Kure散歩|東京の橋めぐり 19
勝鬨橋(その2)
紅林 章央(東京都道路整備保全公社)
❶現在の勝鬨橋(2018年、紅林撮影)
❷計画図第3案。川底トンネルとゴシック風の塔屋がなくなり、側径間の橋梁形式も中路式アーチ橋からブレストリブタイドアーチ橋へ変更された(東京都建設局蔵)。
❸図面作成日は昭和5年5月と記され、岡部が退職後作成されたことが分かる。
❹計画図第4案(仮称)。跳開部の橋梁形式が、上路式トラスから下路式トラスへと変更された。側径間と跳開部のトラス上弦材が連続した曲線で描かれている(東京都建設局蔵)。
❺作成日は昭和7年2月、設計者欄に「安宅」とサインされている。
❻計画図第5案(仮称)。跳開部の橋梁形式が、下路式トラスから下路式鈑桁へと変更された(東京都建設局蔵)。
❼作成日は昭和7年11月、設計者は「安宅」である。
❽計画図第6案(仮称)(採用案)。現橋の跳開部の縦断面図である(東京都建設局蔵)。
❾安治川隧道(トンネル)エレベータ入口。岡部の設計により生まれた国内初の沈埋トンネル。1977年までは、エレベーターを利用し小型車も通行できた。左側の閉じたシャッターが、小型車用エレベータ入口。(2023年、紅林撮影)
計画の変更
 東京市橋梁課長 岡部三郎は、市の長年の懸案であった「勝鬨橋」の事業化を果たすと、1929(昭和4)年12月、突如東京市を退職した。岡部が中心になって作成した計画案は、中央の橋桁が跳開した間も交通が滞ることがないようにと、橋脚間に小型自動車が通行可能な川底トンネルを設け、橋面とトンネルの行き来は、橋脚内のエレベータで昇降するという斬新なものであった。この案は、新聞や雑誌を飾り、多くの市民の注目を集めたが、そのまま建設されることはなく、数回の変更を経て現橋に至った。その変遷を以下に時系列で整理する。
(1)計画図第3案
 岡部が去って約1年後の1930(昭和5)年10月17日の『読売新聞』に、新たな「勝鬨橋」の完成予想図が掲載された。それは、「計画図(第参案)」と記された❷をもとに描かれたものであった。図面の作成日は「昭和5年5月」(❸)と記されており、岡部の退職後に描かれたことになる。
 この案では、岡部の案のセールスポイントであった川底トンネルは削除された。そして側径間の橋梁形式は、中路式アーチ橋から、アーチスプリキングをアーチタイで連結したタイドアーチ橋に変更になった。こうすることで、アーチにより生じる水平力は相殺され、橋台や橋脚の大きさは縮小された。また、意匠的特徴であった4本のゴシック風の塔や、大きな親柱も削除され、シンプルなデザインになった。
 おそらく、岡部の退職後、橋梁課内で構造の変更が協議され、施工が困難で工事費が高く、その一方小型車しか通行できないなど、費用対効果に乏しい川底トンネルが見直された結果であったと思われる。
 ただし跳開部は、橋脚前面間の純径間長が現橋では44mであるのに対し、この案ではそれ以前の案と同様の36.118mと狭く、橋梁形式も、現橋は下路式鈑桁橋であるのに対し、上路式トラス橋と異なる。また側径間の形式も、現橋はアーチリブが鈑構造のソリッドリブタイドアーチ橋であるのに対し、この案ではトラス構造のブレストリブタイドアーチ橋と異なる。
(2)計画図第4案(仮称)
 ❹の図面には、決済欄(❺)に作成日が「昭和7年2月」と記され、設計者は「雑賀」から「安宅」へ交代したことが分かる。安宅は現在の「勝鬨橋」の設計者である安宅勝であり、当時東京市橋梁課技師を務めていた。東京帝国大学土木工学科を卒業し、横河橋梁製作所(現・横河ブリッジ)を経て1927(昭和2)年に東京市に入り、「勝鬨橋」を設計後、その設計により母校で学位を取得して京城帝国大学教授に転職し、戦後は大阪大学の教授を務めた。
 図面タイトルは「橋脚一般図」と記されている。跳開部は、純径間長は現橋と同じ44mに伸長され、橋梁形式は下路式トラス橋に変更されている。側径間は一部のみが描かれているが、第3案と同様のブレストリブタイドアーチ橋と判断できる。また側径間と主径間のトラスの上弦材は、連続するひとつの曲線で描かれており、第3案までの側径間と主径間の連続性が途絶えたフォルムからは改善された。
 第3案では、跳開を操作する運転室が描かれていなかったが、この案では、橋脚上に塔屋が1棟建てられ、ここに運転室が計画されていた。塔屋外壁は、橋脚から連続して切り石が貼られ、屋根は現在の陸屋根ではなく方形造りであった。
(3)計画図第5案(仮称)
 ❻の図面には作成日「昭和7年11月」と記され、設計者欄には第4案と同じく「安宅」とサインされている(❼)。この案が第4案と異なるのは跳開部の桁形式で、トラスから現橋と同じ下路式の鈑桁に変更されている。これは関東大震災の復興橋梁と同様に、経済性(=トラスは工事費が安い)より、空爆などを想定して耐久性や安全性(=鈑構造)を優先したためと想定される。
 なお、塔屋は依然として1棟しか計画されておらず、屋根も方形造りであった。
(4)計画図第6案(仮称)(採用案)
 ❽は現橋の跳開部と橋脚の側面図である。可動桁は、第5案と同様な下路式の鈑桁である。製作年月日は記されていないが、1933(昭和8)年6月23日に起工式が挙行されていることから、同年上半期に❽の構造が確定したと推察される。塔屋も4カ所設けられ、築地方下流側は運転室、対角線の勝鬨方上流側は見張り室、築地方上流側は宿直室、勝鬨方下流側は倉庫というように、機能は分離された。しかし、運転室と見張り室以外のふたつは、あえて橋上に設置する必然性も乏しいことから、塔屋を4棟設置した理由は、外見的バランスを取ったためと推察される。
安治川隧道
 岡部の辞任は余りに突然であったため、周囲の関係者の多くは驚いたという。岡部は震災復興を期に、次々に竣工していく橋を見て、また長年の懸案だった「勝鬨橋」の事業化を果たして、自らの東京市での仕事はやり終えたと悟ったのかもしれない。岡部の東京帝国大学の卒業設計(1916/大正5年)は、「勝鬨橋」の試設計であった。明治時代末には、すでに可動橋との方針が示されていたことから、この岡部の設計も可動橋であった可能性が高い。もしかしたら、決裁印を押した「計画図(第一案)」は、卒業設計そのものだったかもしれないと思う。
 岡部が計画していた「勝鬨橋」、デザインも古典的で、復興事業で誕生したモダニズムデザインの他の隅田川の橋とは調和しなかったかもしれないし、エレベータ付き川底トンネルは、戦後到来した自動車社会では、まったく役に立たなかったであろうことは自明である。しかし、当時の土木技術の粋を集めた構造、河川のエキスパート岡部のアイデアも見てみたかったと思うのは私ひとりではないと思う。
 岡部は東京市を退職後、大阪の民間会社へ転じ、ここで安治川を渡る川底トンネル「安治川隧道」の建設を大阪市役所へ提案した。淀川(大川)の下流部の安治川には、旋回式可動橋の「安治川橋」が、1885(明治18)年の洪水で支障となり撤去されて以降架橋されず、横断は渡船に頼っていた。沿川には工場や倉庫が建ち並び、橋は頻繁に航行する大型船の支障となるため架設できなかったのである。しかし、このことは大阪市西部の交通にとって、大きな障壁となっていた。
 案は採用されて工事が行われ、1944(昭和19)年に、日本初の沈埋トンネルとして「安治川隧道」(❾)が開通した。このトンネルは、「勝鬨橋」の当初案と同様に小型車が通行でき、地上とトンネルはエレベータで結ばれ小型車も載れる構造であった。1977(昭和52)年以降、小型自動車は利用できなくなったが、現在も1日6,000人の歩行者、自転車に利用されている。勝鬨橋で採用を見送られた岡部のアイデアは、大阪で見事花を開いたのである。
紅林 章央(くればやし・あきお)
(公財)東京都道路整備保全公社道路アセットマネジメント推進室長、元東京都建設局橋梁構造専門課長
1959年 東京都八王子生まれ/19??年 名古屋工業大学卒業/1985年 入都。奥多摩大橋、多摩大橋をはじめ、多くの橋や新交通「ゆりかもめ」、中央環状品川線などの建設に携わる/『橋を透して見た風景』(都政新報社刊)で土木学会出版文化賞を受賞。近著に『東京の美しいドボク鑑賞術』(共著、エクスナレッジ刊)