで土地の生産力に応じ、6千万人ほどと見積もられてきたが、宋の時代に灌漑など土地開発が進展し1億人ほどに膨らむ。この時代、江南を中心に貧しい家では、将来に役立たない女子を間引いていたが(溺女の率は3割ほどと推計される)、これは後の出生数にも影響するので、17世紀半ば清の時代に禁令が出る。また、18世紀、1711年に税法が地丁銀制(16-59歳対象の丁(人頭税)を地銀(地租)に繰り入れ徴集する)へと変わり、家族が増えても税金は増えないようになると、溺女の禁令とあいまって潜在人口が顕在化。また寒冷化に耐える新食物(トウモロコシ、サツマイモ、ジャガイモ)の移植もあり、人口は18世紀半ばに3倍ほどに膨らむ。
 19世紀半ばから20世紀半ばにかけ、人口は4億数千万人から5億数千万人に推移、これは増加率にすると年平均0.26%でしかないが、その後に乳幼児死亡率が大幅に改善、化学肥料を用いた食糧増産による栄養状態の改善、医療の発達、また中国共産党初期(建国から30年間の毛沢東時代)の人口増加策「産めよ増やせよ」もあり、人口は急激に増加、今日14億人に達している。これは平均寿命が、中共建国時の35歳(中国は近代に入るまで30歳に達していなかった。)から、1960年44歳、70年60歳、80年66歳と、急激に伸びたことが寄与している。
 その後、改革開放政策の採用に伴い、「一人っ子政策」がとられた、1979-2014年の35年間は、産児制限の実施や教育費など子育て費用の増加なども影響し出生数は減少、これに伴い平均寿命も1990年70歳、2000年72歳と、その伸びがスローダウンする。平均寿命は2018年に77歳に達するが、人口総数の伸びは鈍り、2022年にはついに減少へと転じる。

【政治の安定が第一の中国】
 中世期、中国発の三大発明(火薬、羅針盤、印刷)にみられるように、この地の潜在的な技術開発力は高かった。しかし、明・清の時代に、長いこと「北虜南倭」の鎖国政策を続けてきたこともあり、人・物・金・情報の流れが滞り、経済発展に向け資本を合本し長期の大規模事業に活用する、国家的な信用システム(制度、仕組み)も構築できないでいたことから、人びとの暮らしは相対的に低下、土地生産性が高い (欧州の13倍)豊かな土地を抱えているにもかかわらず、中国は20世紀に入っても国富の蓄積が進まず、しかも人口が多いため労働賃金も低く、工業生産は手工業でこと足り機械化へと至らなかった。
 その根底には、中華文明として「経済の発展より政治の安定を第一」とし、国家イデオロギーとしての儒教(倫理・道徳、宗教性も有する)と、コミュニケーション・ツールとしての漢字(地域(方言)間を結ぶ)を基盤に、中央官僚による統治(エリートは科挙の制(儒教の古典教養や過去の政治事件などの知識や漢字による作文能力を問う)で選抜)を通じ、国家の統合を優先してきたことがある。
 ローマ、アラブ、オスマンなどの帝国は、ある時期に栄華を誇っても、一度崩壊すると再興することはなかったが、中国では各帝国(王朝)が崩壊していくプロセスは同じでも、高級官僚等が科挙の制等を通じ、儒教と漢字(表意文字)を学び続けることで、王朝は変われど国家イデオロギーは、時代や民族を超え継承されてきた。

【参考:帝国崩壊のプロセス】
 古代ローマでは、気候変動で飢饉を招いたり異民族の侵入により、税収が減ると軍事力と社会インフラが劣化。人や物の動きが滞ると、地方ごと使用する言語・文字が異なっていき分国化。帝国の再興はならなかった。アッバース朝ペルシア帝国やオスマン帝国も、度重なる遠征などで中央政府の財政負担が増加。また夫人・縁戚&宰相政治へと代わり官僚等の世襲化が進むと、財政難に陥り軍事力や中央の統率力も低下。そして増税すると地方が反乱、地方総督や名望家が独立すると、帝国は崩壊した。
 一方、中国は、
①秦・漢帝国において、遊牧民の侵入を許すと、戦費調達のための増税にあわせ農民が反乱、地方の台頭(黄巾の乱185年)により中央の統治力が低下、後漢は滅ぶ(220年)。
②隋・唐帝国は、夫人・縁戚&宰相政治を経て、節度使による安史の乱(755-763年)、黄巣(こうそう)の乱(875年)をうけ、税制・軍制が機能しなくなり、唐は滅ぶ(907年)。
③明・清帝国は、鎖国政策の中、19世紀イギリス、ポルトガルなど海外勢力の侵略(アヘン戦争19世紀半ば)をうけると、戦費調達のための増税に苦しむ地方農民を率い、太平天国の大乱(1851-64年)が起きる(地方軍閥が割拠)。1890年代はこれを機に異民族の、ドイツ、フランス、ロシアが侵入それに日本も加わり、争いがいっそう激しくなり、清は滅ぶ(1912年)。

【近代工業化、経済発展へ】
 欧米先進国等の植民地化の動きの中、このままではいけないと、農本主義(農本商末思想から抜け)から脱し工業化を進めるべく、科挙の制を1905年に廃止する。その後、中国革命を経て1949年に共産党政権が樹立され、社会主義を掲げ土地改革(所有権を地主から国家(使用権を農民に付与)へと移す)を実施。計画経済の下で大躍進政策(1958-)を掲げ工業化を推進する。
 しかし、そのための資本を生む農業部門が、人民公社方式(1958-1982年、上部からの命令・調達主義、手段と成果の共有で悪平等が進み士気が低下)を採用すると生産が伸びず、また工業生産を高めようと無理に農機具まで製鉄へと回したため、農業生産も鈍ってしまう。さらに、燃料や資材の確保に向け森林伐採を進めると自然災害が発生、飢饉を招き4千万人にものぼる人命を失う。
 その後、政権内で主導権争い「文化大革命(1966-76)」が起こるが、これを乗り越え政治が安定すると、政府はようやく経済発展のステージへと舵を切る。
 中国では、これまでも血縁関係が深い者達や強い絆に結ばれた地縁の者達など、信頼関係に富む(投資リスクに備えられる)仲間の間では、資金を集め事業に投資する動きもみられたが、国として不特定多数の人びとから、長期にわたり大規模に資金を集め活用する社会システム(制度、仕組み)はなかった。そこで政府は近代工業化に向け改革・開放政策を掲げ、中央銀行や証券取引所を設置、また信用取引による資金調達に向け法整備を図り、経済発展の舞台を整える。すなわち、政府はシンガポール等を参考に、経済特区(税制優遇等)方式で自国の安い労働力を活用、欧米等先進国の資本・技術を導入し、段階的に工業化を推進していく。
 改革開放の総設計師・鄧小平は、1992年、沿海部を回り南巡講和で関係者に活を入れ、市場経済化を加速する。また、経済運営にあたっては日本に学び、財政を活用しオリンピック・万国博覧会等を起爆剤に、基幹産業・枢要地域から社会インフラの整備を順次推進、生産面だけでなく輸送面やエネルギー供給の面からも工業化を推進していった。

[参考文献]
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中国新聞社『なぜ他の古代帝国とは異なり分裂しなかったのか―専門家が「中国の特異性」を説明』2022年(https://www.recordchina.co.jp/b897671-s41-c30-d0198. html
ウィキペディア「北京の歴史」 (https://ja.wikipedia.org/wiki/北京の歴史
世界の歴史まっぷ(https://sekainorekisi.com/
世界史の窓 (https://www.y-history.net/
河村 茂(かわむら・しげる)
都市建築研究会代表幹事、博士(工学)
1949年東京都生まれ/1972年 日本大学理工学部建築学科卒業/都・区・都市公団(土地利用、再開発、開発企画、建築指導など)、東京芸術大学非常勤講師(建築社会制度)/現在、(一財)日本建築設備・昇降機センター常務理事など/単著『日本の首都江戸・東京 都市づくり物語』、『建築からのまちづくり』、共著『日本近代建築法制の100年』など