熊本地震応急危険度判定ボランティア
磯永 聖次(東京都建築士事務所協会港支部、タキロン株式会社一級建築士事務所)
深夜の高速道路を軽トラックで熊本へ
 私は、平成28(2016)年4月14日の熊本地震の前震と16日の本震をニュースで知って、その後の余震が続く中、何かできないかと考えていました。東日本大震災の時は、東京でも余震が続き、自宅のこともあって現地でのボランティア活動ができなかったからです。
 そんな中、熊本県から被災建築物応急危険度判定(以下、「応急危険度判定」)を4月末までには完了させたいが、日に日に対象となる建築が増えていき(県民からの要望など)、このままでは4月末までに終わらない状況であると聞きました。東日本大震災では、津波での被害が甚大であり、地震の震動による被害については、あまり報道されていませんでしたが、実は応急危険度判定の完了まで2カ月を要しました。熊本地震では、余震が長期にわたって続いたため、応急危険度判定の依頼が、当初の予想を大幅に超えて増えていったようです。そんな中、熊本県庁に問合せたところ、「ひとりでもいいので応援していただけると助かります」とのお話をいただき、東京から単独で向かうことにしました。
 出発にあたって、東京都庁からも激励のお電話をいただくと共に、くれぐれも現地の行政の負担にならないようにと言われました。そのため、車での寝泊りを想定し、食料、飲料水、寝袋、防災備品など10日間は自立した生活ができる準備をしました。また、応急危険度判定を行うための作業服、安全靴、安全帯、ヘルメットなども、近所のワークマン(作業服量販店)で購入して、現地に迷惑をかけないように、万全の準備をして熊本に向かいました。
 私は、出身が山口県周南市(旧徳山市)で、4月25日(月)の仕事が終わってから、東京駅から徳山駅までは新幹線で移動しました。 徳山駅からタクシーで実家に立ち寄り、実家の車(軽四)を借りて、そのまま真夜中から熊本に向けて車を走らせました。私の実家は、お菓子の問屋をやっているので、避難所に配るためのお菓子(箱詰め)を車に積んで、真夜中の高速道路を走り始めました。真夜中の高速道路はトラックばかりで、こちらが軽四ということもあり、トラックの風圧に怯えながら、緊張感のなか安全運転を心がけて車を走らせました。
 この当時は、まだ高速道路が一部不通となっており、熊本の手前のインターチェンジで高速道路を降りて一般道を走りました。一般道では、まだ早朝(5時ごろ)にもかかわらず、大渋滞で、集合場所である体育館への集合時間に遅れての到着となりました。


左:集合場所の熊本県立盲聾学校体育館で対策本部からの指示を受ける。
右:事前準備作業として調査票を用意。
益城町の被害の大きかった地域。
益城町の被災住宅とアパート。
初日、益城町──悪夢のような光景を前に
 初日は、予定時間を1時間程度遅れての到着となったため集合場所の熊本県立盲聾学校体育館に到着した時には、既に出発しているチームも多く、私は、残っているチームと合流しました。益城町での被害が大きいことは既に報道されていましたが、初日は私も益城町に入ることになりました。
 熊本県全体の体制としては、1〜6班構成で、班ごとに14チーム(1チーム2名)の合計168名が応急危険度判定にあたっていました。写真❶は、正面中央に集まっているのが各班の班長で、対策本部からの指示を受けているところです。班ごとに縦に並んで座っている方々が判定士です。私が現地にいたころは、行政の判定士と民間判定士が半々程度でした。
 事前準備として、あらかじめ被害状況を予測して危険【赤】、要注意【黄】、調査済【緑】の用紙(写真❷)を用意し、当日行く地域に応じて、事前に書き込めるところは記入しました。
 益城町の現場では、いたるところに倒壊した家屋があり、悪夢でも見ているような光景に時折気分が悪くなることもありました(写真❸、❹、❺)。
 被害の大きな全壊、半壊の建物は既に応急危険度判定が終わっていたので、比較的被害の少ない住宅地を判定しました。外観上は傾きもなく普通に建っている場合でも、近づいて見ると基礎に重大な亀裂が入っているもの、ホールダウン金物に損傷があるもの等、余震で被害が出そうな建物には危険【赤】を貼りました。他にも、瓦の落下、外壁の脱落などの危険性があるものも多々あり、多くの方が余震の恐怖から避難所での生活をされていました。
 初日は、徒歩による移動と被害の甚大さからくる精神的な疲労もあってか、ぐったりして車の中で熟睡したことをよく覚えています。


西原村の擁壁の崩落。
金物を使わない伝統工法の家屋だが倒壊していない(西原村)。
イヌも被災者、ネコも被災者(西原村)。
西原村──地元の被災判定士と共に
 2日目は、1班2チームに配属となり、西原村に入りました。時折、雨が激しく降る中、車に一時避難しながら作業にあたりました。地元の建設会社の施工担当の方とチームを組ませていただき、その方の車で移動させてもらいました。その方は、既に5日連続で応急危険度判定を行われており、判定業務が終わるまで続けられると言われ、たいへん驚きました。お話をうかがうと、実はその方自身の住宅も被災し、自宅に入れないため連日車中泊をされているとのことでした。私が「どうしてこんなに応急危険度判定をするのですか? ご自宅のことはいいのですか?」と尋ねたところ、「色々と考えてもどうしようもないから、応急危険度判定をやって少しでも役に立った方がいい」と話されていました。私は言葉を失いました。
 私が入った西原村のある集落は全世帯が40戸程度で、全戸がかなりの被害を受けていました。特に、擁壁の崩落があちらこちらで発生しており(写真❻)、水抜き穴がないことも原因のひとつと考えられました。なぜなら、同じ集落でも、すぐ近くの水抜き穴のある擁壁は無被害だったからです。
 死者も発生したこの集落では、全世帯の方々が、集落を放棄して、別の場所に住むことを話し合われていましたが、それぐらい被害が甚大だったのも事実でした。また、あちこちで、金物を使わない伝統工法の家屋もありましたが、写真❼のように、変形性能が高く、大きく傾いても倒壊していない建物もありました。人命を守る意味では、倒壊しないことが重要であると思い知らされました。
 また、多くの動物(ペット)も被災していました。写真❽は、悲しそうにこちらを向くイヌです。立ち去ろうとすると「クンクン」と鳴いて、「置いていかないで」と叫んでいるようでした。避難所には動物は連れて行けないので、被災した家に繋がれたまま取り残されていました。ネコも家の外で家族の帰りを待っていました(写真❾)。


シロアリの被害があった風呂場部分の崩壊(氷川町)。
氷川町──余震におびえる住民に安心を
 3日目も、1班に入り、氷川町役場から派遣要請があったとのことで、熊本県の建築職の班長さんとチームを組んで、県の公用車で氷川町役場まで行きました。到着後、町長室に通されて、建築担当課長から被害状況の現状を聞いたあと、氷川町役場の防災担当者と一緒に、要請のあった住宅に順番に向かいました。
 住民のみなさんは、どんな立派な頑丈な家に住んでいても、大きな余震が続くため、倒壊するのではないか? という恐怖が常に付きまとっているようでした。あるお宅では、相当しっかりした家(柱が5寸角以上)にもかかわらず、余震を恐れて簡素な納屋の方に寝泊まりされていました。余震があった際にすぐに外に逃げ出せるように、周囲が見通せる方が家の中よりも安心だということでした。
 可能な限り多くの住宅を回って、住民のみなさんの心配事に答えました。やはり、多くのみなさんは余震が怖くて車中泊をされており、われわれが現地で判定した結果で問題のない場合、「大丈夫ですよ。ここの家の中は安全です」とお伝えすると、安心された様子で、「今日から自宅で寝ます」という涙ながらの言葉を沢山いただきました。やはり、みなさんは、誰かに「大丈夫ですよ」と言ってほしかったのだと思いました。
 また、氷川町で目にしたのは、シロアリによる被害でした。特に、湿気の多い風呂場周辺の傷みが酷くボロボロにシロアリにやられているケースが散見されました(写真❿)。


避難所となった益城町総合運動公園体育館の通路。
応急危険度判定を経験して──判定士の困難
 今回初めて被災建築物応急危険度判定を経験しましたが、これはたいへんな作業だとふたつの点で感じました。
 ひとつは、肉体的な面です。基本的に車で移動しますが、安全な場所に車を停める必要があるため、かなりの距離を歩く場合も少なくありません。1日あたりの調査件数も、20軒〜30軒で、住民には市町村から事前に連絡が入っている場合も多く、多くの方が現地でわれわれの到着を待っていました。質問などで長い時には、1軒に1時間以上かかる場合もあり、移動時間を短縮するために走って移動することもありました。お昼もおにぎりを食べただけで、ほとんど休憩時間をとれる状況ではありませんし、休憩をとる気分にもなれませんでした。
 ふたつ目は、精神的な観点からです。連日、被災者の話を聞いて、その非日常的な光景から気持ちが被災者と同調して特殊な精神状態になることです。特に、避難所と自宅を行き来されている大勢の人たちがいる現実を目の当たりにすると、普通の生活をしていることに罪悪感すら抱くようになりました。写真⓫は、いちばん規模の大きい避難所として利用された益城町総合運動公園の体育館の通路の様子です。武道場を含め、体育館内部から人が溢れ、通路にも多くの人が避難していました。この写真は4月30日の様子ですが、本震から2週間経過しても、このような状況でした。建物内に入った瞬間には、いろんなものの匂いが入り混じった「酸っぱい匂い」がして、当時は、このような状態が一刻も早く解消されることを祈りました。
 われわれ、建築に携わる者ができることは少ないかもしれませんが、少なくとも、安全な住環境を設計・監理し、住民に安全・安心を与えることはできるはずです。東京直下地震、南海トラフ地震がいつ起きてもおかしくない状況にあって(南海トラフ地震の発生確率は30年以内に70%)、今回の熊本地震における応急危険度判定の経験は、事前の対策として何をしなければいけないのかを教訓として教えてくれました。地震は、起こらないことがいちばんですが、地震列島に住むわれわれにとって、事前の備え、対策(耐震改修、家具固定、防災備蓄、他にも多数)が重要なことはいうまでもありません。今後も、建築士としての社会的使命、責任を大切にして業務に取り組んでいきたいと考えています。
磯永 聖次(いそなが・せいじ)
東京都建築士事務所協会港支部、タキロン株式会社一級建築士事務所 管理建築士
1985年 国立徳山工業高等専門学校建築専攻卒業後、東京理科大学建築学科編入/1988年 川鉄エンジニアリング株式会社入社/1998年 財団法人建築行政情報センター/2007年 同行政部(日本建築行政会議)/2010年 同 建築行政研究所 上席研究員/2014年 タキロン株式会社
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