建築士事務所の事業承継(M&A)のポイント
樽本 哲(樽本法律事務所 代表弁護士)
はじめに
 中小企業の休廃業・解散件数は、近年約4万社を超える数で推移している。休廃業・解散企業の代表者の約6割は70代以上の高齢者である(令和3年度第2版「事業承継マニュアル」p.20)。建築士業界においても高齢化が進んでおり、「建築士事務所に所属している一級建築士約14万人についてみると、50歳以上が6割以上を占めている」とのことである(平成30/2018年6月5日「建築士資格制度の改善に関する共同提案」p.3)。国交省のデータによると、2020年4月1日現在の一級建築士事務所の登録数は個人経営の事務所が29,903、法人経営の事務所が44,829、合計74,732であり、前年同時期よりも個人、法人ともに減少している。
 一級建築士事務所の減少の背景には、親族内や社内で後継者を探すのが難しい建築士業界の事情があると考えられる。すなわち、子や配偶者などの親族が事務所を引き継ぎたいと思っても、建築士の資格を有しているとは限らない。また、小規模経営の事務所では、後継者の候補となる人材を複数名採用して経営者としての適性の有無を見極めることも難しく、役員・従業員承継も簡単ではない。建築士事務所の顧客は、建築士の個性に注目して仕事を依頼することも多く、運よく後継者が見つかっても得意先が後継者に仕事を依頼してくれるとは限らない。
 このような事情から、親族内や親族以外への社内での事業承継を断念し、廃業を選択する事務所が少なくないように思われる。しかし、承継したいと思わせる魅力のある事務所であれば社外に後継者を求めることも選択肢のひとつである。第三者承継、すなわちM&Aによる事業承継である。大手M&A仲介事業者のウェブサイトで建築・土木の設計監理事業を営む事業者の事業承継・M&A案件を検索すると、全国で二桁の売り情報が確認でき、実際にM&Aによって第三者に対する事業承継が行われた事例も存在する。本稿ではこのM&Aによる第三者承継のポイントを解説する。
図1 事業承継とは
表1 第三者継承の手法の比較
事業承継とは
 事業承継とは、現経営者から後継者に事業のバトンタッチを行うことをいい、企業が培ってきたさまざまな財産(人・物・金・知的資産)が後継者に引き継がれる(前掲事業承継マニュアルp.27。図1参照)。
 親族内承継の場合、これらの財産の承継は、株式と事業用資産の譲渡(売買もしくは贈与)または相続によって行われることから、相続税対策が重要なポイントとなる。一方、第三者承継においては、現経営者と後継者との間に親族関係がないことから、現経営者の相続税対策は、事業承継によって現経営者が譲渡の対価を取得した場合に、事後的に問題となるのみである。
図2 事業譲渡
図3 株式譲渡
第三者承継の手法
 親族内や社内でなく、社外の第三者に対する事業承継は、株式譲渡(持分会社の場合は株式ではなく持分の譲渡を行う)または事業譲渡のいずれかの手法によることが多い。株式会社の場合には合併や吸収分割による事業承継も可能だが、小規模の事務所ではほとんど利用例がない。それぞれの手法の比較は表1の通りである。

(1)事業譲渡
 会社がその事業の全部または一部を他の会社に譲渡することを事業譲渡といい、会社法にその手続が定められている。会社以外の事業者(個人事業主を含む)がその事業を譲渡する場合は営業譲渡という(かつては会社においても営業譲渡という用語が使用されていたが、平成17年に会社法が制定された際に事業譲渡に変更された)。(図2)
 譲渡対象の事業とは、一定の目的のために組織され、有機的一体として機能する財産のことをいう(営業譲渡における営業も同様)。事業用の資産だけでなく、ブランドや顧客リストといった無形資産のほか、契約に基づく債権債務などが一体として譲渡される。
 事業譲渡は、次に述べる株式譲渡と異なり、当事者が承継したい事業のみを選んで売買することができる点で、使い勝手のよい手法である。会社法においては、少数株主保護の観点から、原則として株主総会における特別決議による承認が必要とされ、反対する株主には株式買取請求権の行使が認められているので、複数の株主に株式が分散している場合には注意を要する。
 従業員との雇用契約を承継相手に引き継ぎたい場合は、従業員ごとに個別の同意が必要とされている。また、譲渡対象の財産の移転の効力を他人に対抗するためには登記や登録が必要となる。
 事業(営業)譲渡のリスクとして、後継者である譲受人が譲渡人の商号を継続利用すると、譲渡人の債務を弁済する責任を負ってしまう点には注意が必要である。この責任は登記や債権者への通知によって免れることが可能なので、忘れずに対処したい(商法17条、会社法22条)。

(2)株式譲渡
 株主が保有する株式会社の株式を他に譲渡することを株式譲渡という。通常は譲受人から譲渡人に譲渡対価として売買代金が支払われるが、会社の再建や救済を目的として、従業員の雇用維持や借入金の返済等を条件に無償で譲渡されるケースもある。(図3)
 株式会社形態の建築士事務所は、経営者が保有する会社の株式を後継者である第三者に譲渡することによって、会社ごと事務所の事業を承継することができる。会社そのものが譲渡されるため、会社に属するあらゆる財産や権利義務はそのままの形で残り、新たな株主のもとで事業が継続されることとなる。そのため、財産や権利義務の移転に際して登記や登録、通知等は不要で、従業員の同意も必要ない。このように、株式譲渡は手続が簡便であることから、中小企業の事業承継によく利用されている。
 なお、ほとんどの中小企業では、株式の譲渡に株主総会または取締役会の承認を要する旨が会社の定款で定められているため、株式譲渡契約の締結時には対応する必要がある。また、株券の発行会社においては、譲渡対象の株式にかかる株券の交付が株式譲渡の効力発生要件とされている点にも注意が必要である。
図4 M&Aの手続きの概要
日弁連「事業承継の手法としてのM&Aの実務に関する連続講座 第2回」の資料p.12を参考に筆者作成。
表2 代表的な企業/事業価値評価の手法
第三者承継(M&A)の流れ
 もしすでに意中の後継者の候補がいて、経営者自らその相手に事業承継の提案や条件交渉、契約の締結等ができるのであれば、単独で事業承継を実行することも不可能ではないだろう。しかし、上述のとおり、候補者探しは簡単ではないし、譲受人によるデューディリジェンス*への対応や契約書の締結、会社法の定める手続の履行には専門的な知識が要求される。そこで、M&Aを実行するにあたっては、仲介事業者やM&Aのアドバイザー、士業の専門家らの助力を受けることが一般的である。仲介事業者等によって候補者とのマッチングを実施する場合の手続の流れは、図4の通りである。
* M&Aの譲受人は、想定外の損失を避けるため、事前に譲渡対象の会社ないし事業の内容、資産の状況、法的リスクの有無等を分析、検討する。これをデューディリジェンスという。
企業/事業価値の評価
 M&Aにおける譲渡対価は企業価値ないし事業価値を基準に決定される。代表的な企業/事業価値評価の手法を表2に掲げた。実際にはこれらを併用してある程度の幅を持たせた金額を算出し、それをもとに金額交渉が行われることが多いと思われる。
建築士の法的責任と事業承継
 個人経営の事務所の経営者または会社が、設計や監理等の業務に関して、債務不履行または不法行為により取引先らに対して損害賠償義務を負っていた場合に、事業承継がなされると後継者はどのような責任を負うことになるだろうか。
営業譲渡による場合には、あえて譲渡人の債務を譲渡対象としない限り、譲受人は譲渡人の債務を承継しないのが原則である。ただし、上述した商号の継続使用に伴う譲受人の債務弁済責任は、商号に限らず、事務所名称などの屋号にも類推適用されるとの裁判例がある点に注意を要する。譲受人がこの責任を負わないようにするには、譲渡人の屋号の継続使用を避けるか、債務の弁済責任を負わない旨を譲渡人と連名で債権者に通知しなければならない。
 他方、株式譲渡による場合は、会社が負担している損害賠償義務は当然に承継の対象となるため、デューディリジェンスの過程でそれが発覚したときは、譲渡価格に反映されることとなろう。譲渡後に発覚したときは、表明保証違反として、譲渡人に対して事後的に何らかの責任追及がなされる可能性がある。
最後に
 本稿では、建築士事務所の第三者承継について、事業譲渡と株式譲渡というM&Aのふたつの手法を紹介し、筆者が重要と考えるポイントを解説した。中小企業においてもM&Aが一般化するにつれて、以前は廃業を選択せざるを得なかったような事業者でも、事業承継が可能となるケースが生まれている。後継者不足等の理由で廃業をお考えの方も、一度は第三者承継の可能性を検討してみてはどうだろうか。
樽本 哲(たるもと・さとし)
樽本法律事務所 代表弁護士
1999年 早稲田大学法学部卒業/2003年 弁護士登録(第一東京弁護士会)/2018年 樽本法律事務所設立/建築紛争、倒産・事業承継・M&Aなどの経験を積み独立。さまざまな企業や非営利法人の社外役員や顧問弁護士を務める
カテゴリー:その他の読み物