Kure散歩|東京の橋めぐり㉖
西河岸橋
紅林 章央(東京都道路整備保全公社)
名橋が目白押しの日本橋界隈
 東京都中央区日本橋。この地区には石造アーチ橋の「日本橋」以外にも、名橋が目白押しである。日本銀行裏には1877(明治10)年に架設された石造アーチ橋の「常磐橋」、震災復興で架設された鉄筋コンクリートアーチ橋の「新常盤橋」、大正時代の巨大な親柱や「迷子しらせ石標」が残された「一石橋」。そしてちょっと目立たないが、「日本橋」のひとつ上流に「西河岸橋」が架かる。
❶ 「日本橋」から江戸城方面を俯瞰した幕末の浮世絵(紅林蔵)。左側の土蔵群が西河岸町。
❷ 「日本橋」から見た「西河岸橋」の浮世絵(明治24/1891年、紅林蔵)。
❸ 東京上空を初めて飛んだ飛行船と「西河岸橋」(大正元/1912年、紅林蔵)。(絵葉書「パーセパル式初飛行船を一石橋より望む 大正元年十月廿六日」)
西河岸橋の誕生
 江戸時代、「日本橋」南詰から「一石橋」南詰に至る日本橋川沿いに設けられた荷上場は、「日本橋」の西側に位置することから「西河岸」と呼ばれ、土蔵が建ち並んでいた(❶)。やがてこの呼称は、日本橋川に面した細長い地区の地名となった。「西河岸橋」という名前は、この地名から取られたものである。この地区には老舗和菓子屋の榮太樓が建つ。同店には餡がぎっしり詰まった大福餅の「西河岸大福」があるが、これは1858(安政5)年にこの地に移転して以来の看板商品で、橋と同じく当時の地名の西河岸を冠したものである。
 江戸から明治に時代が変わり、日本橋川両岸の行き来がいっそう盛んになると、地元から新橋架設の声が上がり、榮太樓店主の細田氏らが中心となり寄付金を募り、東京府に陳情したが叶わず、ようやく「西河岸橋」が架設されたのは1891(明治24)年5月であった。❷は「日本橋」から架設直後の「西河岸橋」を描いた浮世絵、❸は1912(大正元)年の「西河岸橋」の写真である。アーチ橋に見えるが、トラス橋の一種の錬鉄製のボーストリングトラス橋という橋梁形式で、橋台と橋脚は煉瓦造、床版は木造で、橋長は52m、幅員は11mであった。
❹ 東京大学工学部に飾られた原龍太の胸像(2015年、紅林撮影)。
旧西河岸橋の設計者
  この「西河岸橋」の設計者は、東京府技師の原龍太(❹)であった。原は1854(安政元)年に、現在の福島市で藩に仕える医者の長男として生まれた。福島藩は戊辰戦争で賊軍となったため、明治以降家族は各地を流浪。苦学の末、1875(明治8)年に東京大学の前身である開成学校に入学し、1881(明治14)年に東京大学理学部土木工学科を卒業した。成績は優秀で、同期の野村龍太郎(後に鉄道院副総裁や東京地下鉄道株式会社社長などを歴任)と白石直治(後に東京帝国大学教授、関西鉄道会社社長などを歴任)と共に理系の3秀才と呼ばれた。
 原は卒業後東京府に入り、まず馬車鉄道の軌道敷設を担当し、1886(明治19)年に管理職である技師へと昇進。翌年には原口要の設計した「吾妻橋」で、設計補助と現場の監督を担った。これを機に原は、後に東京府を退職する1907(明治40)年までの20年間に渡り、東京の橋梁建設の中心を歩くことになる。隅田川の「両国橋」や神田川の「お茶の水橋」など、原は19もの橋の建設に関わった。これは明治期の橋梁技術者中最多で、その結果、明治末には「日本一の橋梁の大家」と称されるに至った。
また原は、このような優秀な橋梁技術者としての顔に加え、教育者としての顔も持っていた。東京府に籍を置いたままで、1888(明治21)年に攻玉社工学校教授に、1895(明治28)年に第一高等学校講師に、次いで1899(明治32)年に東京帝国大学教授に就任し、多くの技術者を育てた。東京大学工学部1号館には、現在も原の胸像(❹)が飾られている。これからも、原がいかに多くの学生から慕われ、優れた教育者であったかを想像できる。
❺ 関東大震災での「西河岸橋」の被災状況(紅林蔵)。
❻ 現在の「西河岸橋」(2025年、紅林撮影)。
❼ 現在の「西河岸橋」の橋脚。旧橋の煉瓦橋脚が再使用されている。
❽ 架設直後の「西河岸橋」(『世界橋梁写真設計図説』)。
わが国初の連続桁橋
 関東大震災で「西河岸橋」も被災した。地震の揺れで桁は落橋しなかったものの、床版が木造であったために地震後に発生した火災で焼け落ち通行不能に陥った(❺)。
 現在の橋(❻)は、東京市が1925(大正14)年に関東大震災の復興で架設した2代目である。橋梁形式は鋼鈑桁橋で、橋長52m、幅員11m。目を下方に移すと、橋脚と橋台が煉瓦造(❼)なのがわかる。これらは、1891(明治24)年に架設された旧橋を再使用したもので、関東大震災では、橋脚、橋台共に被害がなく健全だったことから、火害にあった桁のみ交換した。
 震災前の煉瓦橋脚や橋台を再使用した道路橋は、「両国橋」や「飯田橋」、「鎧橋」など都内に数橋現存する。これは、都心部の震度が5程度と推定されるなど比較的小さかったこともあるが、明治時代の技術力の高さを如実に示しているといえよう。
 橋は3径間であるが、桁をよく見ると、橋脚上で桁が分れていない3径間連続桁であることが分かる。連続桁は、耐震性、走行性、経済性などに優れるため、現代多くの橋梁で使用されている。だが計算が複雑なため戦前には設計できず、電子計算機が発達した戦後に登場した橋梁形式と、多くの橋梁技術者は思っている。しかし100年前の震災復興で、すでに設計されていたのである。
 震災復興で復興局は、橋の設計にあたり、在外日本大使館に対し、諸外国を代表する橋梁や最新の橋梁の写真や図面の収集を依頼した。集まったデータをもとに、「清洲橋」や「豊海橋」などの名橋が生まれた。
 復興局橋梁課長の田中豊らは、震災復興後に収集したデータが散逸してしまうことを危惧し、出版することで後世に伝えようと企画し、データを纏め『世界橋梁写真集』と『世界橋梁写真設計図説』が出版された。このうち『世界橋梁写真設計図説』では、震災復興で竣工した橋が冒頭で紹介されている。隅田川の「永代橋」、「清洲橋」、「言問橋」、「蔵前橋」、「千住大橋」、「相生橋」、神田川の「聖橋」、日本橋川の「豊海橋」。そして、これらのわが国を代表する橋と共に「西河岸橋」(❽)が紹介されている。
 決して大きな橋ではないのに紹介されたのは、当時の技術者たちも、わが国初の連続桁橋という設計の斬新さを十分理解していたゆえであろう。
❾ 「西河岸橋」側面図(紅林蔵)
❿ 架設直後の「西河岸橋」の正面(紅林蔵)。
⓫ 架設直後の「西河岸橋」の橋灯と高欄。奥に「日本橋」。
⓬ 側面は鈑桁だが内側はトラス構造。
現在の鋼橋の直系の先祖
 ❿、⓫は、完成直後の橋面と親柱・照明・高欄の写真であるが、現在と異なる巨大な親柱や橋灯が目を引く。
 さらに「西河岸橋」には、国内でこの橋しかないという、もうひとつの構造上の特徴がある。それは船に乗り、橋を下から見上げると明らかになる。外側は鋼鈑桁だが、内部は外見とは異なりトラス構造なのである(⓬)。
 このような構造(❾)にしたのには当然理由がある。震災前には、主構造はトラスで床は木造であったため、重量はかなり軽かったと思われる。震災復興では、橋台と橋脚を再利用したために、死荷重を従前に合わせる必要が生じた。このため、内側の桁をできるだけ軽くしなければならなかったのであろう。当時の東京市の技術者たちの苦労が偲ばれる。
 さて現在、日本橋周辺では首都高速の地下化に伴い、大手デベロッパーによる再開発が進められている。その関連で「西河岸橋」を架け替えるかもしれないという噂が聞こえてきた。
 震災復興では多種多様な橋梁形式が採用されたが、その多くは現在では使用されなくなった。「清洲橋」と同形式の自碇式チェーン吊橋は国内では同橋以外に施工例はなく、「永代橋」の形式のタイドアーチ橋も昭和30(1955)年頃を境に以降国内での施工事例はない。
 一方「西河岸橋」と同構造の連続桁橋は、現在国内で最も多く採用される橋梁形式になった。「永代橋」や「清洲橋」や「蔵前橋」ではなく、「西河岸橋」こそが現代の橋の直系のご先祖様なのである。しかも橋台や橋脚には、130年前に建設された煉瓦が今も使用されている。
 100年前の橋梁技術者たちが知恵を絞り、未来を見据えて設計した橋。橋梁技術者だけではなく、多くの土木、建築関係者にとって、さまざまなことを教えてくれる生きた教科書だと思う。ぜひ、この橋を活かしたまちづくりをしてもらいたい。
紅林 章央(くればやし・あきお)
(公財)東京都道路整備保全公社道路アセットマネジメント推進室長、元東京都建設局橋梁構造専門課長
1959年 東京都八王子生まれ/19??年 名古屋工業大学卒業/1985年 入都。奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『東京の美しいドボク鑑賞術』(共著、エクスナレッジ刊)