都市の歴史と都市構造 第8回
近代の先駆け・海洋通商都市「アムステルダム」
河村 茂(都市建築研究会代表幹事、博士(工学))
図1 オランダの形状とアムステルダムの位置
出典:オランダ:アムステルダム - 旅行のとも、挿入図
https://www.travel-zentech.jp/world///map/q118_amsterdam.htm
図2 大航海時代
出典:ウィキメディア・コモンズ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Explos.png
図3 オランダの干拓地整備の進展
出典:小野先生の一期一会地球旅⑦、挿入図(地名等著者)
https://travelhelper-magazine.jp/chikyutabi/8123
図4 風車の活用
出典:Education without Borders、挿入図(地名等著者)
https://hum300.tolearn.net/case-study-the-dutch-polder-model/
近世オランダの中核へ
 近世・欧州の地では、数々の改革を経て中世封建社会から近代工業社会へと大きく転換していく。その契機となったのは、小氷河期(14–18世紀)と呼ばれる気候変動である。ユーラシア大陸の西に位置する辺境の地・欧州では、この寒冷化(300年間ほど)に対応して、大航海時代に新大陸の発見で得た新産物(ジャガイモ、トウモロコシなど)を移植。また重商主義に基づく海洋通商により蓄積した富で、産業革命を起こし小氷河期を乗りきる。
 この時代、近代の扉を開くのに大きな役割を果たしたのは、オランダである。13世紀、北海への交易口として、アムステルダムの港が開かれ、15世紀にバルト海交易(穀物、木材等)で隆盛をみると、16世紀、ネーデルラント(今日のオランダ)の地に、国王・貴族などの既存勢力から距離を置く、ルター派やカルヴァン派など新教徒の改革勢力が入る。16世紀末、欧州一の繁栄を誇る、ネーデルラント南部アントウェルペン(現、ベルギーのアントワープ)の大商人らが、独立戦争の動きの中、北部アムステルダムに活動拠点を移すと、この地が醸す自由で寛容な雰囲気にひかれ、スペインやフランスを追われたユダヤ人やプロテスタントなど、進取の気質に富む人びとが、続々とアムステルダム(図1)に集結する。
 ネーデルラントの人びとは商業資本を蓄え、80年戦争を経てスペインから独立すると(1648年)、農業社会と工業社会とを分かつ近世(15世紀初め–17世紀初め)の大転換・大航海時代(図2)に対応。市街に運河網を整備、堤防により守られた港湾を活用し、水産や造船、海運や倉庫業などを基盤に、金融・証券制度等を整え、ポルトガル、スペインに続き、世界の海へと打って出る。この近代へのプロローグともいえる、近世の都市型共和国、海洋通商国家オランダの動きを、その中核である都市アムステルダムを中心に紹介する。

【土地も空も低いオランダ】
 ネーデルラント、古来より水に囲まれた大地で、氷河期に形成された洪積層が北海に向け潜り込む所に、河川から運ばれてきた土砂が堆積。そうしてできた土地が海の浸食により削られ、さらに高潮や洪水をうけると、湖沼が点在する低湿地を形成していった。現在、オランダは国土の3割ほどが海面下にあり、その2割以上は13世紀以降の干拓地(現在も15–20cm/100年地盤沈下が進む)である。気候は西岸海洋性気候で、北大西洋海流の影響を受け高緯度の割に温かい。しかし、曇りの天気が基調で、毎月一定量の降水もあり、空は高くない。

【干拓地の造成】
 ネーデルラントの名が、世に登場するのは1083年で、この頃、温暖化が進み、9世紀頃からの寒冷化に伴い大西洋沿岸部等を荒らしまわっていたノルマン人が北欧へと去る。これ以降、人口が増加。農牧地の開発が必要となり、干拓地(ポルダー)の造成が始まる(図3)。この地の人びとは、それほど深くない湖沼や湿地を選び堤防を築くと、入り込む水をせき止め、内側の水を汲み出し干し上げる方法で、土地を造成していった。しかし、そうして整備された干拓地も、その後、徐々に地下水位が上昇、この湧水を堤防外へと排水する水管理が必要となる。
 この時代の干拓地整備のポイントは、ひとつに、大西洋の偏西風を利用した、排水用の「風車」(もともとは小麦の脱穀に用いられたものの転用。図4)の整備で、もうひとつが、「水管理委員会(ウォーターボード)」の組織である。この委員会は、国や州、市町村とは異なる、独立した自治組織(事業費の徴収権と紛争処理のための司法権限をもつ)で、水防のほか堤防や水路の管理、内水域の水位や水質の管理を業務とした。堤防は一市町村を越え広がっており、水の制御は人びとの生命と食糧の確保に必須なことから、皆が共同で水管理にあたるべく、この地では階層を超え協力し合う気風が育ち、民主主義の基礎が整っていった。
アムステルダム発展の歴史
 こうして土地造成が進むネーデルラントの中心都市アムステルダムは、もともとは近海で漁を営む漁師が住む漁村であった。1240年頃、アムステル川の河口近くに、堰(現在のダム広場にあたる)が築かれ、船着き場ができると、人びとはそこに集まり港町を形成。1287年にゾイデル海(現在は堤防により外洋と遮られた湖「エイセル湖・マルケル湖」)が、大洪水をうけ北海につながると、この入江の奥に位置するアムステルダムは、バルト海交易に対応するべく、港湾都市としての土地造成に入る。その後、造船技術や航海技術の進歩により、遠洋漁業が可能となってニシン漁などで漁業が隆盛すると、市場ができ、市街も広がり、1300年には特許状を得て、自由都市(領主や司祭などの支配から自立した中世都市)となる。
 14世紀以降、この地の漁民は、北海にニシンの大群が現れると、この群れを捕らえようと、最盛期500隻もの船でこれを追った。しかし、北海漁場は遠く(漁場に行き着くのに1週間ほどかかった)、荒天の日が多いため、船は5–8週間も漁を続けることとなり、捕獲した魚を素早く船上で加工処理(えらと内臓を除去、塩をまぶし樽詰めにする。1年保存が可能)する必要が生じた。そんなところから、船上で加工作業ができ、大量に荷を積め、高速で動く船が求められた。また、北海の荒波をうけ、船を度々修理する必要から、アムステルダムに造船業が興隆した。
 この頃、アムステルダムは、北欧と南欧とを結ぶ中継貿易港として、通商や倉庫業が隆盛する。また、15世紀のバルト海交易では、欧州の南北間を往復する取り引きが成立したことから、輸送コストが大幅に低減、海運業が発達する。
 その後、1500年前後の小温暖化に対応し農耕地が拡大。食糧増産もあり人口が増加。これをうけて住宅建設が進展すると森林が減少。木材の需給ギャップによる価格高騰をうけ、貿易港として造船・輸送コストに勝るアムステルダムの台頭に伴い、ヴェネツィアなどの交易都市が競争力を失い衰退する。繁栄するアムステルダム商人らは、穀物や木材などを仕入れるべく、バルト海沿岸地域に投資。これをアムステルダムに持ち込み加工したのち、南欧などに供給し儲けた。
 16世紀、信教の自由と高額な税負担(スペインは、ネーデルラントの独立戦争※1(1568–1648年)を支援するイギリスと戦うため、その戦費調達として、アントウェルペンの毛織物業に対し重課税を行った)をめぐり、カトリック教国スペインと、プロテスタントの多いネーデルラントとの間で、戦争が勃発する。このネーデルラント独立に向けた動きの中で、アントウェルペン(16世紀半ば頃、欧州一の商品市場を形成)は、スペイン軍の侵攻をうけ、都市や港が破壊される。また、スペイン国内などでのユダヤ人の迫害もあり、アウトウェルペンをはじめ各地から商工業者(毛織物、ダイヤモンド加工、金融など)やプロテスタントの多くが、アムステルダムへと移り住む。
※1 ネーデルラントは、独立戦争を英、仏、独などの傭兵により構成された軍(自国兵は5%ほど)で戦う。この戦争の間、並行して英西戦争(1585–1604年)などが起こり、スペインは英や仏とも戦い(1635–59年)疲弊、衰退していく。
 これ以前の14世紀、欧州ではペストが大流行し、人口は2/3ほどに減少していた。これに伴い農業労働者が不足して、その賃金が2倍以上に上昇すると、彼らの食生活に変化(肉食化)が起こり、食肉需要が増大する。そこで牧草が枯れる前に家畜を食肉化し、塩漬けにして保存した。この肉を食するにあたっては、臭いを消し味付けをする必要から、南欧を通じアジアとの間で、胡椒など香辛料貿易が活発化する。アントウェルペンは、その中継港としても機能していたことから、その代替であるアムステルダムは、バルト海・北海交易に加え、地中海や大陸内部ともつながり、商業交易の広域ネットワークを手に入れ、欧州第一の商品市場、金融の中心地となっていく。
 1600年前後、経済の隆盛に伴い急激な人口増加に見舞われたアムステルダムは、風車を活用し旧市街運河地区の土地造成を進める。また、アムステルダムの商人は、それまでアジアなどとの貿易取引に利用してきたリスボン港(1580年、スペインがポルトガルを併合、自領とする)が、スペインとの戦争で使えなくなったことから、アジア等との直接貿易を目指し、自力で外洋へと打って出る。この頃、海外との通商リスク低減のため、1602年、アムステルダムに世界初の証券取引所が開設され、同時期に設立された東インド会社の株式などが取り引きされる。また、1621年には新大陸と貿易を行う西インド会社も設立される。さらに1609年には、スペインから逃れてきたユダヤ人も出資し、中央銀行が開設され、為替振替や低利子での信用貸出しが始まる。こうしてアジアや大西洋貿易が発展すると、海洋通商や海運業が隆盛、市街はさらに拡張していく。この時期、オランダはアムステルダムを中心に、原料や半加工品を輸入し、毛織物などの完成品に仕上げ輸出していた。このためアムステルダムでは、手工業、倉庫業も発達した。
 また、16世紀末~17世紀は小氷河期の底にあたり、テムズ川も凍るほどで、大陸では小麦やブドウの栽培もならず、欧州各地で洪水など災害が発生したため飢饉を招き、戦争(スペインとの80年戦争など)が頻発、疫病が流行する。しかし、海洋通商国家オランダ(オランダは全欧州船舶の6割ほどを保有)の中核、アムステルダムは、バルト海交易における穀物やニシン、畜産取り引きや、新大陸からのジャガイモなどの移入があり、豊かであった。
図5 17世紀のアムステルダム市街(下が北)
出典:『アムステルダム中心部:ジンフェルグラハト内部の17世紀の環状運河地区』 – 世界遺産検定
https://www.sekaken.jp/whinfo/monthwh/monthwh-w015/
写真1 同心円状の旧市街(上が北)。
白黒が中心地区、カラーが運河地区(街区毎に中庭を整備)
出典:【オランダ】アムステルダムの歴史と街並み 挿入図(地名は著者)
https://plusdutch.com/blog/amsterdam-history/
図6 19世紀初頭 王宮とダム広場
出典:ウィキメディア・コモンズ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Amsterdam-Bowyer-1814.jpg
写真2 エイ湾に臨む中央駅。
出典:たびこふれ「オランダ」、挿入図
https://tabicoffret.com/article/75788/index.html
図7 市街の土地造成
出典:「アムステルダム16世紀後期形成地区の空間構成の復元的研究」挿入図
https://home.hiroshima-u.ac.jp/tsugi/KKHR2009/W_05 各論05.pdf
写真3 アムステルダムの街並み。
出典:水の都「アムステルダム」を堪能!1日観光のモデルコースを紹介 挿入図
https://aumo.jp/articles/26316
写真4 街区中庭の緑。
GoogleEarthより
図8 1612-25年に開削された運河と建築敷地の断面
出典:アムステルダムの都市計画の歴史、挿入図
http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/1991/11-0155.pdf
都市構造と市街地整備
 アムステル川は、アムステルダムに入ると、市の中心部で多くの運河に枝分かれするが、最終的には市の北側に位置するアイ湾へと注ぐ。この地のほとんどは干拓地で、平均海抜高さ2mの低地で平坦、地盤は軟弱であるが、堤防により守られている。旧市街には防衛と水運を目的に、蜘蛛の巣状に運河が巡っている。主要な運河は、中央駅を扇の要とし半円を描く形に配され、アムステルダムの都市構造を規定している(図5)。運河地区の建物は、地盤(泥炭地)に木杭を打ち込み、その上に建築されている。現在、市の南西部には、広大な森林が配され、南東部は運河(1952年開削)によりライン川へ、また北部も長い運河(1876年開削)により北海へとつながっている。
 アムステルダムの市街は、エイ湾に臨む現在の中央駅(1889年開業)辺りから、陸側のシンゲル川(1420年に開削された運河)に向かい、南北方向に伸びる道路に沿って、16世紀前半、まず中心地区(写真1)が整備される。この地区の中央には街の生い立ちを感じさせる王宮とダム広場(一辺200mの正方形、図6)、教会などが配置され、ダム通りを介し中央駅(写真2)と結ばれ、花の市場もこの地区にある。
 市街はその後も時代ごとの要請を受けて整備される(図7)。すなわち、運河地区は16世紀後半から17世紀前半にかけ、運河の街(現在、165本の運河があり、約90の島々を結ぶ架橋は跳ね橋を含め1,500を超える)として、中央駅を中心に、扇を広げたように中心地区を囲み、同心円状に整備される。この地区は、オランダが欧州域内交易から海洋貿易へとシフトするのにあわせ、物流輸送を目的に3本の運河が開削される。まず、ヘーレン運河(1585年)、続いてカイザー運河(1593年)、そしてプリンセン運河(1622年)である。これを受け1612–25年の間、旧市街西側の運河沿いでも市街の整備が進み、建物が建ち並んで街並みが形成される。一方、市街の東側には工場、造船所、事務所、倉庫などが立地し、楡の並木とともに荷役用の河岸(幅11m)も整備される。

【協働の運河の街づくり】
 この運河地区の開発にあたっては、事業資金を回収するため、超過収用※2の手法が適用され、運河沿いの宅地は、開発利益の公共還元として、整備後、建築条件付きで売却される。その後、この運河沿いに、住宅等の建物(妻側頂部三角形の切妻屋根、4層3列の窓、上げ下げ方式の蔀戸)が建ち並び、街路樹と一体となって、美しい街並みの形成が進むと(写真3)、2010年に世界遺産として登録される。
※2 事業に必要な区域を超え土地収用、開発に伴う地価上昇をうけ超過収用分の土地を処分、事業費の一部にあてる。
 この運河沿いの住宅群は、間口が狭く(平均5m、狭いものは2m)、隣の建物と接するようにして建っているが、その奥行は深い(50mほどあり、その半分は共同の中庭として供出。図8)。これは税金が敷地の間口長さに応じ賦課されたためである。アムステルダムは、通りに面した窓の多さが街の特徴となっているが、これは法規制(採光率)も絡んでもたらされたものである。人口が密集する商人の街アムステルダムでは、市民も工夫し、狭い敷地を有効・高度利用する形で暮らしている。すなわち、住宅の階段は狭く勾配が急であることから、家具などの搬入は、通りから窓を通じ行う必要があり、妻側軒下の壁には頑丈なフックが備わっている。
 また、旧市街の密集地区では、街区の単位に、通りとは反対の裏側に共用の中庭が確保され、そこには緑が配され落ち着いた雰囲気を醸している(写真4)。この様を上空より街として捉えると、表通りの賑わいに対し、裏庭には安らぎがあるといった感じである。住民は、道路越しに見る運河の水面と裏庭の緑に囲まれ、穏やかで快適な都市生活を送っている。また、1658–63年には、そのひとつ外側にあたる市街の南側や東側にも、同心円状に運河が開削され市街が広がっていく。
写真5 都市化が進む現在のアムステルダム。
GoogleEarthより
写真6 現在のアムステルダム市街の中心部と街並み。
出典:アムステルダムのおすすめ旅スタイル&挿入図
https://magazine.tablethotels.com/ja/2017/05/be-here-now-amsterdam/
海洋通商国家オランダの繁栄と衰退
 17世紀の黄金時代、オランダは東インド会社を設立、商船に護衛艦隊を付け、海洋通商を大規模に展開していく。すなわち、オランダ商人は、この会社に資金を出し合い合本すると、貿易とあわせ植民行為も行うため、これに軍事力を持たせた。こうしてオランダは18世紀前半まで経済的繁栄を謳歌する。この間、オランダの隆盛を横目で見ていたイギリスは、1651年航海条例を制定し、オランダ船の寄港を規制する、保護貿易政策である。17世紀、英蘭は軍事衝突し3度も戦う。オランダは1688年にイギリスに攻め入り、オランダ総督(軍事権を有する)が英国王を兼ねるようになる。翌年、英蘭は同君連合を樹立し、1702年の解消まで両国は共同統治に入る。その結果、オランダは艦隊の数などを制限されてしまうが、この間、アムステルダム商人は投資貴族化し、国際商人としてロンドンでの金融活動を強めていく。その後1748年まで、オランダは無総督の時代が続くと、経済も徐々に萎え、近代的な軍事・財政制度(中央銀行を通じ議会の保証付きで国債を臨機に発行するなど、戦費調達の迅速化を図り艦隊を増強、これに護衛された商船隊が、世界の海で安心して活動展開できるようになる)を確立したイギリスが優位となり海外に活動展開していく。オランダは1794年イギリスとの戦いに敗れ、1795年にはフランス革命軍に国を占拠されてしまう、また1798年に東インド会社が清算されると、ひとつの時代を終える。
 昨今、わが国都市は、地域の価値を上げようと、まちづくり協議会やエリアマネジメントなど、地域組織を立ち上げ活動展開する動きが活発化している。オランダでは、現在も水管理委員会(1850年に3,500存在したが、現在は統合され約120)が機能しており、17世紀の東インド会社の設立を初めとする資本主義(合本)の萌芽・発展や、それを支えたアムステルダムの運河の街づくりにも、この「協働の伝統」がいかんなく発揮されてきた。今日のアムステルダム(写真5、6)でも、土地の造成・管理から市街の形成(水や緑、建築や運河・道路等の関係)まで、協働に価値を見出し、住民皆が対等との精神で対話を重視し、まちづくりに取り組んでいる。特に市街の環境・景観の形成には、市民協働での継続的な取り組みが求められ、その成果が今日の美しい街並みを有する世界遺産・運河の街となっている。この地では協働のまちづくりを実効あるものとするため、その前提となる情報共有が重視され、建築申請も新聞紙上に掲載される仕組みとなっている。
Column 1
大転換
 14世紀、ルネサンスの三大発明(起源は中国)、火薬、羅針盤、活版印刷の実用化が進むと、世界は大きく転換する。即ち、火薬は、火砲(銃や大砲)を生み、軍事面において戦闘方法を大きく変える。具体には、騎馬軍団の力が弱まり城塞が役に立たなくなる。
 1453年、オスマン帝国が、大砲を用い東ローマ(ビザンチン)帝国を攻略、東地中海の制海権を獲得し、イスラム文化圏を拡大すると、キリスト教徒が多く住み、痩せた土地が続く欧州は、陸路だけでなく海路(地中海の航行)も含め、東方貿易が大きく制約を受ける。そこで西欧諸国は、羅針盤と15世紀に発展した天文学を活用、座礁の心配のない遠洋航海術を開発(それまでは沿岸を航海)。肥沃な土地が広がり物産に富む、アジアとの交易を求め、西回りでの航路開発に進む。いわゆる大航海時代の到来である。
 そうした流れの中で16世紀、アメリカ新大陸の発見があり、またアフリカ喜望峰廻りでのアジア航路の開発がある。そうして西欧は、新大陸の地から、ジャガイモやトウモロコシ、金や銀などの新産物を得て、14–18世紀の飢饉・戦争・疫病などに対応、また印刷術を活用した聖書の普及により、16世紀の宗教革命(プロテスタントの台頭)や、17世紀の政治経済上の諸改革(議会制民主主義、資本主義経済)を導き、重商主義政策の下、近代的な軍事・財政制度が整うと、海洋貿易が隆盛、経済の好循環により近代工業社会の扉を開いていく。
Column 2
オランダ東インド会社
 アジア貿易(香辛料の確保など)では、貿易会社の乱立による過当競争を防ぎ、事業規模を拡大し安定的・継続的に経営していくため、国内7州の内6州が連合、公債を発行し東インド会社を設立、これに海洋通商を一本化する。この会社はアムステルダム商人らが出資した(アムステルダムの出資比率57%の内、元アントウェルペンの大商人が、その半分を負担。)、世界初の株式会社(創業時約1,450人の株主資本を合本)である。これに2年ほど先行したイギリスの会社(一航海ごとに会社を設立し、航海を終えると解散した)との違いは、オランダが長期に企業活動を行うため、①事業継続(期限付の独占経営)を前提に、②出資者の責任は有限とし一定範囲にとどめたこと、また③株式の譲渡を自由にしたことにある。この会社には、東南アジアなどにおける、広範な貿易独占権のほか、植民行為、条約締結権、裁判権、貨幣鋳造権などが付与されたほか、インド人傭兵など軍事力をもたせ、商船の安全な運行を確保した。
 18世紀半ばまで国際金融の中心であったオランダは、この時期、世界で最も出版・言論・思想などの自由が保障された国で、宗教にも寛容であったことから、近世哲学の祖デカルトがフランスから亡命、地元の画家レンブラントなど文化人も、アムステルダムに居を構えたことから、この地は欧州文化の中心地となっていった。アムステルダムの人口は、1500年に1万人を少し超える程度であったが、1570年には3万人、1600年には6万人、1622年(この頃、オランダは人口の6割ほどが都市に居住)には10万5,000人、1700年には約20万人へと急増した。
[参考文献]
宮下 孝吉『アムステルダムの「世界市場へ」の発展』関西大学経済論集第13巻第4.5.6合併号、1963年──近世におけるアムステルダムの世界市場化の動きを詳しく記述している。
越沢 明「アムステルダムの都市計画の歴史–1917年のベルラーヘの南郊計画とアムステルダム派の意義」 土木史研究第11号、1991年──17世紀初め、近代的都市計画の先駆けともいえる、アムステルダムの運河地区の市街拡張について、図や写真を用い詳しく紹介している。
樺山 紘一『世界の歴史16 ルネッサンスと地中海』中央公論社、1996年
長谷川輝夫・大久保桂子・土肥恒之「世界の歴史17ヨーロッパ近世の開花」中央公論社、1997年
長坂 寿久『オランダを知るための60章 エリア・スタディーズ』明石書店、2007年
「平成19年度海外調査『人と街を大切にする欧州の街づくりを訪ねて』〜ドイツ・ベルギー・オランダの事例に学ぶ〜」(財)UDC、2007年、(https://www.udc.or.jp/files/libs/851/201711090933022375.pdf) ──事例報告としてアムステルダムの街づくりの歴史等をまとめている。
玉木 俊明『近代ヨーロッパの誕生』講談社選書メチエ448、講談社、2009年──近代化の萌芽がオランダに起こり、国際商業交易の中核を担う過程を欧州各地域間の貿易の細かな動きをふまえ明らかにしている。
樺山 紘一『ヨーロッパ近代文明の曙 描かれたオランダ黄金世紀』京都大学学術出版会、2015年
「アムステルダムの歴史と街並み」(https://plusdutch.com/blog/amsterdam-history/)、2017年──市街地整備の動きを、図を用い段階的にわかりやすく紹介している。
玉木 俊明『逆転のイギリス史 衰退しない国家』日本経済出版社、2019年
杉本 俊多・浜上 友美・岩森 健太「アムステルダム16世紀後期形成地区の空間構成の復元的研究」 (https://home.hiroshima-u.ac.jp/tsugi/KKHR2009/W_05 各論05.pdf)、広島大学、2009年
世界の歴史まっぷ https://sekainorekisi.com/
世界史の窓 https://www.y-history.net/
河村 茂(かわむら・しげる)
都市建築研究会代表幹事、博士(工学)
1949年東京都生まれ/1972年 日本大学理工学部建築学科卒業/都・区・都市公団(土地利用、再開発、開発企画、建築指導など)、東京芸術大学非常勤講師(建築社会制度)/現在、(一財)日本建築設備・昇降機センター常務理事など/単著『日本の首都江戸・東京 都市づくり物語』、『建築からのまちづくり』、共著『日本近代建築法制の100年』など