東京都建築士事務所協会研修委員会 研修旅行
世界遺産と長崎の教会群を見る
安藤 暢彦(東京都建築士事務所協会理事、千代田支部/株式会社マルタ設計)
藤井 裕(東京都建築士事務所協会港支部/株式会社ユニバァサル設計)
益子 拡(東京都建築士事務所協会港支部/株式会社ユニバァサル設計)
map。
宝亀教会前でツアーガイドと。
平戸のまちなみ。
展海峰で記念撮影。
旅行記
 例年海外研修旅行として企画されていた東京都建築士事務所協会研修委員会の主催による研修旅行を、今年度初めて訪問先を国内に設定し、5月に予定していたものであったが、4月に発生した熊本地震の直後ということもあり延期となっていた。それでも、復興を目指す九州への研修旅行は実施すべきとの声に支えられ、改めて日程を組み直し11名の参加者を得た。
 2015年に「明治日本の産業革命遺産」のひとつとして世界遺産に登録された「軍艦島」こと端島が主な訪問地として選択された。これは、当時の生活や生産を物語る貴重な遺産であると同時に、日本で最初のRC造の共同住宅をはじめとするコンクリート建造物から、人びとの息づかいが途絶えた後の風化により変化した現状を目の当たりにすることが貴重であると感じられたからである。
 一方で長崎の教会群は、一度、「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として14の施設群を世界遺産登録への推薦をしたものであったが、キリスト教の信仰が禁じられた時期に焦点を当てるべきだとのイコモスからの勧告を受け構成を見直し、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」として再推薦されている施設群である。外来の神父が伝えた技術と日本の大工との融合により、興味深い教会施設がいくつも点在する。様式も多様であり、構造も木造から石造、鉄筋コンクリート造までさまざまである。その多様さを見学できるように企画した。
 初日、早朝便で羽田から空路長崎空港へ到着するとかなりの雨。時間の経過と共に風も強くなり、不安な気持ちを抱えながら市内に向かうバスの中で、船会社から軍艦島へのフェリーは「本日欠航」との知らせを受けた。代わりの見学先を模索する一方で、翌日の土曜日への振り替えを検索したが同じ会社では満席。事務局担当にお願いして、すべての船会社の翌日ツアーを探してもらい、なんとか翌朝10名の席を確保した。また初日と2日目の行程を入れ替えることで、おおむね事前に予定した施設訪問を実現できた。これには、変化に動じることもなく、冷静に所要時間を予測しながら運行していただいたドライバーによるところも大きかったように思う。
 2日目からは天候にも恵まれ、ハプニングもあったが、参加者の方々が刻々と変化する行程にも柔軟にかつ快く応じていただき、思い出深い旅行となった。平戸の宿泊先で、美しくライトアップされたザビエル教会を見ながら浸かった温泉の心地よさも、旅の奥行きを感じたひと時であった。
 無事終了できた安堵感と共に、参加していただいた方々に深く感謝します。
(安藤 暢彦)



出津教会堂。
大野教会堂。
左:紐差教会。右:田平天主堂。
長崎の教会群を訪ねる
 長崎から平戸までの教会群のうち7カ所を初日と3日目に見て回った。これらは、世界遺産登録を目指している構成資産の一部で、その遺産の価値は「禁教、潜伏期」に焦点をあてたものとなっている。
 今回は、例年の海外研修ではなく国内であったが、だからこそ世界から日本に向けた視点を意識して改めてその価値を確認するよいテーマであったと思う。
 教会群見学のスタートは、宗教史上の奇跡「信徒発見」(禁教250年間潜伏)の場であった「大浦天主堂」だった。これはまた、ことごとく丘の上にある教会群を訪れるための、階段や坂を上る足腰の鍛錬のスタートでもあった。初日は軍艦島への船が欠航となる悪天候の中、「出津教会堂」(煉瓦造)と「大野教会堂」(石造)を訪れた。以降訪れた教会も含め、すべてがヨーロッパに見られるような教会建築とは様相が異なり、禁教時代の面影を残す集落の景観に馴染んだ建築であった。特に「大野教会堂」は、普通の民家のような外観でありながら半円アーチの開口部や、当時赴任していたド・ロ神父が考案した地元の玄武岩を使った「ド・ロ壁」が独特の風合いを出し、神父と信者が力を合わせてつくり上げた融合した建築の文化であったことが感じられる。合間に見学した「ド・ロ神父記念館」に展示される当時の道具や書類を見ても、いかに彼らが親密に生活を共にして、これらの文化を築き上げたかが分かる。初日は急な階段を上り切った先にある「黒崎教会」を最後に宿に向かう。
 2日目は軍艦島と展海峰。3日目に「宝亀教会」(木造)、「紐差教会」、「田平天主堂」(煉瓦造および木造)を回り、フランス人神父から西洋技法を習得した鉄川与助の功績を見る。教会の建築文化の融合の担い手が、神父から日本人の棟梁建築家に移っていき、その成果もより洗練されてきたように感じる。和風の花柄の紋様が印象的であった。
 いくつもの教会群を観てもっとも印象的であったのは、現在でもそこでミサが行われていることだった。教会群が生きた建築であることに感銘を受けた。
(藤井 裕)



軍艦島を海上から望む。
高島石炭資料館の軍艦島模型。
30号棟アパート。
端島小学校と鉱員住宅。
撮影:濱田 信彦(賛助会員会/株式会社東京建築検査機構)
軍艦島
 当初の予定では研修初日の午後に訪れる予定だったが、悪天候で船が欠航となったため日程変更により2日目の午前に上陸となった。ガイドの話では1年のうち1/3は、欠航となるか出航できたとしても島に上陸できないとのことなので、まだ運がよかったのかもしれない。さらに上陸当日は快晴で波も低く、これほどの好天はめったにないとの説明があった。桟橋からクルーズ船「ブラックダイヤモンド」に乗り込み、まずは高島に上陸。高島には「高島石炭資料館」があり、高島炭鉱や端島炭鉱の当時の様子が展示されていた。また軍艦島の全体模型も展示されており、島の建物の密集状況を詳しく理解することができた。
 そこから再度クルーズ船に乗り込み10分ほどかけて軍艦島に到着。まずは島の周囲をクルーズ船で1周した。海上から見る軍艦島はまさに軍艦のようであり、街が賑わいをみせていたときは相当な眺めであったろうと思う。そしていよいよ上陸となったのだが、堤防の上で釣りをしている人がいることがまず最初の驚きであった。
 無人島となってから40年以上が経過している歴史が示す通り、建物はどれも風化が進んでおり、コンクリートの剥落や鉄筋の腐食がいたるところで見受けられた。また、スラブが崩落している箇所や、木造や鉄骨造に至っては完全に倒壊しているものも多かった。日本最古の鉄筋コンクリート造高層アパートである「30号棟」についても築100年が経過しており、コンクリートの劣化を知る上で貴重な資料となっている。このまま何もせずに時が過ぎるのを待っていては建物が崩れていく一方なので、建物を保存する方法を早急に考えなくてはいけないと痛切に感じた。
 しかし、何といっても特筆すべきは、この島が一時的にせよ日本で、もしくは世界でも有数の高い人口密度の地であって、島のそこかしこに人びとの熱気や子供の遊ぶ声が渦巻いていたということではないだろうか。そこに思いを馳せながらこの島を見るとき、本当の島の価値が見えてくるのかもしれない。
(益子 拡)
安藤 暢彦(あんどう・のぶひこ)
東京都建築士事務所協会理事、千代田支部、株式会社マルタ設計
1958年生まれ/日本大学大学院理工学研究科修了/1983年株式会社マルタ建築事務所(現:マルタ設計)入社/現在、同常務取締役
藤井 裕
株式会社ユニバァサル設計
1967年生まれ/19924年 東京理科大学建築学科卒業後、出光興産入社/2000年から 設計事務所、展覧会企画会社、コンピュータソフト会社、造園会 社に順次勤務/2012年 株式会社ユニバァサル設計入社
益子 拡
東京都建築士事務所協会港支部/株式会社ユニバァサル設計