路地の意味を考える
連載:ろじろじ 第7回
川田 伸紘(東京都建築士事務所協会北部支部)
へび道。
へび道発見
 購読している新聞の販売店から「森鴎外記念館」で開催している特別展のチケットをいただいた。その場所は森鴎外の旧居「観潮楼」跡として高名であり、夏目漱石や与謝野鉄幹、石川啄木など錚々たる文人の集いの場となったところである。失火や戦災で元の建物は失われ、そこに現在の森鴎外記念館が建っている。団子坂のその地には、近傍で学んでいたにも関わらず訪れたことはなかったが、良い機会と思って出かけてみることとした。
 谷根千(やねせん)と呼ばれるこの界隈は、平成から江戸へタイムスリップしたかのような懐かしさを覚える風情がある。土地勘があるつもりでいたが、地下鉄を千駄木駅で降りて、どうしたことか反対方向に向かって歩いていた。
大円寺
 同じ大きさの唐破風がふたつ並んだ寺の本堂(大円寺)を珍しいとしばし眺めていたところ、奇特にも年配の説明ボランティアの方から、廃仏毀釈を免れたいきさつの説明に始まり、江戸の三美人のひとりとしてもてはやされた笠森おせんや、おせんをモデルに描いて売れたという浮世絵師の鈴木春信に至るまで、たいそう詳しい曰く因縁にまで話が及んだ。話としては面白かったが、実は森鴎外記念館に向かうところであるとようやく話したところで、方角が反対であると告げられ、イラストマップまでいただいた。
 目を凝らしてマップを見ると、不忍通りからひと側入ったところに「へび道」という路地があるではないか。私は無性にそこに行ってみたいと思った(森鴎外記念館はひと通り観覧した!)。
へび道とその周辺
ロケセットになる前に
 へび道とは、かつて藍染川というまちの境界線だった小さな川が暗渠化され、できた道が元の流れのままに曲がりくねっていることからついた名前らしい。ちなみに「蛇道|谷中」をネット検索すると、なんと43,600件あまりがヒットする。とてもではないが余所者が入る余地はないと思い知る次第である。
 「まちあるき」とか「路地めぐり」が広く行われているようだ。レトロな雰囲気を求め、スマホやタブレットを手に若者らが歩いている。何を求め、何を感じているのだろうか。時としてまちなみや路地は、観光地や見世物になり、中には地域ブランドになりつつある。それも時世であり、進歩や前進あるのみといった開発一辺倒の価値観への抵抗かも知れない。だがその煽りというか結果というか、一種のロケセットまがいになってしまう前に、外見的要素を一旦払拭あるいは捨象して、この路地という線状の都市生活空間の意味合いを考えてみたいと思う。
「木密解消」──そんなに路地が危険か
 以前本誌(2008年4月号)に寄稿した中で「路地は都市の毛細血管」というフレーズを用いたことがある。路地はすぐれて地域生活の通路空間であり、近隣の触れ合いの場でもあったのだが、昨今はその役割に、観光の対象ということが加わってきている。ただし、どの路地でもというわけではない。それなりの由緒があるか、まちなみがある程度整っていて、メインの観光地などからほど近くでなければならない。それ以外の路地は、防災上の事由などで開発に抗することもできず、次第次第に虫食い化が進み、あるいは時として一挙に面的な払拭(?)が行われ、消滅してゆく運命にある。
 たとえばいわゆる「木密解消」が挙げられる。卑近なところで3月1日の『東京新聞』によれば、戦時中の特例手続きで強行された計画道路の事業決定が、最近になって次々に実施されているとのことである。都内28箇所、延長約26kmの「特定整備路線」とされた道路の拡幅が、住民の意向を顧みることなく進められようとしている。
 特定整備路線とは3.11の発災を受けて「都が掲げた『木密地域不燃化十年プロジェクト』の一環として、木造住宅の多い地域に幅の広い道路をつくり、大規模災害時の延焼を防ぐことを目的」とするとある。5mほどの道でも20mに拡幅されようとしている。
 へび道にはその指定は幸い行われてはいないが、建築基準法の道路要件からの例外ではない。いずれは最低でも4m以上への後退拡幅が迫られる。5mでさえ20mに拡幅しなければ防災にならないという視点からは、このような路地などはもってのほかであろう。魅力だの郷愁だの、味があるとか、生活の香りが漂っているとか、そんなことは眼中にない。馬の耳に念仏である。そればかりか、しまいには「人びとが焼け死んでもいいのか」という声が、恫喝のように響いてくる。
 そんなに路地が危険か。拡幅によってそこに暮らす人びとを追い立てなければ住民の暮らしと命、その地域、さらには都市の広域な安全は図れないのか。
路地が高層マンションより危険な理屈はない
 滅多に目にすることはないが、たまたま図書館で『世界』(2015年2月号)を表紙の目次タイトルに惹かれて手に取った。パラパラ読みをしていて別の論考に興味を抱いた。工学院大学の後藤治教授の寄稿による「木造密集市街地は解消すべきなのか?」という一文である。折しも谷根千や神楽坂の地域性を取り上げながら、界隈という概念を駆使して論点を多様に展開しているが、その中のひとつ、「発想の転換」という節から主張の一端を紹介して見たい。
 路地(細街路)や木密(木造住宅密集地域)には「防災上の課題はある」が、たとえば「現代の高層マンションはどうだろうか」、というくだりがある。路地には消防車、救急車が入れないという議論に対して、マンションの各戸へは(非常用も含めて)エレベータや階段、廊下伝いではないか。防災上、救護上、マンションがより安全という理屈はない、というのである。
路地の魅力よりも、路地の意味を
 そこで考えた。路地とは基本的に木造住宅密集地帯であり、高層高密度の共同住宅(高層マンション)は垂直方向につくられた非木造密集地帯であるといえる。
 高層マンションはその歴史と経験などの結果、さまざまな構造規制と設備要件が課されているが、それでもこの3月2日のように、25階建ての「高層住宅20階で火炎/東京・西神田3人けが」と報道された火災が発生している。24階で暮らす女性は、「すごい勢いで黒い煙が上がってきた。全部の窓を閉めたが、その後どうしていいのか分からなくなって、家の中を行ったり来たりしてしまった。本当に怖かった」(『朝日新聞』平成27年3月2日夕刊)と語ったという。
 翻って住宅地、密集市街地に、高層マンションに匹敵するレベルで防災インフラ整備が行われてきただろうか。既成の市街地でありながら、それを凌駕するほどの研究の蓄積や整備の努力があっただろうか。講じられている施策といえばせいぜい4m以上への拡幅推進策、準防火地域等への指定、消火器ポストの設置くらいではないか。そのような方向には大した資金も投入せず、徐々に、否、遅々と進まない行政施策で手をこまねいている。挙句には江戸時代の火除け地や戦時下の強制疎開よろしく、住民を立ち退かせては拡幅を図るという、実に時代錯誤で原始的な方策に頼っている。しかも、公共工事としてである。その前になすべきこと、なせることはまだまだあるのではないか。
 細街路を危険であると断ずる前に、歩行者らへの交通など、その安全面も汲み上げなければならない。地域社会の濃密な人的関係もないがしろにしてはならない。それは3.11以降クローズアップされてきた「絆」そのものではないか。
 このように路地については、「魅力」という視点を超えて、都市生活空間におけるその「意味」づけをしていく必要があると思っている。
川田伸紘(かわた・のぶお)
1944年兵庫県生まれ/神奈川県藤沢市江ノ島で育つ/1969年東京芸術大学卒業/1977年K設計工房設立
タグ:路地, 木密