ウィーン国立歌劇場とマーラー
港支部
川又 進(東京都建築士事務所協会港支部、株式会社緒方建築事務所)
外観。
シュヴィント・フォワィエにあるロダン作のマーラー頭像。
夜景。ライブビューイング。
 ウイーン国立歌劇場はドイツ語でシュターツオパー(Die Wiener Staatsoper)、楽都ウィーンの基幹となる建物名であり、ここを本拠とするオペラ・アンサンブル及びその運営組織の名称でもある。建築設計者はエドゥアルト・ファン・デア・ニュルとアウグスト・フォン・ジッカルツブルク。1863年に着工、1869年5月にモーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」でこけら落とし。
 これより先の1857年、ウィーンは近代都市に脱皮するためにオスマントルコの攻囲戦に耐えたウィーンの市壁を撤去して環状道路リングシュトラーセ(Ringstraße)を築造してその沿線に主要な都市施設を集中させる計画を定めている。
 リングシュトラーセそのものは1865年に開通したが、その時点で沿道に予定建築群はひとつも立上がっていない。最初に竣工したのがこの歌劇場と楽友協会の建物である。リングシュトラーセの造成面が当初計画よりも歌劇場正面で高く施工されることになり、すでに工事が進んでいた歌劇場は結果として低く沈み込むことになった。確かに正面の5連のアーチを遠望すると2階にくらべて1階が寸詰まりのようである。竣工前に現場を訪れた皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が「沈んだ箱」と評したとも噂され、設計者ニュルはうつ病になり1868年4月に自殺を遂げている。ジッカルツブルクもそれを追うように同年6月に心臓麻痺で死去した。ふたりの設計者はこけら落しに間に合わなかったわけだ。
 1860年生まれのグスタフ・マーラーは21歳でライバッハ(現スロヴェニアの首都リュブリャナ)歌劇場の常任指揮者となってキャリアをスタート。プラハ、ライプツィヒ、ブダペスト、ハンブルクなどを経て1897年にウィーン帝立・王立宮廷歌劇場(1920年までの旧称)常任指揮者に就任してドイツ語圏音楽界の頂点に上り詰めた。以後の10年、マーラーの厳しいリハーサルによりアンサンブルの精度は格段に向上してヨーロッパ屈指のオペラハウスの地位を確保した。
 第二次世界大戦中1945年3月の連合軍空襲によりオーディトリアム部分が被弾、炎上。正面玄関と大階段および階上のシュヴィント・フォワイエと称する部分のみが損害を免れた。その荒廃ぶりは1949年製作の映画「第三の男」で垣間見ることができる。
 ウィーンにとって必要不可欠な施設である国立歌劇場は大規模な復元・改修工事を経て1955年にカール・ベームが指揮するベートーヴェンの「フィデリオ」で再開し、現在に至っている。
 今日、シュヴィント・フォワィエには歴代の名指揮者のブロンズ製肖像が陳列されている。マーラー(ロダン作)以下、R. シュトラウス、クラウス、ベーム、カラヤン等々が続く。ここではマーラーもシュトラウスもオペラ指揮者としての評価であって作曲家としてではないようだ。マーラーがウィーンで一流の交響曲作家として認知されたのは意外に遅く、愛弟子ブルーノ・ワルターが1960年に楽友協会で第4番の圧倒的な名演を実現したのがほぼ最初だという。実に死後半世紀近くを経てのことである。
 1997年に客席東側2階の広大なゴブランの広間は常任指揮者就任後100年を記念してマーラー・ザールと改称し、その功績を称えることとなった。その一隅にはブルーノ・ワルターのブロンズ像も鎮座している。
川又 進(かわまた・すすむ)
東京都建築士事務所協会港支部、株式会社緒方建築事務所
1950年 東京都生まれ/早大理工学部中退/1979年 緒方建築事務所入社、現在に至る
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