社労士豆知識 第36回
改正民法と賃金債権の時効 その1
横手 文彦(横手事務所代表)

 平成29(2017)年11月19日の『日本経済新聞』に、未払い賃金(頻繁に問題になってくるのは「未払い残業代」)の請求期限を現行2年から5年に延長することが検討されているという記事が掲載されました。記事ではこの問題について、専らサービス残業を減らし、長時間労働の抑制につなげるのが狙いという文脈で語られておりました。ところで、同年5月26日に改正民法法案が国会で可決・成立したこと(2020年4月1日施行、以後本稿では「改正民法」)は、少しずつ一般にも知られるようになってきているかと思います。今回の改正は、明治29(1896)年に法が制定されて以来の大改正といわれています。中でも時効に関する論点については、しばしば取り上げられてきていますが、「賃金債権」の時効期間が2年から5年になるのではないかという問題提起はこれまで一部の学者や専門家などからも投げかけられており、本稿ではこの問題について解説いたします。
1. 未払い賃金の消滅時効2年の根拠
 平成27(2015)年12月に起きた電通社員の事件は社会に衝撃を与え、政府が働き方改革を推進するきっかけにもなったといえます。この事件で、翌年11月、電通本社等に東京労働局が強制捜査に入り、同社における違法な長時間労働について捜査が行われました。結局、この事件は正式な刑事裁判として電通の刑事責任が法廷で問われることになり、東京簡易裁判所は「違法な長時間労働が常態化し、サービス残業が蔓延していた」として、労働基準法違反による罰金50万円を命じ、この判決が既に確定しています。この判決で押さえておきたい点は、労働基準法違反による罰金というところです。つまり、労働基準法には刑罰を伴う取締法規という側面があるのです。
 その上で、平成29(2017)年11月28日の新聞報道等は、電通が全社的な未払い残業代総額約23億円を支払うことになったことを伝えています。記事によれば、労働基準監督署から指摘を受けた期間は平成27(2015)年4月から平成29(2017)年3月までの2年間とのことです。
 さて、ここでそもそも遡って支払われる未払い残業代がなぜ2年間に限られるのかという点について、法律的な根拠に当たってみたいと思います。まずは、民法ですが、債権の消滅時効の大原則は10年です。労働契約によって生じる賃金請求権は債権ですから、大原則によれば10年遡りが可能ということになってしまいます。しかし、現行民法は、例外措置をいろいろな契約場面ごとに設けていて、賃金債権の消滅時効は1年としています(民法第174条)。一方、労働者の保護を旗印に掲げる労働基準法は、第115条で通常の賃金債権の時効を2年に、退職金債権の消滅時効は5年と定めています。この場面での労働基準法は、民法の消滅時効の特則とされ、優先して適用されることになります。ですから、遡って支払われる未払い残業代請求権の消滅時効は2年という結論が導かれているのです。
2.改正民法で消滅時効は一律5年
 ところが、改正民法では、民法の規定をわかりやすくする観点から、債権の消滅時効のところにあった種々の例外的な短期消滅時効の規定が廃止されています。そして、債権の消滅時効を原則として5年または10年にすることを定めています。5年と10年の違いは、債権の種類によるものではなく、消滅時効の起算点について、現行民法の権利行使することができる時(客観的起算点)から10年という規定に加えて、権利行使できることを知った時(主観的起算点)から5年とする規定が新たに加えられたことによるものです。
 5年と10年の消滅時効は、事案ごとに先に時効が完成する方を適用することになりますが、契約から生じるような債権の時効の起算点は主観的起算点とするのが通常であり、5年と考えるのが基本です。そこで、この改正民法が施行されると、5年という期間が賃金債権にもそのまま適用されるのか、それとも、前述の労働基準法による2年が引き続き適用されるのか、議論の余地が生じることになるのです。
 この点について、長時間労働是正の見地から、すでに動きが出ていて「厚生労働省は働き手が企業に対し、未払い賃金の支払いを請求できる期間を延長する方針だ」と報じているのが、冒頭に紹介した『日本経済新聞』の記事です。厚生労働省は、民法や労働法の学識経験者らによる「賃金等請求権の消滅時効の在り方に関する検討会」を立ち上げ、既に数回の議論が行われています。今後、労働政策審議会(厚生労働大臣の諮問機関)で労使を交えた具体的な時効の議論が進められる見通しです。
 しかし、ここで労働契約によって生じる債権の消滅時効の問題を複雑なものにしているのは、労働基準法115条が、請求権として「賃金債権」ばかりでなく、「災害補償その他の請求権」についても2年の消滅時効を定めていることです。具体的には、現在年次有給休暇の繰越しは、翌年まで、つまり権利の発生から2年という運用の仕方になっていますが、これを改正民法の字義通り5年にしてしまうことがはたして妥当なのかといった問題です。さらに、事業主に課せられている労働者名簿、賃金台帳等の労働関係に係る重要な書類の保存期間が3年間となっている点も、消滅時効との関係で延長の必要が出てくるのかもしれません。
横手 文彦(よこて・ふみひこ)
1959年東京生まれ/1982年早稲田大学法学部卒業後、大手証券会社に入社/2007年コンサル会社に所属/2010年 特定社会保険労務士登録、開業登録/2011〜2016年 日本年金機構 年金特別アドバイザー
カテゴリー:建築法規 / 行政
タグ:社労士