都市の歴史と都市構造 第7回
文明の交差路、世界都市「イスタンブール」
河村 茂(都市建築研究会代表幹事、博士(工学))
写真1 世界遺産「トプカプ宮殿」
出典:「ターキッシュエア&トラベル」挿入図
https://turkish.jp/destinations/トプカプ宮殿/
写真2 ボスポラス海峡
撮影:筆者
図1 イスタンブール市街(左が旧市街、右がアジア側市街、上が新市街)
出典:「昔に出会う旅 トルコ旅行」挿入図
https://blog.goo.ne.jp/tako_888k/e/a8c35c4d890963c106c85ea8ddac7ef4
図2 ローマ帝国東方領(ビザンツ帝国)時代のコンスタンティノープル
出典:ウィキメディア・コモンズ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Bizansist_touchup.jpg
写真3 アヤ・ソフィア
出典:「トルコ・黄金のモザイクが語るイスタンブール歴史秘話(アヤソフィア博物館)」挿入図
https://www.travelbook.co.jp/topic/541
図3 オスマン帝国の版図
出典:ウィキメディア・コモンズ(文字追加:筆者)
https://commons.wikimedia.org/wiki/File: Ottoman_1683.png
悠久なる都市の歴史
 イスタンブール(旧コンスタンティノープル)は、トルコ北西部、マルマラ海の北岸に位置し、市街はボスポラス海峡(長さ30km、幅は狭い所で700mほど)を跨ぐ形に、ヨーロッパ(トラキア)側とアジア(アナトリア)側に広がる。この地は、古代ローマ帝国、中世ビザンツ(東ローマ)帝国そして近世オスマン帝国などの都として、1600年間(330–1922年)にわたり、世界で主要な地位を占めてきた。現在の都市面積は5,343km2で、都市圏人口は1,400万人を数える。ユーラシア大陸をヨーロッパとアジアとに分ける海峡海路は、北は黒海から、南はマルマラ海を経て地中海へと続き、今でも年間4万隻もの船が、黒海のクリミア半島などを出て、この地を通り中東、アフリカなどに向かっており、世界で最も混雑する航路のひとつとなっている。
 市街の内、ヨーロッパ側にある三角形の半島(20km2ほど)は、旧市街(世界遺産「トプカプ宮殿(写真1)」、「スルタンアフメト・モスク」などがある)で、三方を海(マルマラ海とボスポラス海峡、写真2、そして金角湾)に囲まれた天然の要害で、この自然地勢が強固な城壁と一体となって、古代・中世の間、敵の攻撃から、この地を守ってきた。新市街は金角湾を挟み、その北側に広がっている。これらヨーロッパ側の市街が、今日のイスタンブールの都心部を形成している(図1)。
 また、近年はボスポラス海峡を跨ぐように、長さ1kmを超える3つの自動車橋(1973年、1988年、2016年完成)と、長さ14–15km(海底部1.4–3.4km)を超える3つの海底トンネル(2013年 鉄道、2016年 道路完成、2022年 鉄道+道路が完成予定)が、ヨーロッパとアジアを結び、市街の一体化が進んでいる。さらに、近年、黒海に臨む世界一の巨大空港の建設が進み、都市のアクティビティが増している。このように近代化の進展するイスタンブールであるが、ここでは火器導入により戦争方法を一新、時代を画す大転換をもたらした、中近世の頃を中心に取り上げる。

【ラテン人の都】
 この地の起源は、バルカン半島から移住してきたトラキア人の集落に求められる。しかし、BC7世紀(BC658年)に、現在の旧市街に都市を築いたのはギリシャ人の入植者で、彼らが建てた植民都市「ビザンチオン」は旧市街の半島先端部にあり、城壁に囲まれ、こじんまりとしていた。BC6世紀初め、ペルシアが勢力を拡大してこの地を支配下に置くが、BC4世紀後半には、マケドニアのアレクサンダー大王の東征によりこの地は解放される。その後、漁業や海洋交易の基地として栄えるが、BC1世紀中頃、ローマ帝国が自国の領土に編入し、324年から330年にかけて東方領の新都として、コンスタンティノープルが建設される。
 395年、ローマ帝国が東西に分裂(西ローマ帝国は410年に滅亡)すると、コンスタンティノープル(330–1453)は、ローマ帝国東方領(ビザンツ帝国)の首都となる。その後、次第にギリシャ人の力が増し、ギリシャ正教の総主教首座が置かれる。7–8世紀、イスラム教の普及に伴い、度々アラブ民などの侵攻を受けると、人口は漸次減少、市街に空地が目立つようになる。しかし、9世紀にはビザンツ文化の中心として復活、中世温暖期に入る1000年前後には、人口30–40万人を数える(図2)。その後、この地は、十字軍(カトリック教徒)が、一時期、ヴェネツィアの海軍力・経済力に支えられ、ラテン帝国を建国するが、ほどなくビザンツ帝国の都・コンスタンティノープルとして復活。キリスト教正教会の活動拠点として繁栄を続ける。
 11世紀、モンゴル帝国が、アナトリア(現トルコ)に勢力を誇っていたチュルク系遊牧民の流れをくむイスラム国家、セルジュークトルコを滅ぼす。しかしモンゴルは皇帝位をめぐる争いで内部分裂し崩壊。その後この地に分立する諸勢力の中から、チュルク系オグズ族のオスマン家が台頭する。オスマンは合従連衡等により勢力を拡大。バルカン半島に渡り領土を広げると、その統治理念(寛容と公正)に基づき、多彩で有能な人材を確保して隆盛し、成長段階に応じ順次組織を整え、統治力を高めていく。1453年、オスマン帝国の第7代スルタン、メフメット2世は、大砲(砲身は長さ8m、600kgの石を1.6kmも飛ばす)を導入するなど戦闘方法を一新、ビザンツ帝国の都・コンスタンティノープルの堅固な城壁を攻略する。

【ムスリムの都】
 ビザンツ帝国が滅びると、順次、帝国のイスラム化が進展する。即ち、キリスト教教会はモスク(礼拝所)に転用され、アヤ・ソフィア大聖堂(写真3)のモザイク壁画も、漆喰により塗り込められ、その姿を消す。また、都の名も「コンスタンティノープル」から「イスタンブール」に改められる。しかし、皇帝は、税さえ納めれば、異民族・異宗教の活動を容認。また才あれば、帝国の経営にも参画させた。1538年オスマン帝国が「プレヴェザの海戦」を制し、地中海の制海権を握ると、この地は国際交易の中心として隆盛する。15世紀に10万人ほどに落ち込んだ人口も、16世紀前半には40万人、同末には70万人に達する。
 イスタンブールは、ユーラシア大陸の東西を結ぶ陸路と、ユーラシアとアフリカとを結ぶ南北の海路が交わり、世界の十字路と呼ばれる「海峡都市」で、洋の東西を結ぶ架け橋としての役割を担っている。このためオスマン帝国(図3)は宿駅制を確立し、各地に一定間隔で無料の宿泊施設「サライ(隊商宿)」を置き、商業交易の活性化を図った。こうして帝国が隆盛していくと、ビザンツから続くギリシア・ローマの文明と東方アジアの文明、またキリスト教やイスラム教という異質な文化が、時代ごとにこの地に遷移してきて交錯する。多彩な市民活動の軌跡が、重層的に大地に刻まれていくと、その刻印としての建造物群等が、悠久な時の流れの中、次第に歴史的文化的価値を増し、1985年、世界文化遺産に登録される。
■Column 1
遊牧民の活躍──匈奴からオスマンまで
 遊牧民(実力主義、人材重視)の歴史は長い。しかし、彼らの内には文字もなく、記録も残していない種族が多く、その生態はいまひとつ明らかでない。存在が確認されている匈奴、スキタイあたりから、鮮卑、突厥やウイグルを経てモンゴル、またセルジュークを経てオスマンへと続く遊牧民は、馬の扱いや騎射技術に富み、農耕民に比べ桁違いに戦闘が強かった。匈奴は中央ユーラシアの草原地帯に広がり、スキタイで騎馬に相応しい道具が開発され普及すると、漢帝国は匈奴を国境警備に用いる。その後、匈奴は分裂し北匈奴は西へと移動、フン族としてゲルマン民族大移動の引き金となる。モンゴル高原の南匈奴は、隋唐帝国の支配層となる鮮卑へ、また安史の乱で唐を助けたウイグルへ、と主力が移る。また、ウイグルはモンゴル帝国の知恵袋として、その隆盛に寄与する。9~10世紀、気候変動寒冷化を受け、中央アジアのチュルク系遊牧民は、西へと進みイスラム化、セルジュークトルコ(1038~1157年)を組織、1055年バグダードに攻め込むが、後、モンゴルの進攻にあい解体、その過程でアナトリアのチュルク系オグズ族のオスマンが率いる戦闘集団が、聖戦を制し帝国化していく。
図4 ビザンツ帝国時代のコンスタンティノープルの7つの丘
出典:ウィキメディア・コモンズ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Byzantine_Constantinople-en.png
(丘の位置は筆者が追加)
写真4 ヴァレンス水道橋
出典:ウィキメディア・コモンズ
https://ja.wikipedia.org/wiki/ファイル:Valens_aquädukt02.jpg
写真5 エミノニュ港のシルケジ桟橋
撮影:筆者
写真6 「ガラタ橋」と新市街の丘の上に建つ「ガラタ塔」
出典:「Trip.comガラタ塔」挿入図
https://jp.trip.com/travel-guide/attraction/istanbul/galata-tower-80387/
帝都の都市づくり
 イスタンブールの前身、コンスタンティノープルは、ローマ帝国の新しい都として、ローマを模してつくられた。すなわち、この地を形づくる7つの丘(図4。第1から第6までの丘は、旧市街北側、金角湾沿いに半島東端から北西方向に並ぶが、第7の丘は半島の最も西側で、テオドシウス城壁の中ほどに位置する。最高地は海抜288m)を活用し、宮殿、大聖堂、教会、公衆浴場、劇場等々の、主要な建築物や広場が配置される。また、359年には、それ以前よりあるセウェルス城壁の西4.5kmほどの地点に、金角湾とマルマラ海を結ぶ形に、コンスタンチヌス城壁が建設される。この市域拡張に伴い、コンスタンティノープルは、人口約20万人を擁する都市となる。この頃、「アヤ・ソフィア」(写真3。326年建立、焼失に伴い415年と537年に再建。モスク建築の様式を確立したシナンが参考にした)や、「ヴァレンス水道橋」(写真4。378年完成)など、いまも人びとに愛される優れた建造物が建設される。
 この後、市域の拡張が必要となり、413年に城壁がさらに西方に2kmほど動くと、市街には壮麗な宮殿のほか、元老院や迎賓館、競馬場、そして数多くの教会が建ち並んでいく。このテオドシウス城壁(空地を挟み高さ12mと8.5mの二重の防御壁をもつ)は、外側に幅20mの濠を備えた長さ6kmの堅固な城壁で、海と一体になって都を守った。そして6世紀、3万人収容の競馬場(400m×120m)で、戦車競走(年間100日)などのイベントが開催されるなど、7世紀頃までローマ帝国同様、市民は無料配布されたパンとサーカスに、充実した日々を送った。その後、イスラムや十字軍の攻撃をうけ、これに抗戦。しかし、1453年のオスマン帝国の進撃をかわすことはできず、政変となり、この地はイスラム都市へと変わる。こうして支配者がオスマンに代わると、半島の東端サライブルヌの丘(70ha)には、帝国の悠久な繁栄をめざし、スルタン(皇帝)が暮らす、「トプカプ(「大砲と門」を意味)宮殿」が建設される。

【都市構造と土地利用転換】
 旧市街を中心に、ビザンツからオスマンへの都市構造の変化をみる。ローマ帝国の時代、東方領の新都として、まず、旧市街東端で、今日のスルタン・アメフト地区の中央、「アヤ・ソフィア」の前に「アウグストゥス広場」が築かれ、ここを起点に西の陸側に向け、樹木が幹から枝分かれし伸びるように、放射状に大通りが整備される。そして道路の分岐点など主要な個所に、広場(コンスタンティヌス広場、テオドシウス広場、牛の広場、アルカティウス広場など)や主要な建築物(アヤ・ソフィア大聖堂、聖使徒教会、ギリシア正教総主座など)が配置される。
 これがオスマン帝国の時代になると、大通りの骨格は変わらずとも、欧風の広場は、イスラムの広場として残るものもあったが、多くはモスク(礼拝所)やサライ(隊商宿)などに転用される。主なものをあげると、7つの丘のうち旧市街東端の第1の丘は、古代ビザンティオンの「アクロポリス」から「トプカプ宮殿」に転用され、その南には「アヤ・ソフィア(改修)」や「ブルーモスク」が立地する。第2の丘の辺りは、「コンスタンチヌス広場」から「バャズィト・モスク」や同広場、また「グランド・バザール」に。第3の丘は、北側に「スレイマニエ・モスク」、南は「旧宮殿(今日のイスタンブール大学)」に。第4の丘は、「聖使徒教会」から「ファーティフ・モスク」に。第5の丘辺りは、「キリスト正教会総主教座」から「ヤヴズ・セリム・モスク」に代わるなど、順次、イスラム化が進んでいった。
 政変後、メフメット2世は、人口が減り空地が目立つ市街に、富裕商人と職人は強制的に、その他の人びとは税の減免と住居の貸与により誘導する形で、ギリシャやアルメニア、中央アジアなどから人の移住を促した。これに伴い市街は建築活動が活発化、次第に浸食され密集化が進む。すなわち、街区内には路地が迷路のようにめぐり、狭隘化や袋小路化が進む。また、起伏ある荒々しい自然地形をうけ、道は急坂や行き止まりとなったり、防衛目的で大きく曲げられたりする。
 なお、この地は海峡に面し、取水源となる水量豊かな川がなかったことから、都市化にあたっては、生活水の確保が課題となった。そこでビザンツ帝国の375年頃、皇帝が、旧市街の西部郊外、ハルカルという場所から、半島の北西部より東に向け、「ヴァレンス水道」(写真4。高さ20m、長さ1km)を建設、街の中心部の広場地下などに、多数の貯水庫を整備し、水を供給した。
 オスマン帝国に代わると、このローマ時代の給水路を基礎に、複数の給水網が追加整備される。ひとつは丘の上の「ハルカル給水路群(5本)」で、これは北方のキャウトハーネや黒海に近いベオグラードの森を水源に、丘の上のモスクなどに供給すべく、丘陵地の尾根に沿い整備される。また、16世紀に入ると、その南側にも5本追加される。さらに、16世紀半ば、人口増加に対応し、丘の中腹から下の住宅地区をカバーするべく、キャウトハーネを水源とする、「クルクチェシメ給水路群(6本)」が、幹線は等高線に沿い、また枝線は海に向かって伸びる形に整備される。
 これら給水路の末端には、「チェシメ」という給水栓が設置され、住民等の取水口となる。これもワクフ制度(16世紀には都市整備関係で、4,000件近い活用実績があった)を活用し整備された。

【市街の整備】
 起伏の激しい大地、迷路状の道路網を持つ市街において、モスクは、丘の上などの平場につくられ、唯一地形から解放された特異な存在となっている。室内は平らな床にカーペットが敷かれ、多くの人が靴を脱ぎ礼拝を行ったり、たむろして時を過ごす。イスタンブールでは、日本同様、街中に広場を見かけることは少ない。それは、モスクが存在しているからで、旧市街(ムスリムとその他の割合は6:4)には、400を超えるモスク(礼拝堂)や教会がある。
 旧市街の「ガラタ橋」のたもとに位置する「イェニ・ジャーミィ」(1663年建設)の西側には、イスタンブールの街の雰囲気を最もよく醸す「エミノニュ広場」がある。この広場の雑踏の中に暫し佇むと、ミナレットからコーランを詠む声が流れてくる。しかし、その間も「シルケジ桟橋」には、たくさんのクルーズ船がひっきりなしに発着する(写真5)。この桟橋に面し、欧州人の憧れ、レトロムード漂うオリエント急行の終着駅の「シルケジ駅」(1888年に建設)がある。「ガラタ橋」の向かいは新市街で、ビザンツ帝国の時代より、地中海貿易を担うジェノバ商人の居留地などがあったが、17世紀以降は、イギリス、フランスなどヨーロッパ諸国が領事館や教会を建築していった。丘の上に建つ「ガラタ塔」(写真6。高さ67m、円錐形、1348年建設)は、新市街の城壁北側に位置し、見張台として建てられた。
 イスタンブールは、オスマン帝国の繁栄に伴い都市化が進展、市街は城壁や海を越えて広がる。市街にある住宅等の家屋は、ローマ、ビザンツの時代は石造であったが、オスマンの時代にはトルコ式となり、木造・土塗壁で、道路に面した1階部分には窓はなく、2階部分が迫り出すなどして建てられた。
■Column 2
オスマン帝国の隆盛と衰退
 オスマン帝国の隆盛は、合理的な国家運営にあった。帝国はアナトリアのチュルク系オグド族を核とする、騎士団として組織されるが、領土拡大に伴い多民族が複合する国家となり、巨大組織の経営が課題となる。そこで遊牧民の思想とイスラムの理念(平等)に従い、中央集権体制を確立、権力の硬直化の回避に向け、地縁や血縁を排し非世襲・能力重視の、近代的な人材登用制度「デヴシルメ」を確立する。具体には、新領土バルカンの地などから、キリスト教徒の才覚ある少年を徴発、英才教育と訓練を施し、能力・適性に応じ、宰相を取り巻く官僚や、鉄砲などで武装する近衛部隊イェニチェリに登用する。また、これにティマール(軍事封建)制下の、地方封建騎士スィパーヒー(給与の代わりに土地の徴税権を付与、戦時には管理下にある農民を率い戦う)をあわせ、強力な軍団を組織し国家の統治機構を形成する。しかし、領土拡大(土地分配)がなくなると皇帝の指導力は低下、夫人・宰相政治が横行、デヴシルメも廃止され、官僚やイェニチェリ等の世襲化が進展、変化への対応も遅れ、度重なる遠征で財政難に陥る。重税化を図ると農民が反乱、ティマール制も崩れ大土地保有が進行、スィパーヒーに代わりアーヤーン(地方名望家)が徴税請負人となり、得られた産物を輸出し富を築く。そうして地方が自立の動きを強めると、税収がさらに減少する。これは帝国衰退に向けた、いつか来た道である。
写真7 ミマール・シナンによる「スレイマニエ・モスク」
出典:ウィキメディア・コモンズ
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:PIC_2004-08-20_11-24_9538.jpg
写真8 スルタンアフメト・モスク(ブルーモスク)
撮影:筆者
写真9 ブルーモスク内部
出典:ターキッシュ・カルチャー・クラブ「世界で最も美しいと称されるブルーモスクの見どころは?」挿入図
https://worldclub.jp/turkish/blue-mosque/
写真10 屋根付きの巨大市場「グランド・バザール」
出典:ウィキペディア「カパルチャルシュ」挿入図
https://ja.wikipedia.org/wiki/カパルチャルシュ
イスタンブールの建築とまちづくり
 旧市街第3の丘から少し北に下った所に、帝国の最盛期、トルコ史上最高の建築家といわれるミマール・シナンが設計した、「スレイマニエ・モスク」(写真7。完成は1557年)が、傑出した存在感を示す。このモスクには、他に学院(4カ所)、高等学院、医学校、初等学校、病院、救貧給食施設、公衆浴場(各1カ所)等の公共施設が一体的に建築され、まちづくりの核となっている。
 この「スレイマニエ・モスク」のデザインは独特で、幾重にも重なる安定感あるドームと、天を貫き祈りの時を告げるミナレットなど、その空間構成の独自性と合理性、また幾何学的秩序を重視する設計手法は高く評価されている。このイスラム都市(とりわけオスマン帝国の都市)の、独特の公共建築の複合体による建築まちづくりシステムを「キュリエ」という。これは帝都復興のモデルとなった、「ファーティフ(メフメット2世)・モスク」に初めて適用された手法で、ワクフ制度を活用し、モスクを中心に、公共性の高い社会施設(マドラサ(高等学院)、サライ(隊商宿)、ハンマーム(公衆浴場)、病院、市場など)をコンパクトにまとめ、街の核となる部分をつくり上げ、維持運営する手法である。
 この宗教上の寄進制度を活用した建築手法は、今日のまちづくりにも応用できる可能性がある。たとえば、地域活性化を担う商業・業務・住宅・文化施設等の複合開発などにおいて、大学サテライト・研究所、劇場・ホール、映画館、美術館等の施設を組み込み、一体的に整備する場合、事務所、店舗、ホテル、共同住宅(賃貸)を財源と捉え、その収益の一部を、大学サテライト、研究所、劇場、ホール、映画館、美術館等の建設・運営に活用することで、まちのブランド化を図り、集客力を増し、賑わいあるミクストユース型のまちづくりを推進することができる。
 イスタンブールには、有名建築が数多く存在する。そのひとつがビザンツ建築(ギリシャ+キリスト教文化)の最高傑作といわれる「アヤ・ソフィア」である(イスラム化された15世紀末、ワクフ制度の下で、市内3,927店舗の6割以上が、この施設の維持管理のために費用を徴収された)。また、これの向かいに「世界で最も美しいモスク」といわれる、「スルタンアフメト・モスク」(1616年に完成、別名「ブルーモスク」、写真8)が建つ。6本のミナレットと、高さ43m、直径27.5mものドームをもち、内部(写真9)はブルーのイズニックタイルやステンドグラスで設えられている。
 さらに、もうひとつイスタンブールを代表する、建築を紹介しよう。旧市街の歴史地区内にあり独特の風情(雑踏、混濁、喧噪、無秩序)を醸す、異国情緒溢れる屋根付きの巨大市場、「グランド・バサール」(写真10)である。この施設は、欧米には例を見ないタイプの商業施設で、観光客に絶大な人気を誇っている。この市場は1455年から1461年にかけ、メフメット2世の命で建設され、16世紀に拡張がなされたが、1894年に大地震に遭い縮小を余儀なくされた。それでも現在3万㎡の規模を有し、19の門を抱え、内部に66もの通りがあり、毎日20万人が出入りするまちとなっている。この市場は、これまで増築を繰り返し、現在4,000近い店舗が密集、まるで迷宮のような雰囲気を醸している。これらの施設を一歩引いて見ると、日差しが厳しい、この地の気候・風土を反映した、屋内型の広場、市場ともみてとれる。
 イスタンブールは、ユーラシア大陸の中央に位置、東西、南北に伸びる、陸と海の交通・輸送の結節点という地勢から、ローマ、ビザンツ、ラテン、オスマンと1600年もの間、帝都が維持される中、異質な文明相互がこの地で出会い、交錯・融合する過程で、コスモポリタンが育ち活躍。街中は各国の言語が行き交う、世界的な国際都市となっている。
 この地は、これまで世界地図(国柄)がいくら塗り変わろうと、人や物が行き交い躍動感のある「商人と旅人のまち」としての都市の性格は、今も昔も変わらない。イスタンブールは、経済活動の広がりと、コスモポリスとしての自由で寛容な文化が、多くの民族・宗教を引き寄せ、この地で異質なもの相互がぶっかりせめぎ合い研磨される中、その刻印として歴史的建造物が大地に重層的に堆積し、独特の雰囲気を形成、世界的な歴史都市としての風格を醸し出している。
 このイスタンブールの事例が示すように、都市を持続的に発展させていくためには、その土地がもつ固有な価値を見出し、それにデザイン面や制度上の工夫を施すとともに、必要な技術を開発するなどして、順次、大地の上に時代のニーズを反映させる形で、蓄積されてきた歴史的文化的価値に磨きをかけ、土地の魅力の増進を図ることが肝要となる。
■Column 3
ミマール・シナンとモスク建築
 シナンは、イェニチェリ出身で100歳近くまで生きた。彼は人生の前半を軍・工兵として、水道橋や城壁などの建設に携わるが、50歳を過ぎ宮廷建築家となると、宗教施設などを設計する。彼のモスク建築の大屋根は、大ドームを頂点に、その脇に小ドーム群を配したピラミッド型で、雄大壮厳で安定感を醸す。また、隅にミナレットが聳え、崇高さを演出することで、空間的均衡を保つ。内部は、アーチを取り入れ、柱、立壁、側廊などがドームを囲み、開放的で大容量な空間を構造的にも無理なく納める。壁はイズミクタイルが幾何学的文様を描き、落ち着いた雰囲気が漂う、また窓から光を取入れ、求心性を生み出している。ドームやアーチは曲線を描くが、その他は曲線を避け、空間の機能性に留意し、内から外にいくに従い、四角形や六角形など、角形を基本とした形状に変化していく。しかし、建築空間は一定の比率を保ち、システムとして統合されており、デザイン面でも構造に留意し幾何学的な調和を志向している。こうしてシナンは、ギリシア建築がもつ芸術性やローマの技術に留意、空間の簡素化にも意を注ぎ、オスマン様式としてドーム屋根をもつ、堅牢・雄大なモスク建築の規範を創造する。

[参考文献]
鈴木薫『図説 イスタンブル歴史散歩』河出書房新社、1993年
鈴木薫『オスマン帝国の栄光』創元社、1995年
後藤明『イスラーム世界史』財団放送大学教育振興会、1997年
井上浩一『世界の歴史11 ビザンツとスラブ』中央公論社、1998年
永田雄三・羽田正『世界の歴史15成熟のイスラーム社会』中央公論社、1998年
陳舜臣『世界の都市の物語イスタンブール』文藝春秋、1998年。ビザンツ攻略からトルコ共和国までの歴史や文化を、観光スポットに絡め簡潔に分かりやすく描いている。
根津由喜夫『ビザンツ 幻影の世界帝国』講談社、1999年
中丸明『海の世界史』講談社現代新書1480、1999年。近世大航海、中世地中海について記述。
後藤明『ビジュアル版 イスラーム歴史物語』講談社、2001年。紀元前の西アジアの歴史から起こし、特に世界の中心をなした中世期のイスラム世界の歴史を丹念に描いており、これまで私たちが習ってきたヨーロッパ中心の歴史の見方の修正が迫られる。
新井政美『講談社メチエ237 オスマンvsヨーロッパ』講談社、2002年
根津由喜夫『世界史リーフレット ビザンツの国家と社会』山川出版社、2008年
林佳世子『興亡の世界史10 オスマン帝国500年の平和』講談社、2008年
杉山正明『日経ビジネス人文庫 遊牧民から見た世界史』増補版、日本経済新聞出版社、2011年
北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』ミネルヴァ書房、2018年
宮下遼『物語 イスタンブールの歴史』中央公論新社、2021年。1600年に及ぶ帝都イスタンブールの歴史的変遷が描かれている。
コンスタンチィノーブル、イスタンブール
https://en.wikipedia.org/wiki/Constantinople
河村 茂(かわむら・しげる)
都市建築研究会代表幹事、博士(工学)
1949年東京都生まれ/1972年 日本大学理工学部建築学科卒業/都・区・都市公団(土地利用、再開発、開発企画、建築指導など)、東京芸術大学非常勤講師(建築社会制度)/現在、(一財)日本建築設備・昇降機センター常務理事など/単著『日本の首都江戸・東京 都市づくり物語』、『建築からのまちづくり』、共著『日本近代建築法制の100年』など