ことのはじまり
まちの記憶を残したい──現在進行形の文化財保存日記 第1回
村田 くるみ(東京都建築士事務所協会 編集専門委員)
 文化財を、なぜ保存するのだろう? 「このような時代には、文化よりもまず福祉に予算を向けるべきでしょう」という声も大きい。この連載は、東京都内のふたつの区で奇しくも同時期に起きた近代建築解体の危機に、普通の市民がふと遭遇して、次第に文化財について考えるようになり……、という顛末の記録だ。いや、記録というよりは現在進行中の報告である。結末は、まだ誰にもわからない。
 (敷地、建物等の売買が進行中でもあり、区名、建物名等は伏せて表記しています。適宜、明らかにしていく予定ですが、ぜひ、どこの町のどんな建物の話なのか想像を巡らしてお楽しみください)。
女流文学者が母と通った質店を残せるか
──東京都内A区にて
 平成26年12月17日:『東京新聞』の社会面に大きな記事が出た。明治の著名な文学者にちなんだ建築(この稿では「建物X」)が解体の危機に瀕していると訴えるもの。いったいどんな建物なのだろうか。それは1860(万延元)年に創業し、122 年続いた老舗の質店で、建物は、蔵、座敷、見世の3棟から成るものだ。
 今、この建物が注目を集めている理由のひとつは、この質店に明治の女流文学者Cが足繁く通っていたからだ。文学者Cは、明治初期に現在の千代田区で生まれた。1890(明治23)年、18歳で母と妹と共にこの町へ移り住み、やがて歌人から小説家へと転身してゆく。しかし、生活は困窮し、頻繁に建物Xの質店に通う日々であったという。彼女は、その模様を日記に残している。

 二日晴天……(中略)……此月も○○屋(編集注:建物Xの質店の名)がもとにはしらねば事たらず小袖四つ羽織二つ一風呂敷につゝみて母君と我と持ゆかんとす
 蔵のうちに はるかくれ行 ころもがへ
(文学者Cの日記より)

 1896(明治29)年に24歳の若さで、文学者Cはこの世を去る。質店から香典が届いたそうだ。
 100年ほど経った1982(昭和57)年に質店は廃業したが、経営者の家族が代々、建物を守ってきた。関東大震災、東京大空襲、そしてバブル期の地上げも乗り越えて、2002(平成14)年からは、ふたつの市民団体の協力で年1回、一般公開。13年間に9,000人が訪れている。また、2003年には国の登録有形文化財に。なのに、それほどの文化財が消えてしまうかもしれないのだ……。維持が難しく、所有者が区への売却を希望したとのこと。しかし、区は複数の大学に買い取りを打診。それもまとまらず、所有者は更地での売却を決断したのだという。
 新聞記事は伝えている。「○○屋質店の魅力を語る」と題する緊急シンポジウムが午後7時から開かれると。今日の今日だが、急遽、友人と出かけてみることにした。
(こちらの事例は本稿脱稿までに保存の可否が判明しましたが、お知らせは後日のお楽しみといたします)。
建物X、外観。年1回、市民団体の協力で一般公開が続けられてきた。
蔵(左側) :幕末に創建。明治20年に足立区から移築された。木造2階建て。
座敷(中央):明治23年築。木造平屋。
見世(右側):明治40年築。木造2階建て。
建物X の内部。
文学者が富士を見て泣いた家を残せるか
──東京都内B区にて
 平成26年12月2日:紅葉も色あせ、師走の風が吹き始めた一日。ある公的施設でまちの魅力を紹介する展示が行われていた。そこに友人が飛び込んで来る。「建物Yの前に、移築希望者募集の看板が!」 えっ、なぜ? 徒歩2分の距離を確認に走る。所有者手づくりの段ボール製の看板が玄関脇に。「移築希望の方、連絡下さい」と記されている。「大工の棟梁であった祖父が建築」、「文学者Dが居住した家」とも。
 文学者Dは明治末期に地方で誕生、昭和5年に上京する。師と仰ぐ文学者を慕ってこの町に移り住み、作家人生の前期6年の大半を当地で過ごしている。周辺の文士たちと、酒を愛し将棋を愛し交流する中で、新進作家として注目されていく。その一方、盲腸炎がきっかけで薬物中毒に。ようやく中毒を脱したところで、入院中の妻の過ちを知らされる。その夜の記述に登場するのが、この「建物Y」の2階のトイレである。西の窓から富士山が見えたそうだ。

 ……三年まへの冬、私は或る人から、意外の事実を打ち明けられ、途方に暮れた。その夜、アパートの一室で、ひとりで、がぶがぶ酒のんだ。一睡もせず、酒のんだ。あかつき、小用に立つて、アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が見えた。小さく、真白で、左のはうにちよつと傾いて、あの富士を忘れない。窓の下のアスファルト路を、さかなやの自転車が疾駆し、おう、けさは、やけに富士がはつきり見えるぢやねえか、めつぽふ寒いや、など呟きのこして、私は、暗い便所の中に立ちつくし、窓の金網撫でながら、じめじめ泣いて、あんな思ひは、二度と繰りかへしたくない。昭和十三年の初秋、思ひをあらたにする覚悟で、私は、かばんひとつさげて旅に出た。 (文学者D の代表作品より)

 実は、区内の歴史的建造物や文学者の旧邸、遺品等が次々と姿を消していく中で、数年前からこの建物が気になっていた。しかし、どう動いていいのかわからないまま、文学者D に関する文学講座や文学ツアーを主催し、まちの皆さんに関心を持ってもらおうとしてきた。そこへ、突然の「移築希望者募集」だ。
12月8日:関係者から話を聞くことができた。当該敷地の売買に伴って、買手側は「更地購入」を希望したそうだ。そこで売手側は建物の移築希望者を求めているとのこと。土地の引渡しまでに移築者が現われなければ、建物Yは取り壊されるのだろう。文学愛好の仲間で額を寄せ合い、保存の可能性について語り合う。
12月16日:所有者と連絡がついた。これまで気がつかなかった視点を知らされた。「皆さんにとって、この建物は文学者Dの旧邸。でも私には単におじいさんが建ててくれた我が家。静かに、引き取ってくれる人を探したいだけなのです」……そうか。肝に命じておかなくてはならない。それにしても、いったい何から始めたら良いのだろうか。見当がつかない。
(「第2回:組織づくり」に続きます)
昭和初期築、木造2階建ての建物Y、外観。文学者Dは2階東南角の8 畳に暮らした。(この写真のみ撮影:桑田 仁。他は筆者による)
突然の看板にまちの人々も足を止める。
文学者Dが窓の金網を撫でながら泣いたとされる2階北東のトイレ入口。
なぜ建物を残すのか?──①

ある朝、部屋の間取りが変わっていたら……

昨年発刊の『新 江戸東京たてもの園物語』(東京都江戸東京博物館発行)は、同園保存建築物の紹介、宮崎駿・藤森照信対談など、楽しく読めるおススメの1冊。中でも、藤森論考「たてものの記憶」からは、建物保存、都市保存の意味を考えるためのヒントをもらえそうだ。
私たちは毎日眠る。寝ている間、自意識は消え記憶もない。なのに何故、記憶喪失のように不安にならないのか。そこに「景色」というものの役割がある。昨日と今日、部屋の景色が同じだということで、自分の連続性を信じ「今日も大丈夫だ!」と感じられる。もしも、寝る前に見ていた部屋の間取りが翌日変わっていたら……、自分の奥さんが全然違う顔をしていたら……。
自然の風景、そして都市や建築という「まちの風景」も同じこと。保存の意義は「人間のアイデンティティ、つまり自分が自分であることの確認にある」のだと指摘する。また、別の章では民家を「無意識の器」と呼び、民族意識や市民意識にまで掘り下げることで、移築保存の意味を説いている。
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