地産地消のまち、長岡を行く
平成27年度青年部会見学会
鈴木 文雄 東京都建築士事務所協会/鈴木設計一級建築士事務所
長岡まつり
 昭和20年8月1日に来襲したB29爆撃機の1時間40分にもおよぶ攻撃により、長岡の旧市街地は壊滅し1,500名もの尊い命が失われた。その惨状を忘れないため翌年に行われた「長岡復興祭」を由来とするのが「長岡まつり」。見学当日はその長岡まつりの開催前日であり、見学先のひとつである「アオーレ長岡」も準備による賑わいを見せていた。
 災害は被災者の「思い出したくない」、「忘れたい」という想いから、語り継ぎ難いとされる。防災の難しさがそこにある。戦争も同じであるが、戦争は人災であり、過ちを戒めるためにも、後世に伝えるべきとして祭の発祥につながることも多い。それにしても、惨禍の翌年に復興祭を開催したというのは何と力強いことか。古くは戊辰戦争で城郭や城下を消失したが負けずに立ち上がってきた先人たちの力強さと郷土愛が、市民のDNAに脈々と受け継がれているのかもしれない。対応してくれた皆さんの言葉の節々に「わがまちの自慢」が聞き取れたことも、それを裏付けているようだ。

*印撮影:鈴木文雄 無印撮影:佐藤博昭
長岡まつりの準備が進むアオーレ長岡のナカドマ。*
ナカドマに開かれた長岡市議場。
アオーレ長岡
 7月31日金曜日、予定通り午前10時過ぎにJR長岡駅に到着し、駅ビル2階からつながる「大手スカイデッキ」と称される渡り廊下で「アオーレ長岡」に入る。実に快適なアクセスである。
 アオーレ長岡は、東棟(市役所)、西棟(議会、市民交流ホール)、アリーナの3棟が「ナカドマ」(中土間)という屋根付き開放空間を囲むように構成された、地上4階建ての複合施設である。駅前という立地であるが、高層建物にしなかったことで周辺への圧迫感を感じさせない。2012年竣工の、建築家・隈研吾氏の設計によるもので、氏のこだわりと市民の想いとの融合を随所に垣間見ることができる。
 内装、外装に多用された木製パネルは、行政と市民の交流を市松模様として表現し配されている。「ナカドマ」の壁面の木製パネルは、市の15km圏内のスギの間伐材を利用したもの。暖かみを感じさせるばかりでなく地産池消の促進にも一役買っているというわけである。また、アリーナ内壁の木製パネルには、当施設が建設される以前にこの場で市民のシンボルとされていた長岡市厚生会館の緞帳とフローリング材が再利用されている。市民の愛着の想いが要望となり実現されたとのこと。さらには、階段に使われていた真鍮の手摺りもエレベータかご内の手摺りとして新たな息吹きを与えられていた。長く使われていたものの質感と風合いは、見る者、触れる者を安心させる力があることをあらためて感じる。
 1階の議場はガラスだけを介してナカドマとつながり、通行する市民の誰もが議事を眺めることができるのは圧巻!  政治の透明性が演出され市民にとって安心この上ない。また、天井の装飾として木製パネルを長岡大花火に模して配置している。真摯に市政に取り組むのだぞと先人たちに見下ろされているが如く、中途半端な覚悟では長岡市議は務まりそうもない。
アオーレ長岡の地下機械室を見学。
 その他にも特筆すべきは、最新鋭の高効率設備によりCO2排出を抑制していることである。可動式太陽光パネルによる発電・換気システム。中水を循環させた融雪システム。天然ガスによるコージェネレーションシステム。こうして得た年間約400tのCO2削減効果で環境に貢献している。次の見学地である南長岡ガス田で採取された天然ガスを使用することもまた、地産池消の考えに基づく。
 新たな市民のシンボルとして誕生した「アオーレ長岡」は、今後も市民の交流や憩いの場として活躍していくであろう。ちなみに、施設名の「アオーレ」は「会いましょう」を意味する地の方言で、小学校5年生の女の子による命名とのこと。人の交流する場として実に相応しい名称である。
南長岡ガス田遠景。
南長岡ガス田
 一行はマイクロバスに乗り込み、広大な信濃川を眺めながら長岡駅から南西に進むと、周囲は田園風景へと変わっていった。外気温は30℃をゆうに超えているであろうが、街中と違い湿気は少ないようだ。段々となっている田園に囲まれた登り坂を進むと、ほどなくして稲穂の隙間から人工的な建造物が顔を見せてきた。ポツリポツリと点在する「塔」は特段に景観を損なうものではなく緑に溶け込んでいたが、さすがに近づいてみるとこれぞプラントという迫力である。いわゆる「工場萌え」の方々にはたまらない外観なのであろう。乗車から約30分ほどで、目的地である「南長岡ガス田」に到着した。
 南長岡ガス田とは、長岡市街から西方約10km先に位置する、南北約6km、東西約3kmの範囲の地下約5,000mにある火山岩を貯留槽とする天然ガス鉱床のことであり、国内最大級の埋蔵量を誇る。この天然ガスを採取、精製しているのが日本最大の石油・天然ガス開発会社の国際石油開発帝石株式会社であり、パイプラインネットワークを通じて都市ガス事業者や工業用需要家に販売を行っている。
 われわれが最初に訪れたのは1984年に運転開始された「越路原プラント」。プラントは2カ所あり、各坑井から採取された天然ガスはこの越路原プラントと、北方約2km先にある1994年運転開始の「親沢プラント」で精製される。処理能力は越路原プラントが親沢プラントの倍以上となる。
 1970年代の試掘からの歴史、試掘井は30本を超え1本が30億かかること、ガスが貯留するグリーンタフ(緑色凝灰岩)層のこと、今後20年ほどの埋蔵量があることなどを詳しくお話しいただいた。驚くべきは井戸を掘る場所の選定は当てずっぽうなのだとか。グリーンタフ層の位置は詳しく分からないようだ。現在の井戸を掘りあてたのは勘のみということを知り、頭のよくない私は感覚を鍛えるべきと心に決めつつ現場見学へと向かう。
 ヘルメットと防護ゴーグルを装着し、越路原プラントからマイクロバスで南に1~2分の朝日原坑井に到着。猛暑の中、朝日原坑井の坑口装置(通称:クリスマスツリー)の前で説明に聞き入った。2004年の新潟中越地震後に設置された延長閉鎖バルブのこと、2mの積雪への対応、セキュリティのことなど、初めて目の当たりにした施設や技術の前ですべてが新鮮な情報である。その後、越路原プラントに戻り構内を循環視察した後、見学は終了となった。
 参加者にはグリーンタフのかけらが入ったストラップが配布された。これだけでも嬉しい見学記念品であるが、共に暑さを分かち合った同朋の証のように思えていっそう嬉しい。
 日本有数の米どころとその地下に蓄えられた膨大なエネルギー資源の共存する地。ここに国を支える食と住の産があることを知った今、特別な場所のように感じられてならない。未知の資源はまだまだ存在し専門知識と先端技術を結集し発見・活用されていくのであろう。エネルギー技術とは自然を制御する技術。故にひとつの間違いも許されない。福島の原発でのほんの小さな気のゆるみも存在してはならないのである。そこに商業的な採算がベースとなることは当然であろうが、それ以上に自然への配慮、またそれ以上に人間としての良心を忘れないで欲しいと切に願う。
朝日酒造の工場群。*
美術館のような朝日酒造事務棟内部。*/朝日酒造のエントランス、杉玉の下で集合写真。
朝日酒造株式会社
 南長岡ガス田から北に1kmほど、マイクロバスで10分程度の移動で朝日酒造に到着した。
 日本酒「久保田」の酒造元と言えば誰もが知るところであろう。この施設も南長岡ガス田からの天然ガスの供給を受け操業している。つまり米、水、エネルギーのすべてが地産というわけである。
 ところでみなさんは酒蔵というとどんなイメージを思い浮かべるだろうか? 土間に置かれた大きな木製の樽の中を杜氏が長い棒でかき回す絵柄が浮かぶのは私だけではないはず。そして薄暗い醸造場の中に充満する発酵したアルコールの香りにほろ酔い気分にさせられるのである。
 この施設を見た参加者のひとりの第一声が「ビール工場!?」。山間の広大な敷地に20mを超えるであろう鉄筋コンクリート造の棟がいくつも建ち並ぶ様を目の当たりにし、老舗酒蔵の概念が吹き飛ぶ。なんだかすごいぞ朝日酒造。
 工場は稼働しておらず事務所棟のみの見学だった。酒蔵を匂わせるものはエントランスにぶら下がった杉玉のみで内部はまるで美術館のよう。20mはあろう吹き抜け空間にはステンドグラスが施され、なにやらパイプオルガンの音色が響く。この事務所棟は独立した建物ではなく製品工場と呼ばれる建物の一部分である。設計は(株)長建設計事務所で2006年に竣工している。その他に、精米棟、調合棟、貯蔵棟など10を超える巨大な施設が建ち並ぶが、ほとんどの建物が蔵を意識した切妻屋根となっているため一般的な工場に見られる無機質さをそれほど感じさせない。1830年創業という歴史を醸し出しつつ威厳を放ちながら自然の中にそびえている。
 工場群を取り囲む周辺地域は、製造米や実験用米の田、自然公園、もみじ園、ホタルの観賞池などがあり「越路の里」と称し自然保護に努めている。この地で酒づくりに取り組むものとしての使命をもって自然を守っているのである。パンフレットに記載されている「越路の里は私たちの誇り」という言葉に感銘を受ける。たいへんな労力であろうが、ぜひ、この自然を保っていただきたいと願う。
見学会を終えて
 青年部会としては初めての遠方への研修はトラブルもなく無事終了した。
 著名な建築家の設計によるデザインに触れ、先端のエネルギー技術を学んだ越後の旅は、猛暑の体感と相まって忘れられない思い出となった。建築物は写真で見るだけでは半分も理解できない。なぜこう企画したのか? なぜこのデザインとなったか? その地の気候風土や歴史や慣習を知ってこそ見るものの意見がまとまる。だからこそ、その地に赴くことが必要といえる。その意味では、やはり悔やまれてならないのが長岡まつりの前日の日帰り訪問だったこと。旅程に組み込めなかったことを反省する次第であり、今後はさまざまな事柄にアンテナを張り巡らすようにしたい。
 夕暮れ前の長岡駅周辺はそれほど混雑していなかったが、明日のまつりに向けての活気が感じ取れた。あるものは今日中に仕事を終えようと躍起になり、あるものは準備の大詰めで奔走している。目には見えない気持ちの盛り上がりは、まつりの前には必ず感じられるものだ。
 長岡まつりのフィナーレである大花火大会がまちを彩るとき、犠牲となった方々の想いと慰霊の想いが夜空で交わり、ほのかな火花が平和の祈りとして長岡市内に降り注ぐのである。幾多の困難から立ち上がった長岡の方々と深く語り合えたら、自助・共助の精神も学び多かったのではないか。ぜひまた来てみたいという想いを胸に帰路に着いた。
鈴木 文雄(すずき・ふみお)
建築家、有限会社鈴木設計代表、東京都建築士事務所協会青年部会、墨田支部
1984年 東海大学建築学科入学/1987年 同校中退、東京デザイナー学院建築デザイン科入学/1989年 同校卒業/有限会社鈴木設計一級建築士事務所入社、現在に至る
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