伝統的な左官の技能・技術は、時代とともに発展し向上してきました。その歴史を時代ごとに紹介します。
1609(慶長14)年『鍋島直茂考普』には「全国において、25の天守閣が建築中」とあり、城郭建築に欠かせない左官を保護するとともに、戦時の労働力としても確保したため、職人の生活基盤が安定し、左官としての集団が形成されました。
このころから漆喰の糊として使われていた角又(海藻)は高価な米糊に代わり、それが権威の象徴となりました。また、城下では頻繁に大火にみまわれたことから、幕府は土蔵建築を奨励しました。
錦絵に日本橋では土蔵群が描かれていました。これにより、棟梁のもとで施工していた左官と大工の比重が逆転しました。このころ、現在の組合のもととなる「太子講」が生まれました。
社会が安定して町人が豊かになり、数寄屋造りが一般にも普及した結果、それまでの白壁一色から多様な色壁が登場し、漆喰工法は全国的に同一の水準に達しました。(5、6)
1874(明治16)年には、近代化推進のため、官営のセメント製造所が深川工作分局として設立されました。また西洋建築として輸入されたタイルや煉瓦を施工するタイル職人や煉瓦職人は左官から派生しました。
戦後進駐軍の施工法は合理的で施工管理が厳しく、緻密な検査基準がありました。これは職人の「腕と勘」の世界を覆し、その後の左官の管理・検査の指針となりました。沖縄米軍基地で施工されていた床コンクリート直押さえ工法が普及し、床モルタル塗りが減少していきました。
昭和の後半には、2度のオイルショックなどにより、さらにコスト削減が追求され、室内が高断熱・高気密化し、カビ・ダニの発生がアレルギー問題に発展しました。戸建て住宅などでは、外壁に窯業系サイディングが広まり、内壁は石こうボードにビニールクロスとなり、野丁場ではビル、マンションの高層化による軽量化が図られ、ますます左官工事の減少を招き、左官職人数も減り続けています。
最近になり、漆喰・珪藻土・土等の天然素材を使用した壁が見直されるとともに、手仕事による仕上げの多様性や味わいを持つ左官仕上げのよさが再認識されてきました。特に「和モダン」と呼ばれる、日本らしさと欧米のモダンスタイルを併せ持つ建築には、多彩な左官仕上げが使われることが増えてきています。またその意匠を効果的に応用したデザイン壁も若干ではありますが増えてきています。(10、11)
奈良・飛鳥時代(592~784)
577年の法隆寺建立にあたり、工人として渡来人を招いたことからもわかるように、仏教伝来とともに日本の土壁の歴史が始まりました。藤原京期(694~710)に築造された高松塚古墳には漆喰が使用されましたが、当時は土工の指揮のもと土壁が塗られ、白壁に仕上げるのは絵師の指示による壁画のためでした。(1)
平安時代(794~1185)
この時代、粘土を築きあげて造った「築地壁」と呼ばれる土塀が多く見られるようになりました。また「京の大火」などの災害にみまわれ、宮中の土木工事に属(官職)として出入りを許されていたことが記録にあります。(2)
鎌倉・室町時代(1185~1573)
武士が台頭し戦乱の時代となり、戦乱から財産を守るために木造の倉に耐火性を持たせる必要性から漆喰塗り壁となりました。室温が一定に保たれる利点を利用して、味噌や酒などの醸造文化が発展しました。(4)
安土・桃山時代(1575~1603)
千利休が完成したと言われる草庵茶(佗茶)における草庵茶室は「不足の美」、つまり華美を避け完璧を求めない精神性を表し、ひなびた数寄屋の壁が宗教から還俗させ、社会から解放させる契機となりました。そこには日本文化の本性と日本人の精神性が宿っています。(3)
江戸時代(1603~1868)
1605(慶長10)年『宇都宮大明神御建立御勘定目録』に「左官作料永楽三百三十文 但し白土紙油共」とあり、初めて公文書に「左官」の文字が出現しました。1609(慶長14)年『鍋島直茂考普』には「全国において、25の天守閣が建築中」とあり、城郭建築に欠かせない左官を保護するとともに、戦時の労働力としても確保したため、職人の生活基盤が安定し、左官としての集団が形成されました。
このころから漆喰の糊として使われていた角又(海藻)は高価な米糊に代わり、それが権威の象徴となりました。また、城下では頻繁に大火にみまわれたことから、幕府は土蔵建築を奨励しました。
錦絵に日本橋では土蔵群が描かれていました。これにより、棟梁のもとで施工していた左官と大工の比重が逆転しました。このころ、現在の組合のもととなる「太子講」が生まれました。
社会が安定して町人が豊かになり、数寄屋造りが一般にも普及した結果、それまでの白壁一色から多様な色壁が登場し、漆喰工法は全国的に同一の水準に達しました。(5、6)
明治時代(1868~1912)
維新により流入した西洋建築の工法・技術は即座に吸収され、独自の技法の開発を競い合い、左官職人は、セメントの使用や漆喰装飾を創造し「伊豆長八」などの名工を多数輩出して、日本の技術の高さを立証しました。また、現在の鏝の元といわれる「中首鏝」が開発され、生産性が飛躍的に向上しました。(7)1874(明治16)年には、近代化推進のため、官営のセメント製造所が深川工作分局として設立されました。また西洋建築として輸入されたタイルや煉瓦を施工するタイル職人や煉瓦職人は左官から派生しました。
大正時代(1912~1926)
1923(大正12)年の関東大震災により土蔵建築は壊滅的な打撃を受け、壁は木造土壁からコンクリートに、左官材料はセメントモルタルへと代わっていきました。総合請負制度の普及で左官は下請的存在となり、設計・企画などの提案力は設計・元請の範疇となりました。(8、9)
昭和時代(1926~1989)
建築形態が鉄筋コンクリート構造になり、現在の左官工法の基礎となりました。仕上げは、人造石塗り研ぎ出し(人研ぎ)や洗い出し、現場テラゾー仕上げ、リシン掻き落としなど擬石仕上げが隆盛となりました。一方、徒弟制度は次第に衰退していきました。戦後進駐軍の施工法は合理的で施工管理が厳しく、緻密な検査基準がありました。これは職人の「腕と勘」の世界を覆し、その後の左官の管理・検査の指針となりました。沖縄米軍基地で施工されていた床コンクリート直押さえ工法が普及し、床モルタル塗りが減少していきました。
昭和の後半には、2度のオイルショックなどにより、さらにコスト削減が追求され、室内が高断熱・高気密化し、カビ・ダニの発生がアレルギー問題に発展しました。戸建て住宅などでは、外壁に窯業系サイディングが広まり、内壁は石こうボードにビニールクロスとなり、野丁場ではビル、マンションの高層化による軽量化が図られ、ますます左官工事の減少を招き、左官職人数も減り続けています。
最近になり、漆喰・珪藻土・土等の天然素材を使用した壁が見直されるとともに、手仕事による仕上げの多様性や味わいを持つ左官仕上げのよさが再認識されてきました。特に「和モダン」と呼ばれる、日本らしさと欧米のモダンスタイルを併せ持つ建築には、多彩な左官仕上げが使われることが増えてきています。またその意匠を効果的に応用したデザイン壁も若干ではありますが増えてきています。(10、11)
山口 明 (やまぐち・あきら)
東京都左官職組合連合会青年部平成会、二級建築士事務所山口巧芸舎
1947年京都生まれ/1970年 日本大学理工学部卒業/石油会社に入社。2000年退社し、埼玉県仕上高等専門校及び東京都立足立専門校を卒業後、有限会社原田左官工業所に入職。2002年に建築工事管理及び左官業である二級建築士事務所山口巧芸舎を設立、現在に至る
1947年京都生まれ/1970年 日本大学理工学部卒業/石油会社に入社。2000年退社し、埼玉県仕上高等専門校及び東京都立足立専門校を卒業後、有限会社原田左官工業所に入職。2002年に建築工事管理及び左官業である二級建築士事務所山口巧芸舎を設立、現在に至る
カテゴリー:構造 / 設備 / テクノロジー / プロダクツ
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