木はゆっくりと力強く
古民家から学ぶエコハウスの知恵③
丸谷 博男 一級建築士事務所(株)エーアンドエーセントラル代表/(一社)エコハウス研究会代表理事
 人類は、「木」と共にこの地球環境の中で営々と繁殖を継続し、今日に至っています。その利用は、食物、道具、狩猟用具(武器)、建築、塗料(漆ほか)、車輪、船、橋、土木資材、衣類(シナ布ほか)、薬品(正露丸ほか)、楽器、紙、そして燃料(煮炊き・製鉄・製塩・窯業)など限りを知らないほどに多様でした。また今日も継続して使用しています。
 木は、私たちが優しさを自然に感じ取ることができる、とても不思議で根本的な素材です。そして、その木は人類と同じように、無から有を生じ、育ち、成長し、一人前となり、人類よりも遥かに長い年月を生き続け、地球に欠くことのできない存在として、約1億年、その生命を維持し進化してきました。動物のように、大地を離れ、自由に動き回ることはできませんが、逆に根を張ることで、いかなる暴風雨に晒されても、飛ばされることなく、大地をしっかりと守り、見つめ続けて来ました。
図1 正倉院正倉
木造の収蔵庫「正倉院正倉」の熱的働き
 756(天平勝宝8)年6月21日、光明皇太后は夫である聖武太上天皇の七七忌に際して、天皇遺愛の品約650点、及び60種の薬物を東大寺の廬舎那仏(大仏)に奉献したのが、正倉院宝庫建立の始まりと考えられています。
 正倉院正倉は東大寺大仏殿の北西約300mに位置している高床倉庫です。全体としては総ヒノキの本瓦葺き寄棟造り、総高約14m、間口約33m、奥行き約9.4m、床下約2.7m、直径約60㎝の丸柱石場立てです。平面的には北倉(ほくそう)、中倉(ちゅうそう)、南倉(なんそう)に区分されています。そして、それぞれが2階構成+屋根裏の断面構造を持っています。北倉と南倉はいわゆる校倉造り、中倉は板倉造りとなっています。北倉は主に聖武天皇・光明皇后ゆかりの品が収められ、中倉と南倉には東大寺の儀式関係品、文書記録、造東大寺司関係品などが収められていました。1960(昭和35)年5月までは宝蔵庫として使われていましたが、その後宝物は新築された東西の宝物殿に移されて約1200年の収蔵庫としての役割を終え、現在は建築だけが残されている状態です。(修理の詳細状況は、宮内庁のホームページを参照下さい。http://www.kunaicho.go.jp/event/shososeibi/shintyoku-2.html#h2404
図2 正倉の断面図 参考資料:YOMIURI ONLINE 正倉院展キッズサイト(http://mik2005.jp/shosoin/kids/shosoin.html
図3 正倉の中で使われていた唐櫃(スギ製)
図4 正倉院正倉南倉梁間断面詳細図
 まずは、木造収蔵庫である正倉院正倉の特徴を整理してみます。(図1、2、3、4)
 ・配置は南北に長く、東面を正面にし、西面を裏側にしている。
 ・北倉と南倉は校倉造り、中倉は板倉造りとなっている。
 ・1階床板は厚50〜70㎜前後のヒノキ材、中倉の板壁は厚60〜80㎜前後のヒノキ材を使用している。年輪年代法からは約1200年前の材料とされている。
 ・屋根構造は、地垂木・野垂木、裏板、野地板、野小舞、土居葺き(サワラ10㎜厚)、土留め桟、葺土、平瓦、丸瓦という構成をしている。
 正倉院正倉の建築概要は以上のようなところです。この正倉について一般にいわれてきたことは、校倉の構造が「乾燥時には隙間が空き外気を取り入れ、湿潤期には木が膨らみ隙間がなくなり、収蔵している宝物を護っている」ということでした。
 この説を初めに唱えたのは、江戸時代後期の学者、藤貞幹(とう・ていかん)だったとされています。しかし、その後の科学的な調査により、総ヒノキ造りの校倉造の収蔵庫は基本的には通風系で、太陽からの日射を防ぎ、風通しにより黴びる条件を防いでいること。温湿度的には、宝物を収蔵しているスギ製の唐櫃(からびつ)による効果が大きいこと、そして木造の収蔵庫であることが調湿の助けになっていることが明らかにされています。また、木材の熱容量による毎日の昼夜の温度変化を和らげているという効果も確認できます。宮内庁発行の『正倉院紀要』にある成瀬正和氏の報告に以下(表1、2)のような結果が発表されています。(平成13年10月〜平成14年9月にかけての調査データ)
表1 1日の年平均温度変化幅
表2 1日の年平均相対湿度変化幅
 この調査結果から、床下が外気である1階は2階よりも温度変化が大きいことが分かります。北倉と南倉とでは、日射の影響の大きい南倉の方が温度変化が大きいことも理解できます。また、北倉と南倉に囲まれ外気に触れる面積の小さい中倉は、本来であれば温度変化が少なくてすむはずですが、結果はいちばん温度変化が大きいことが分かります。
 相対湿度についても同じことがいえます。これは、校倉造りの壁の方が板倉造りよりも熱性能と調湿性能に優れているという結果と理解できます。つまり、このデータからは、自然環境(空調装置のない)の中の木造収蔵庫としては、気密性の高い板倉造りよりは、通風系の校倉造りの方が、より収蔵されている宝物に好ましい環境をつくることができるということを示しています。
 そして、いよいよ唐櫃の効果について考えなくてはなりません。建築という箱の中にもうひとつの箱があるというかたちになります。さらにこの箱には足がついているため、6面が通風系となっています。これにより、1年を通して温度変化が少なく湿度変化も少ない状況がつくり出せているのです。現代建築を外箱と内箱という二重構造と考えると、この構造に何か次世代の木造構造の可能性を予感できるのです。現在は、間の空間を断熱材で充填し通気しないようにしているのですが、そうではなく通風系にすることに意味があることを予感させられるのです。また、1階床下の外気の影響が大きいことは、1万年以上の長い期間、人々が竪穴住居に暮らし、高床倉庫には住まなかった理由をここに知ることができるのです。寝殿造に暮らしを求めた平安貴族たちは、冬の寒さに耐えかね、置き畳を活用し、着重ねるだけではなく、寝室を和紙や布で覆ったり、土や漆喰で塗り籠めにしていきました。
 もう1カ所、屋根にも注目したいと思います。まずは、約3.6mも延びる深い軒の出の効果が大きい。そして、幾重にも部材が重なる土居葺き下地による本瓦葺き(葺土を利用)であることが大きい。木材と土による瓦葺き工法には、多層の空気も重ねられています。これらの総合効果による遮熱構造が大きく働いていると考えられます。その根拠は、3つの倉の温度変化幅が1階よりも2階の方が少ないという計測値にあります。現在われわれが建てている木造建築のほとんどは、正倉院正倉とは逆に、1階よりも2階の方が温度変化幅が大きいのです。さらに、西向きの外壁面が大きい正倉ではさらに不利になるはずであるのに、そうはなっていないことに驚かされるのです。
図5 宮良殿内平面図
図6 上a:コンクリートブロック造の民宿と、下:宮良殿内の室温湿度変動曲線。
石垣島の宮良殿内(みやらどんち)──板壁の沖縄伝統民家1
 宮良殿内は、1819(文政2)年ごろ、地頭だった宮良当演によって建立された大きな木造住宅。本瓦葺き寄棟平屋、板壁、桁行15m、梁間13mという建築です。主要材はイヌマキ(チャーギ)、柱は150mm角、外壁は貫を表と裏から挟んだ板壁となっています。軒先は、沖縄の伝統であるアマハジの構造を取り、軒の出は1.5mほどあります。屋根は、細竹の簀子を垂木の上に敷き、さらに葺土を敷き、本瓦葺きとなっている。本州との違いは、丸瓦が大きく平瓦の見える面積がたいへん小さくなっていて、屋根面から受ける熱負荷が小さくなるように工夫されていることです。
 花岡利昌氏の実測記録があるのでこれによってこの民家の温湿度性能を見てみましょう。計測は、近所にある陸屋根のコンクリートブロック造の民宿と比較しています。計測は1983年7月16日から23日に行われています(図6)。
 これによると、「宮良殿内の室温は外気温に較べて変動が緩和されている。室温の高さそのものは、夜間でも30℃を下らず明け方に僅かに30℃を割る程度であるが、外気温の変動の振幅に較べて明らかに振幅が減少していることがわかる。黒球温は室温とほぼ同じか僅かに高く、これは宮良殿内の木造の壁体や天井からの輻射がほとんどないことを示している。湿球温は7月20日4:00頃から観測しているが、それまでの曲線の経過は日周期的な変動はみられない。したがって湿度は室温と逆相関して変動していると考えられる」と記されています(グラフが読み切れない状態でしたので、文章は著書をそのまま引用しました)。
 また、コンクリートブロック造の民宿の方は、明らかに夜間の温度の下がりが少なく、天井や壁体からの輻射熱があり、体感ではかなり暑さを感じていることがわかります。時には室温が外気温を超えていることもあるのです。さらに特徴的なことは相対湿度です。コンクリートブロック造の民宿では夜間に室温が下がると同時に相対湿度が高くなっています。それに対して宮良殿内では、ほぼ相対湿度が一定に保たれているのです。開口部は昼夜開放されている条件下での話なので驚くばかりです。
 (図5、6 引用資料:『伝統民家の生態学』花岡利昌著、1991年、海青社刊)
図7 野原行雄家平面図
左:コンクリート造のトーグラ(離れ)と、右:伝統的な木造住宅。
図8 野原行雄家の室温変動曲線。
上:コンクリート造のトーグラ(離れ)と、下:伝統的な木造住宅。
竹富島の野原行雄家──板壁の沖縄伝統民家2
 花岡利昌氏の実測記録からもうひとつのデータをご紹介します。ここも、伝統的な木造住宅とコンクリート造のトーグラ(離れ)があり、それを対比しての実測データがありました。このデータからも宮良殿内の場合と同じ傾向を確認することができます。伝統木造建築が自然の温湿度環境に対応し、人びとの暮らしに快適な環境をつくり出している様子が理解できます。
 (図7、8 引用資料:『伝統民家の生態学』花岡利昌著、1991年、海青社刊)
図9 旧木曽郡三岳村(現・長野県木曽郡木曽町三岳)の板倉
図10 板倉を改造したアトリエ 1階平面図(1973年に移築・改造)
図11 板倉を改造したアトリエ 断面詳細図
旧木曽郡三岳村の板倉をアトリエに改造
 これは、私の恩師、奧村昭雄の取り組みです。私もこの小屋で生活し、周辺の民家の実測を丸一年大学院時代に取り組みました。また、その後も奧村研究室・木曽奧村設計所のスタッフとしても毎夏合宿していました。温熱環境の測定は残念ながらしなかったのでデータはありませんが、体験だけは豊富にあります。夏は涼しい山間地ですが、冬は−17℃くらいまで下がることがあるように、冬の寒さは厳しいものでした。標高800mほどの高地でしたので、冷房の必要はありませんでしたが、暖房はサンポット社製のポット式石油ストーブ1台だけで充分快適に暮らしていました。断熱は、断面図にあるように20mmの発泡ウレタンと板壁だけでした。
 原建築は、地域では典型的なタイプの板倉でした。当時、三岳村役場の移転があり、それにともなって民家が取り壊されたので、そこにあった板倉を譲り受けることができたのです。これを使用して、現在地に土地を求め板倉のアトリエをつくったのです。
 (図9、10、11引用資料:『ディテール』39号、1974年、彰国社刊)

 木は、特有の育ち方があり、そこにはさまざまな性質が備わっています。人類は、その特性を、試行錯誤しながら理解を深め、道具や材料として、あるいは、薬剤や食料としても活用し、暮らしに欠かせないものとして共生してきました。そして、消費するだけではなく、育てることの大切さも理解し、植林として治山治水を行ってきました。しかし、一方では共生の心を失い、自然の恵みを消費するだけに終始し、その結果、この地球上で培われてきた秩序に重大な破壊を与え、取り返しのつかない惨状もあります。
 私達はこれを直視し、改めて地球の秩序を取り戻すという困難で重大な課題を抱えています。
 木を使うことは、地球再生への最も重要な道筋です。
丸谷 博男(まるや・ひろお)
建築家、 一級建築士事務所(株)エーアンドエーセントラル代表、一般社団法人エコハウス研究会代表理事、東京藝術大学非常勤講師
1948年 山梨県生まれ/1972年 東京藝術大学美術学部建築科卒業/1974年 同大学院修了、奥村昭雄先生の研究室・アトリエにおいて家具と建築の設計を学ぶ/1983年 一級建築士事務所(株)エーアンドエーセントラル arts and architecture 設立/2013年一般社団法人エコハウス研究会設立