都市の歴史と都市構造 第10回
世界の大都会・ビジネス都市「ニューヨーク」
河村 茂(都市建築研究会代表幹事、博士(工学))
都市形成の歴史
【都市の生い立ち】
 ニューヨークの中心・マンハッタン(59㎢)は、先住民の言葉で「丘の島」を意味する。この地には、かつて緩やかにうねるようにして野原が広がり、小川が流れ、小高い丘にはこんもりとした森が広がっていた。1609年、イギリス人探検家で航海士のヘンリー・ハドソンは、オランダ東インド会社に雇われ、アジアへの近道となる航路を求め、この地の地形を調査・測量して回る。ニューヨークが北米大陸の入口に選ばれたのは、大西洋を挟んで欧州の対岸に位置する「不凍港」として、船が身を寄せるに格好の地形を有していたことによる。
 オランダは、1625年、先住民から24ドル(今日の100ドル)相当の物品との交換で、マンハッタン島を獲得すると、この地を「ニューアムステルダム」と名付ける。そして1634年にはブルックリン、1642年にはクイーンズにも入植を始める。その後、オランダだけでなく、フランスやドイツ、ベルギーなどからも入植が進み、1660年ごろにはマンハッタン南端部に、彼ら商人の住宅が200戸ほど建ち並ぶと、小さな市場や港も築かれる。そうして街の北側には、防護壁(後のウォール(wall)街の礎となる)が巡らされる。しかし、1664年に突如イギリスの軍艦が現れ、この地はイギリスの植民地と化す。市長が任命され、商品取引所が開設されると、この地の名称も、統治者ヨーク公(後のジェームス2世、1633–88)の名を取り「ニューヨーク」と改められる。この地の17世紀末の人口は、5,000人ほどである。
 その後、ニューヨークは、1725年に新聞、1733年には週刊誌も発刊され、米風英語が確立、こうして人びとの間の意思疎通がよくなると、経済活動も盛んになり、港町として栄える。1756年、人口は16,000人ほどに膨らむ。アメリカが独立戦争(1783年)を経た1785年、この地は首都となるが、ニューヨークが首都だったのは5年ほどで、その後はフィラデルフィアを経て、ワシントンへと移る。この18世紀末、ニューヨークの人口は、6万人を数える。

【モザイク都市化】
 ニューヨークを起点とする移民は、19世紀に入るころから増加を始め、産業革命・経営革命を経て経済が隆盛すると急激に膨らむ。すなわち、19世紀半ば、アイルランドからは100万人ほど、またドイツや中国系の人びとも、このころに入ってくる。その後19–20世紀にかけ、イタリアやロシア、東欧などから、ユダヤ人を筆頭に200万人ほどが入る。黒人は、まず南部に入植し、その後この地に移住する者が多かった。最近は、カリブ海諸国からの移民が増えている。
 入植者の多くは、まずはロウアー・イーストサイドに定着して働き、技能・知識・技術を身につけると、後から入ってくる人びとに押し出されるようにして、順次、周辺の地へ、そして全土へと移っていく。
 現在の市人口は約840万人、人種構成は白人が33.3%、ヒスパニック系が28.6%、黒人が22.8%、アジア系が12.6%である。白人と黒人は、地域を別に暮らしており、その他の有色人種は、それぞれにコミュニティを形成し住むか、所得のレベルに応じ、白人や黒人の暮らす地域に混じって暮らしている。市民は、日常生活において互いに間合いを計り、異なる文化圏に暮らしている。これが「モザイク都市」といわれる所以である。
写真❶近代都市の象徴・ブルックリン橋
出典:ウィキメディア・コモンズ「ブルックリン橋」
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Brooklyn_Bridge_Postdlf.jpg
写真❷自由の女神
出典:View America「新天地の象徴-自由の女神像について-」挿入写真
https://deputyscorner.jp/j/新天地の象徴-自由の女神像について.html
図①五区構成のニューヨーク
①マンハッタン、②ブルックリン、③クイーンズ、④ブロンクス、⑤スタテンアイランド
出典:ウィキメディア・コモンズ「五区構成のニューヨーク」
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:5_Boroughs_Labels_New_York_City_Map_Julius_Schorzman.png
産業ビジネスの隆盛
【市街化の進展】
 18世紀末(1784年)、新産業や新ビジネス創生の動きが高まると、ニューヨークに銀行が設立され、保険や証券など広く金融機能が、かって防護壁のあった地域に集積、「金融街」を形成する。また、マンハッタン市街が、移民の増加に伴い北側へと広がりをみせると、新たに不動産業が興こり、デベロッパーが登場する。19世紀、ニューヨークは、生産面だけでなく、交通・輸送の面でも大きく発展する。1807年にロバート・フルトン(1765–1815)が蒸気船を開発(高速輸送により費用を9割方減らす)、1825年にハドソン川と五大湖を結ぶエリー運河が開通すると、大陸中西部産の穀物や石炭など燃料が、ニューヨークまで運ばれる。また1832年には、マンハッタン(山手線内とほぼ同面積)に鉄道が通じ、蒸気機関車による物品の大量輸送が可能になると(道路や運河に比べ輸送費用が低減)、ニューヨークは欧州と米国本土とを結ぶ「港湾都市」として繁栄を始める。しかし、1840年ごろ、人口、産業の集積に伴い井戸水の供給が逼迫。すると50㎞離れたウェストチェスターの地にダムを築き、水路(鉄製のパイプライン)で水の供給を開始する。また、南北戦争(1861–65年)を経て、工業化が一段と進む1880年、エジソンが白熱電灯を開発、19世紀末には発電所の建設も進み、夜中まで都市活動が及ぶようになると、この地に未踏の地はなくなる。
 南北戦争の特需を契機に資本家が台頭、各分野で大活躍する。即ち、大陸横断鉄道(1869)の開通と前後し、アンドリュー・カーネギー(1835–1919)が製鉄業、またジョン・ロックフェラー(1839–1937)が石油精製業、さらにトーマス・エジソン(1847–1931)が電力業といった具合に、輸送や資源・エネルギー関係の産業が、次々と興り隆盛をみる。鉄の生産も、当初の鋳鉄から、錆が出ず丈夫で強固な鋼鉄へと代わり、長大な橋梁の建設(写真❶)や建築物の高層化が可能となる。
 19世紀後半、産業経済が隆盛すると、雇用や所得を求め欧州などから移民が急激に増え、市人口は1800年の76,000人から、1900年には337万人にまで膨れあがる。港の入口に「自由の女神」(写真❷)が置かれる1886年ごろ、市街は、イースト川向かいのブルックリンなどへ拡大、橋やトンネルなどが整備され市街が連担・一体化すると、ニューヨーク(区域面積789km²)は1898年、大都市として5区構成(図①)をとる。
Column 1
ビジネス社会形成への道
【独立そして工業国家の建設】
 16世紀、北米大陸には、イギリス、フランス、スペインなどの国々が進出、先住民と争い植民地化を進めた。18世紀後半は、英仏が植民地獲得競争にしのぎを削った時代で、これにイギリスが勝利すると、その戦費を賄うため、植民地アメリカに印紙税など新たな負担を求める。しかし、この地は「代表なくして課税なし」と反発、ボストン茶会事件を契機に独立戦争(1775–82年)へと進む。
 アメリカの人びとは自立心強く武器を携え、フランスの支援を得て戦いに勝利する。19世紀前半、アメリカは外交交渉(一部は戦い)により、ルイジアナ、フロリダ、テキサス、カリフォルニアと順次領土を広げる。この間、南部の農業地帯では、綿花やたばこ栽培に携わる、黒人奴隷が増加していく。

【鉄道網の整備と西部フロンティアの開拓】
 19世紀後半、この地では工業か農業かの路線選択をめぐり、南北戦争(1860–65年、死者60万人)が起こる。これに北軍(工業派)が勝利すると、鉄道整備をうけ製造業の動きが活発化する。
 鉄道網は、南北戦争終結時5–6万㎞だったが、1910年には約8倍の43万㎞に伸び、大陸横断鉄道も19世紀中に5本完成する。この鉄道整備は電信の整備を伴っていたことから、人や物だけでなく情報の動きも活発化、地域相互が緊密に結ばれると、広大な消費市場が形成されていく。
 1862年のホームステッド法(公有地を自営開拓農民に無償提供する)をうけ、1870年代後半、未開発の西部を中心に移民が増大。草原に小麦やトウモロコシが育ち、開拓が進むと、19世紀中に農民は約4倍、農業生産力は世界一となる。この地は鉱物資源(石炭、石油、鉄鉱石など)も豊富であったことから、アメリカ北東部で工業活動が活発化すると、食糧のほか生産資材・燃料も供給され、製造業が急速に成長、アメリカ経済は隆盛をみる。

産業経済の爆発的発展
【大衆消費社会の到来──大企業の誕生】
 南北戦争が終わる1865年から第一次世界大戦(1914–18年)の前まで、アメリカには欧州から大規模な移民があり(恒常的に全人口の15%ほどを占める)、人口(1860年:3,140万人、1920年:1億570万人)は直線的に伸び、この間約3倍になる。
 また、GDPは、1840年にイギリスの半分だったが、1872年にはこれを抜き、1890年には工業が農業の生産額を上回る。この後も経済の発展は著しく、第二次世界大戦(1939–45年)の前までに、工業労働者は約5.5倍、工業生産額は約12倍になる。
 このように隆盛が続く製造業であるが、1890年代、流通販売を支配する卸売業との連携がうまくいかず、膨大な量の製品在庫を抱え、事業継続が危うくなる。
 なぜなら、この時期まで、生産と流通(多くは中小企業)は、別の企業が担い分離されていたからである。そこで製造企業は、ミシン、自転車などの耐久消費材、ビール、タバコなどの嗜好品、また精肉など食料品を中心に、生産から流通や販売に至る各段階を統合・一元化し、消費拡大へとつなげる動きに出る。大企業の誕生である。

【経営マネジメントの確立】
 大衆の消費ニーズに対応するには、大量生産大量供給方式の導入が必要であった。それまでの熟練職人を抱えた中小企業による家族的経営から、順次、大企業形態へと移行していく。経営の刷新を図りマネジメント職能を確立、マーケッティング調査に基づく製品企画から、これに見合う人材・資金・資材の調達、組織の編成をふまえ、設計・製造、広告・宣伝、輸送・販売までの各部門を企業内に取り込み、課業の設定など科学的合理的な方法で経営イノベーションを図り、各部門を適切に管理運営することで、顧客ニーズに合致した商品・サービスを供給していった。これが第二次産業革命とも称される、ビジネス革命である。
 移民人口の増加、市場の拡大をうけ、20世期に入り、この動きが本格化すると、住宅建設や不動産開発が進展、また洗濯機(1908年)や冷蔵庫(1918年)、エアコン(1906年)やテレビ(放送開始は1939年、カラーは1951年)など家電製品、そして事務機器などが順次開発され、アメリカ経済は20世紀中ごろに大いに繁栄。膨大な富を創出、アメリカン・ドリームを実現する。
 電化製品の普及による生活革命によって、家事から解放された女性等は、地下鉄の開業(1904年)や自動車の普及、また育児環境の改善をうけ、新たな労働力として職場進出を実現、アメリカ産業ビジネスの発展に寄与する。
図②碁盤目状の市街
出典:ウィキペディア「1811年委員会計画案」
https://ja.wikipedia.org/wiki/1811年委員会計画
写真❸セントラルパーク
出典:ウィキメディア・コモンズ「セントラルパーク」
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:CentralParkFromAboveCropped.jpg
写真❹T型フォードの生産ライン
出典:izi.travel
https://izi.travel/nl/c183-t-ford-txing-huodo/ja
機械文明下の都市構造
【グリッドプラン&大街区方式の採用】
 1806年、この地の人びとは、都市の成長を察知すると、市街拡大の動きを秩序づけるべく、マンハッタン島を測量し地図を製作。長期的な展望の下に計画的に市街の整備に入る。すなわち、人口が10万人を超えた1811年、ニューヨークは、市街の構成計画を4年ほどかけ検討、工業社会の進展をうけ、社会の器である都市も、土地の利用効率を高めるべく、機械文明(標準化・画一化)に適合、規則性をもった利便性の高い市街の整備に向け、「グリッドプラン」(方格形状で道路が碁盤のように規則正しく配列、図②)を選択する。
 市街は、四角く分割された街区に対し、南北方向の通り(アベニュー)を「1~12番街」まで、また東西方向の通り(ストリート)を「1~155丁目」まで配す。幅員は、アベニューが100フィート(30.5m)、ストリートが60フィート(18.3m)で、1街区は5エーカー(3ha)の規模を有した。道路はマンハッタン島の内陸部では922フィート(281m)間隔に配置される。しかし、土地の利便性増進ということで、埠頭が並ぶ川沿いは、これよりわずかに間隔を狭め、交通の恩恵が広い範囲に及ぶよう配慮している。結果、マンハッタン島には、約2,000の細長い「街区」ができあがる。アヴェニュー1マイルあたりの区画数は20である。
 グリッドパターンの街は、景観が単調で、街なみは画一的になりがちであるが、都市の建設や活動の効率性を重んじ、直交する道路網の整備と四角い大規模ビルの建設を推進することになった。ただ、このあまりに合理的な考え方に対し、揺り戻しがあった。それは土地の記憶を残すべく、この地で唯一斜めに走る「ブロードウェイ」(延長27㎞)の存続と、当初は計画になかった「セントラルパーク」(写真❸)の整備である。セントラルパークは、「大きな公園(息抜きとなる自然)が必要」との世論をうけ、1853年に当初計画を変更。1859年、周囲を水面が囲むマンハッタン島のど真ん中に、東西0.8km南北4kmの規模(約340ha)で整備された。

【メトロポリスの形成】
 ニューヨークの人口が150万人に迫る1869年、マンハッタンに高架方式で鉄道が敷設され、蒸気機関車が入る。また、1883年には、マンハッタン南端とブルックリンとを結ぶブルックリン橋が14年の歳月を費やし、その美しい姿を現す。これに続いて、1903年にウィリアムズバーグ橋、1909年にマンハッタン橋が完成すると、ブルックリン(この地も方格形状の市街をもつ)のベッドタウン化が一挙に進む。また、1904年には市営地下鉄(現在の、4、5、6ライン)が開業、市内各地域を結びつけていく。
 こうして交通の流れが円滑化すると、都市活動の利便性が飛躍的に高まる。また、新たに鉄やガラスなどの建築材料、鉄骨造などの建築構法が開発され、安全装置を備えたワイヤーロープ方式のエレベータが実用化されると、建築物の高層化が一挙に進み、都市はその規模や構造を変え、メトロポリスの形成へと向かう。
 こうしてニューヨークは、近代工業社会のまっただ中、大企業が集積するビジネス都市として、経済活動において効率を発揮するべく、その活動基盤が整えられていく。具体には、1908年の「シンガービル」(160m)、1909年の「メトロポリタン・ライフ・タワービル」(200m)、それに1913年の「ウールワースビル」(241m)などの建設である。
ただ高層ビル化により、道路の開放性が損なわれる状況も出てきたので、1916年、市は無秩序な高層化を抑制するべく、ゾーニング※1条例を制定、地域ごと道路幅に応じ5種類の斜線(セットバック規制(敷地の境界線から外壁を後退させ建てること))を設け、この内に建物が収まるよう制限する。また、1913年、フォードがコストダウンに向け、流れ作業方式による自動車の量産体制を確立し(写真❹)、1909年に「T型フォード」を販売すると、時をおき街路には自動車があふれていく。

※1 ゾーニングとは、建物の用途を規制する(住と工の分離など)手法で、この他に建物の規模や高さ、敷地面積などを、地域の性格などに応じ規制する。ゾーニングは、土地利用規制の基本となるもので、ニューヨークの場合、地区毎に用途地域の種類・規制内容が定められ、建築可能な用途等が細かく規定されている。ニューヨーク市が制定した条例は、アメリカにおける最初のゾーニング条例とみなされている。その後も、住商工の3大区分をさらに、20グループ、150ゾーンに分け、きめ細かく規制していく。
Column 2
アメリカ経済の隆盛とパックス・アメリカーナ
 経済力は人口数(労働者数)に相関する。南北戦争が終了する1860年代以降、大恐慌に見舞われる1930年ごろまで、アメリカへの移民人口は増え続ける。移民は、新天地に夢と希望を求め長期にわたり増加、生産面では労働力、消費の面では購買力となり、アメリカ経済の隆盛に大いに貢献する。
 アメリカは、第一次大戦を契機に世界の債権国となるが、このころ、アメリカは国内にフロンティアがなくなり、外に向かい帝国的な動きをするようになる。すなわち、アメリカは、中南米のほかベトナムや朝鮮などに進出する。
 アメリカへの移民は、大恐慌を境に1970年ごろまで減少傾向を示すが、それでもアメリカの総人口は右肩上がりに増え続け、経済は発展する。それは移民労働者が減った分を、家電製品の普及や通勤条件の改善により、女性が職場進出を果たしたこと、また20世紀に入り、公衆衛生面の改善や医療の進歩などにより、乳幼児死亡率が顕著に低下するなどして、寿命が延び人口総数(すなわち労働者数)が増加したことがある。
 アメリカは1930年代を変曲点(図③)に、その前後各60年間は、それぞれ直線的に人口が増加している。また、後半の60年間は、アメリカは圧倒的な経済力・軍事力を背景に世界を席巻、パックス・アメリカーナと呼ばれる時代を築く。
 アメリカは大きな島国で、他国の侵入もほとんどなく、防衛費負担も軽くすんだことから、財政資金を産業経済の発展に必要なインフラ整備に回すことができた。また、アメリカはアングロ・サクソンのプロテスタントを中核とする移民により形成された国で国民は勤勉、さらに、保守的態度をとる既存勢力もなく、意欲ある者が新技術を発明、新資源を発見、これらを活用して活躍、経済の発展をみる。
 この経済的基礎の上に、アメリカはふたつの世界大戦を介し、欧州の戦勝国に対し、必要な物資の供給と軍事費の借款を行った。さらに、戦後は、国際機関を通じ発展途上国に対し経済支援や技術供与を進め、自由経済世界の発展を推進した。また、自らは核武装し、価値観を共有する国々と同盟、各国(世界の3/4の国々)に基地(700)を配置、これに空母とITを絡め国際的な軍事ネットワークを構築(防衛体制確立)、シーレーンを確保するなど、世界の警察官としてアメリカ大企業の活動に有利なビジネス環境を整えていった。
③1790-2000年アメリカの総人口の推移
出典:ウィキニュース「アメリカ合衆国の総人口」
https://ja.wikinews.org/wiki/アメリカ合衆国の総人口、3億人を突破
写真❺1932年のミッドタウン
出典:ウィキメディア・コモンズ「ニューヨーク・マンハッタン」
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:NewYorkCityManhattanRockefellerCenter.jpg
写真❻アイススケートリンク
出典:「ルックアメリカンツアー百聞は一旅に如かず」挿入写真
https://blog.looktour.net/rink_rockefeller_nyc/
写真❼ヴォアザン計画1925年
出典:ヴォアザン計画
https://c-addiction.typepad.jp/.a/6a0120a60ec3df970b01b7c8f97ec9970b-popup
写真❽鉄とガラスの近代建築
出典:「Wikiwand カーテンウォール」挿入写真
https://www.wikiwand.com/ja/カーテンウォール
写真❾今日のニューヨーク中心部
出典:ウィキメディア・コモンズ「ダウンタウン」
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Downtown_Skyline_(39960025320).jpg
写真❿賑わうタイムズ・スクエア
出典:ウィキメディア・コモンズ「タイムズ・スクエア」
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Times_Square_April_2022_by_D_Ramey_Logan.jpg
機能的な都市の整備
【ニューディル政策と摩天楼の形成】
 第一次世界大戦が終了し10年ほど経った1929年、世界大恐慌が発生する。これをうけ状況を克服するべくアメリカでは、需要の創出をめざしニューディール政策※2がとられる。ニューヨークでは、フィオレロ・ラガーディア市長(1882–1947)と土木部長のロバート・モーゼス(1888–1981)の指導の下、道路、公園、空港など公共施設の整備が急ピッチで進められる。具体には、マンハッタンの外周をめぐるフリーウェイ、マンハッタンと周辺とを結ぶマンハッタン・トンネルやトライボロ橋、そして多くの公園、市営住宅、学校、病院等々が、続々と建設されていく。
 1930年代に入ると、この都市基盤整備の動きにあわせ、富豪や財閥は、建築物の高さを富や権威の象徴とみなし、ビルの超高層化を競うようになる。すなわち、49丁目には「クライスラービル」(1930年)、34丁目は「エンパイアステートビル」(1931年、写真❺)、また、全14棟(現在、19棟)からなる超高層ビル(スカイスクレーパー)群、「ロックフェラーセンター」(1940年)が建設される。このセンターの地下商店街を介し、ビル間の移動が円滑になり、地下鉄へのアクセスもよくなる。さらに、ビルの前面に確保された、広いオープンスペース(サンクンガーデン)は、冬ともなるとスケートリンクや、巨大なクリスマス・ツリーが配され、若者等で賑わう観光スポットと化す(写真❻)。こうして摩天楼と称される、マンハッタン独特の景観ができあがる。
 この動きは、ル・コルビュジエ(1887–1965)の「輝く都市」や「ヴォアザン計画」(写真❼)を下敷きとした、近代都市計画理論として、CIAMの「アテネ憲章」に示された機能的な都市の考え方と重なり、20世紀半ばには、鉄骨とガラスによる超高層ビルの建設が(写真❽)、世界の各地で普遍化していく。

※2 1930年代に実施された、一連の公共事業政策を総称したもので、大恐慌からアメリカ資本主義経済を立て直すため取られた、積極的な財政金融政策。工場や機械設備などへの投資だと、短期的には一定の効果は出るが、数年後には生産過剰となり、不況が深刻化する恐れがあった。しかし、住宅やビルの建設には、その心配が少ない。また、道路や公園等の社会資本整備は、社会福祉を向上させるだけでなく、中長期にみると企業活動等の効率化にも寄与する。そこで、これらの事業に政府の財政支出や低利融資(国債発行や債務保証)を行い、経済活性化につなげていった。

【ゾーニング条例(容積率規制)】
 マンハッタンは南北に24㎞、東西に4㎞ほどの小さな島であるが、ここにはあらゆるものが詰まっている。マンハッタン島を縦長のリングドーナツになぞらえると、外周を自動車のフリーウェイが囲み、そのひとつ内側は工場地区で、発電所や倉庫などが立地している。また、その内側は住宅地区で、さらにその内側は商業地区となっている。このエリア区分に従い、ゾーニング条例により建物の用途、高さなどが規定され、きめ細かく建築規制されている。また、1961年には、昼間人口の都心部への集中に伴う、交通や環境問題などに対応するため、土地の有効高度利用と都市施設整備との整合を目指し、新しいゾーニング条例(容積率規制)が導入される。
 この制度、交通をはじめとする都市施設との、均衡のとれた都市開発を誘導するため、用途地域の種別ごとに容積率(floor area ratio, FAR)を制限することで、市街の建築密度をコントロールするものである。市は、この条例の制定にあたり、開発業者の不満を緩和するため、誘導的ゾーニング(incentive zoning)の制度をあわせて導入、空地整備などと引き換えに容積率の割増や、一律的な高さ制限の緩和を図ることになった。

【アメニティ豊かなまちへ】
 20世紀中ごろは、アメリカン・ドリームが実現、観光や娯楽そして大衆消費にと、ニューヨークが最も輝いた時代である。このころ、空を飛ぶ鳥の目を持って都市全体を俯瞰、土地利用と交通、また供給処理等との整合の取れた都市計画を立て、ニューヨークの近代的な都市整備に邁進する市の土木部長モーゼスに対し、当時ルポライターだったジェイン・ジェイコブズ(1916–2006)は、この市のやり方に異論を呈し、部長と火花を散らす。
 ジェイコブズは、経済効率性や規則性など機械文明の論理をもって高速道路を整備し、街区に機械部品をはめ込むようにして堅固な高層ビルを林立させていく近代都市づくり(写真❾)を痛烈に批判。「近代都市は、まるで機械工場のようで、自動車はあっても、まちに人の姿は少なく賑わいや生気に欠ける。いったい誰のための都市か」とした。そして死にかけた大都市を生き返らせるため、人間の生活行動に範をとり「多様性」の原理を掲げ、「地を這う虫の目からの、きめ細かなまちづくりの展開により、生活満足度の高い文化的なまちに変え、都市に人間の姿を、また街に賑わいや活気を取り戻そう(写真❿)」と主張した。
 しかし、世界の大都会ビジネス都市「ニューヨーク」には、企業活動のしやすさも求められ、高速道路や鉄道網そして超高層ビルも必要である。また、高速交通網整備の発想は、地を這う虫の目からのまちづくりからは出てこない。ただ、交通渋滞や治安の悪化などで、居住環境の質が低下し、住民や企業が街から出てしまうと、その再生に多大な時間と労力、そして費用が掛かってしまう。そこで今日のニューヨークは、地域からのまちづくりの重要性に鑑み、エリアマネジメントを絡め、賑わいや安らぎのある居心地のいいまちの形成に向け、人間都市化への取り組みが進められている。このように大都市の都市づくりにあたっては、鳥(都市整備)と虫(まちづくり)という、異なる視点を併せもって複眼的に対応していくことが重要となる。
[参考文献]
J・ジェイコブズ『SD選書 アメリカ大都市の死と生』鹿島出版会、1977年。地域からのまちづくりの大切さを教えてくれる。
猿谷要『世界の都市の物語 2 ニューヨーク』文芸春秋、1992年。300年ほどの都市の歴史を、事件や出来事を中心に図や絵、写真などを交え、豊富な体験に基づき描いている、歴史知識を得るによい。
都市開発制度比較研究会『諸外国の都市計画・都市開発』ぎょうせい、1993年
常松洋『世界史リブレット48 大衆消費社会の登場』山川出版社、1997年
紀平英作・亀井俊介『世界の歴史23 アメリカ合衆国の膨張』中央公論新社、1998年。アメリカが20世紀に世界をリードする、その基盤となった19世紀社会の成長過程を中心に描いている。
猿谷要『物語 アメリカの歴史』中公新書、1999年
北澤猛・アメリカンアーバンデザイン研究会『都市のデザインマネジメント』学芸出版社、2002年
生井英考『興亡の世界史 第19巻 空の帝国アメリカの20世紀』講談社、2006年。空を制覇することで軍事大国化したアメリカ社会を、文化史の視点をもつて描いている。
(株)都市構造研究センター 南部茂樹「アメリカにおける都市再開発の時代変遷 2008.1.23」http://www.usrc.co.jp/usa/historycitydevelopmentUS1950-2008.pdf untitled(usrc.co.jp)
アンソニー・フリント『ジェイコブズ対モーゼス:ニューヨーク都市計画をめぐる闘い』鹿島出版会、2011年。市井の一主婦が都市づくりのあり方をめぐり、市の権力者に挑む。近代都市計画と地域のまちづくりとの、対象領域や捉え方などの違いを理解することができる。
有賀貞『ヒストリカル・ガイド アメリカ』山川出版社、2012年
紀平英作『アメリカ史 上・下』山川出版社、2019年
神野正史『日経ビジネス文庫 30の都市からよむ世界史』日本経済新聞出版社、2019年。19–20世紀にかけ急激に拡大成長したニューヨークの発展の動きを概略紹介している。
「あっとニューヨーク」https://www.at-newyork.com/new-york-history/new_york_20c.htm ニューヨークの歴史を17世紀の開拓期から今日まで、世紀ごとに解説しており、都市変遷の動きがわかる。
ウィキペディア https://ja.wikipedia.org/wiki/ニューヨーク
河村 茂(かわむら・しげる)
都市建築研究会代表幹事、博士(工学)
1949年東京都生まれ/1972年 日本大学理工学部建築学科卒業/都・区・都市公団(土地利用、再開発、開発企画、建築指導など)、東京芸術大学非常勤講師(建築社会制度)/現在、(一財)日本建築設備・昇降機センター常務理事など/単著『日本の首都江戸・東京 都市づくり物語』、『建築からのまちづくり』、共著『日本近代建築法制の100年』など