草木の香りを訪ねて──世界香り飛び歩記 ⑨
香道に欠かせない沈香
谷田貝 光克(東京大学名誉教授)
左:代表的な香木のひとつ沈香(写真提供:日本香堂)
右:沈香の最高級品伽羅(写真提供:日本香堂)
香木のすぐれもの──沈香
 燻して立ち上る香りを聞くのが香道ですが、そのお香の世界で最も珍重されるのが香木の沈香(じんこう)、白檀(ビャクダン)です。沈香の最高級品が伽羅(きゃら)ですが、その違いは含まれる成分の微妙な違いにあります。白檀は半寄生の高木で、インド、インドネシア、オーストラリアに分布しますが、インド産のものが最も高級で香りもよいといわれています。白檀は最近、インドでの蓄積が減少しつつあるのでインド政府によって厳しく管理されています。
 沈香はジンチョウゲ科Aquilaria属の沈香樹(アガーウッド Aquilaria agallocha)や、Gonystylus属の樹木の損傷部に菌類が付着し、その部分に樹脂分が蓄積して木質部の中に浸み込んで固まったものです。沈香を生じる木としてこのふたつの属がよく知られていますが、このほかにも沈香を生成する木は存在し、その種類によってお香としての香りが微妙に異なるようです。
 菌類などに侵されると、その侵略を抑えるために抗菌性の樹脂などを分泌して抵抗する性質が木にはあります。沈香も実は木の自己防衛のためにつくり出された産物なのです。そして樹脂分の多い部分を原木から削り取ったものが沈香です。樹脂の多い部分を持った木があるとその部分だけを生きている木から切り取っていたようで、現地に行くとえぐり取られて立っている木があるとのことです。沈香探しの名人は月夜の晩に森を歩き、沈香が淡い光を発しているのを見つけて採り出すとも伝えられています。探し当てるのは至難の業のようですが、それだけに質のよい沈香になると小さな木片が想像もできないような高価になるのです。
 インドのアッサム地方やビルマ北部、そしてカンボジア、ベトナムには良質なものが存在します。沈香の原木は比重が0.4ほどなので日本のヒノキやヒバと同じくらいの重さですが、沈香は暗褐色の含油樹脂が豊富なので通常の材よりも重くなり、水に沈むので沈水木と呼ばれ、沈香の名もそのことに由来します。沈香自体に香りはありませんが、熱すると特有の芳香を発するのでお香に使用され、珍重されます。
わが国への沈香の由来
 沈香は7世紀前半、推古天皇の時代に、淡路島に漂着したのが最初であるとされています。
 沈香といえば東大寺正倉院の聖武天皇の遺愛品として8世紀中ごろに収められている蘭奢待(らんじゃたい)が有名です。蘭奢待は雅号で、実の名は「黄熟香(おうじゅくこう)」です。聖武天皇の時代に呉の国から献上されたものといわれていますが、また、弘法大師が中国から持ち帰ったともいわれています。弘法大師といえば、現在の備長炭で代表される白炭製炭用の築窯法を持ち帰ったことでも知られています。
 蘭奢待は全長1.5m、重さ11.6kgのかなり大きな香木です。そして、足利義政、織田信長、明治天皇らが一部を切り取ったことでも知られています。そのかぐわしい香りに時の権力者は酔いしれたに違いありません。ですが、実はこの人たちだけでなくさらに多くの人が切り取ったこともわかっているのです。その数は数十人であるといわれています。保存されている蘭奢待の重さは最初の重さから1kg以上も少なくなっていることからも、そのことがうなずけます。蘭奢待は沈香の中でも最も香木として優れている伽羅に相当するものです。大勢の人が世にも珍しいこの香木の魅力のとりこになったことでしょう。
 沈香はインド、中国から中世のアラビアに次第に伝わっていきましたが、そこでは燻香というよりも沈香の持つ生理作用による薬剤としての利用が多かったようです。
 沈香を産するAquilaria属は、今や白檀と同じように希少種で、絶滅危惧種の利用を規制するワシントン条約CITES(Convention on International Trade in Endangered Species of Wild Fauna and Flora)のⅡ類に収載されています。Ⅱ類は、商業的な輸出入が禁止されているⅠ類よりも規制が緩く、輸出国の許可があれば輸出が可能なものですが、絶滅の恐れを避けるためにも慎重な対応が必要です。香道はわが国独自につくり出された文化ですが、沈香のような素材がなくなることは香道という文化も消えていくことにつながりかねません。
沈香木の植林地。
樹脂分を増やすために幹に孔が開けられている。
発酵用水槽。
沈香蒸留装置。
沈香木の植林による精油採取
 蓄積が減少しつつある沈香ですが、そのような中で沈香のもとになる沈香木アガーウッドを植林する試みもインドネシア、タイ、ラオスなど、各地で行なわれています。ただ、この場合は菌に侵されて沈香となった部分を取り出して香木として利用するのではなく、樹脂分の多くなった木部から精油を採り出し利用するものです。
 人工的に樹脂分を多くするにはこれまでにいろいろな方法が考案されてきています。以下はラオスで見聞きした例です。
 ラオスの首都ビエンチャンから北へ車で2時間ほどの場所に300haほどの広大な土地に沈香木の植林地はありました。車がようやく1台通れるほどの平坦な、それでいて雨に削られ、日照りで乾燥したでこぼこの山道を右に左に揺られながら進むと、腰丈ほどの雑草や雑木の中に直径20~30cmほどの沈香木の林が左右に広がります。近隣の地には製炭用の炭材になるマイチューという木の植林地があり、早生樹ということもあって5年もすれば20cmほどにもなりますが、沈香樹もそれに引けを取らないほどによく成長するようです。
 沈香樹に樹脂分の多い部分をつくらせるのに自然に任せるといつになるかわかりません。それで沈香樹を痛めつける方法が取られます。痛めつけられれば木がそれに抵抗するために樹脂や精油をつくり出すことを利用するのです。
 沈香樹の幹にドリルで孔をあけてそこに穿孔虫が入り込むことが考えられたり、孔に蜂蜜を入れたりすることが行なわれました。孔に薬剤を入れることも考えられました。処理した部分は5年もすると次第に黒ずみ、樹脂分が多くなります。その部分を切り取って蒸留して精油を採取します。沈香精油は主に中東アラブ諸国のムスリムの人たちが好んで使用するのですが、薬剤を使用した製品は好まれず、結局利用に供することはできませんでした。
 樹脂分が豊富になった部分はチップにされてコンクリートの発酵槽に放置されて発酵させて精油分がさらに増量した後に蒸留されます。500kgのチップから1Lの精油が採れるといいますから0.2%の収率です。植物精油の収率としてそれほど高いものではありませんが、高価な値段で売れることを考えればそれほど率の悪いものでもありません。ところがここにも問題があるのです。発酵中にアルコールが生成されるのです。おそらく木に含まれている低分子の糖が発酵してアルコールになるのでしょう。アルコールが含まれる精油もムスリムの人たちに拒否されてしまうのです。結局、収率は低くても発酵せずにチップを直接蒸留して得られる精油が市場にはよく出回っているようです。生きている沈香木の皮を上から下まで剥いで放置し、黒くなった時にチップにして蒸留する方法も行なわれています。
 沈香樹の幹に直径2cmほどの孔をあけてそこに塩ビのパイプを差し込んで、幹を刺激する薬剤を流し込む方法も他の国では行なわれています。
沈香の薬効
 わが国では沈香は香道になくてはならない貴重品で、焚香料として香りを聞くのに使用されます。その独特の香りにはストレスを癒し、気分を鎮める鎮静作用があります。自律神経活動に関わりリラクゼーション効果を持つことが実証されています。楊貴妃の又従兄の楊国忠は天子に会う時に口中剤としての沈香を噛んだといいます。お偉い方に面会するのに気分を鎮めたのでしょうか。
 鎮静作用のほかには疲労回復作用や喘息に効果があることも知られていますし、強心剤や駆風剤などとして漢方にも用いられています。
 沈香に含まれる独特な成分も今では化学的に解明されています。それらの成分による利用が今後さらに開発されていくことでしょう。
 沈香木に傷をつけて樹脂分を多くして精油を採ることを先に述べましたが、香木としての沈香を人工的につくり出すことが多くの人たちによってこれまでにも検討されてきています。しかし沈香になる過程で関わる菌類の種類もわかっているにも関わらず、成功はしていません。それだけに沈香は貴重なのです。人工沈香ができれば沈香本来の価値がなくなるし、世に沈香があふれれば、ロマンも消えることでしょう。やはり自然に任せるのがよいのかもしれません。
谷田貝 光克(やたがい・みつよし)
NPO炭の木植え隊理事長、東京大学名誉教授、秋田県立大学名誉教授
栃木県宇都宮市生まれ/東北大学大学院理学研究科博士課程修了(理学博士)/米国バージニア州立大学化学科およびメイン州立大学化学科博士研究員、農林省林業試験場炭化研究室長、農水省森林総合研究所生物活性物質研究室長、森林化学科長、東京大学大学院農学生命科学研究科教授、秋田県立大学木材高度加工研究所所長・教授、香りの図書館館長(フレグランスジャーナル社)を歴任。専門は天然物有機化学。
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